1. First catch your hare
*
愛人と書いてマナトと読む少年は、駅ビルに直結したカフェのカウンターから外を眺めていた。
両親曰く、人を愛する心を大事に、という思いから名付けられた名前なのだが、字面が字面なのでマナト自身は色々な場面で辟易している。
待ち合わせ相手の、十年来の幼馴染はなかなかやってこない。
マナトのすらっとした鼻梁。綺麗な二重。猫のようにくりっとした大きめの黒目。
俳優の誰々に似ている、アイドルの誰かしらに似ている、とひそひそ言われるのはいつもだった。
そんな周囲の浮ついた雰囲気を察知した件の幼馴染が、「身長さえ足りてれば芸能界行けたかもね」と場の空気を一瞬で冷やすのが、毎回だった。
マナトは残念ながら、身長が同年代の平均より少し低い。
相反して、幼馴染は同年代の平均どころか日本の成人男性の平均身長より5cmほど高い。
マナトはこれまでも今でも、幼馴染の背に追いつけた記憶がない。
そんな幼馴染が無表情で、青信号になった横断歩道を渡ってくる姿が見えた。
170cm後半の長身に、すらりと伸びた手足。腰の辺りまでの長さの真っ直ぐな黒髪と、切れ長の眼。
人目を惹く容姿ながら、強い意志を感じさせる足取りで進む姿は、軽々しく声をかける隙を与えない。
こちらを見た幼馴染に、窓越しに手を挙げて合図すると、無表情で小さく手を振り返してきた。
数分しないうちに、コーヒー片手に幼馴染が現れた。
「バイト長引いちゃって、ごめんごめん」
そう言いながら、幼馴染はマナトの左隣のスツールに腰掛け、荷物とコーヒーをカウンターに置く。
「表参道のカフェの方?」
「いんや、今日はレトロ喫茶店のホールのバイト」
幼馴染は毎日、何かしらのバイトをして暮らしている。まるで、止まったら死ぬマグロみたいに。
幼馴染とその母親が、名前が長くて聞き馴染みのない国に出かけて行って、テロか何かに巻き込まれたと聞いたのは去年の話。
無事に帰ってきたのは、この幼馴染だけだった。
「香水つけ過ぎだから控えろって毎回言ってんのに変えないね」
そう言って笑いながら、幼馴染はマナトが被ったベースボールキャップの鍔をグイッと押し下げる。
「これでも控えたっつの」
つける香水の量を控えたはずなのに、それでもまだ幼馴染から指摘されてしまう。
「ほら」
帽子を直しながら、マナトは人差し指と中指で挟んだ和食料理店のショップカードを突き出した。
「例のエリ? エリンドリア? の人間がよく来てる和食屋だと」
「リエハラシア。新しい名前の国を爆誕させるんじゃないよ」
マナトがうろ覚えの国名を言うと、すかさずツッコミが入る。
「創作割烹なんだ? また渋いセレクトを」
幼馴染はショップカードを両手で持って、興味深げに見る。
「和食に食いつく外国人は多いじゃん」
「あぁ、ねぇ」
「裏取りすんの、クッッソ大変だったんだからな。エリンラシアなんてマイナーな国の言葉なんてわかるヤツ、ウチには居ねぇから」
そう言いながら、マナトは温くなったコーヒーに口を付ける。
「国名覚える気が全くないね」
それでもわずかながら、マナトの言い間違えは正式名称には近づきつつあった。
「ホントに情報ありがとう。手間かけさせてごめん」
そして幼馴染は真顔に戻る。
「おいくらになるの?」
マナトは鼻で笑って、面白おかしく聞こえるように言う。
「俺はオヤジから聞いた話をボヤキにきただけだしぃ、金もらう義理なんかねぇから」
情報は売買するもの。
だがマナトは一人でボヤいているだけだと言い張る。
「玖賀パパはいつも優しいね」
マナトの父親は関東一円で最大勢力のヤクザの若頭。それに見合うように、面倒見のいい、気遣い屋の男だ。
「たまには顔出せよ。オヤジもオフクロも心配してっから」
元々、マナトの父親と幼馴染の母親は"商売柄"付き合いがあり、家族ぐるみで交流していた。
母親を亡くした幼馴染と入院したままの父親の行く末を案じているのは、マナトだけではなくマナトの両親もだ。
「みちる」
幼馴染の名を呼ぶと、相手は手にしたショップカードの裏面を見つめているところだった。
「そろそろ本当のこと言えよ。何が起きた」
「何って?」
幼馴染は、マナトと視線を合わせないために、ショップカードの裏面から視線を逸らそうとしない。カウンターに無造作に置かれたスマホをかざして読み取りもしないくせに、QRコードの模様を見つめ続けて。
「
マナトは自分の家族同様、幼馴染の母親も名前で呼んでいた。その名前を出すと、幼馴染は薄く笑った。
「それはだね、マナトくん」
貼り付けたような笑みを浮かべた幼馴染はマナトを見ている。氷を投げつけられるような視線に、マナトは思わず視線を下にやる。
「教えて欲しいのはこっちなんだよね」
幼馴染がリエハラシアから帰ってきて、一番変わったのは、誰に対してもこんな眼をするようになったところだ。
「はいはい、絶対言う気ないのな」
幼馴染は営業スマイル全開で、人に見えない壁をしっかり作るようになった。
マナトは幼馴染の隣に居ながら、全く埋まらない距離を思う。
*
今夜最初に口にした料理は、挽肉と蕪をとろみをつけたスープで食べる、とても慎み深い味付けの料理だった。
「そうそう、あのコが働いてる表参道のカフェ、俺この前行ってみたんだけど」
この味わい深い料理を、この雑音みたいな喋りを隣で聞きながら食べているのがとてももったいない。
「あ、大丈夫だよ、あのコのシフトが休みの時に行ったから、顔合わせてないよ」
何回も巻かれた薄黄色の玉子は仄かに甘いが、料理の味を邪魔をしない。料理と言うものには、ある一つの完成された数値に到達するための、足し算と引き算がある。
「んで、そのカフェ、値段高いだけで味はフツー。まぁ、かわいいスタッフばっかりで楽しかったけどねぇ。かわいいコを集めるには人件費ケチれないってことかなぁ」
右隣で怒涛の勢いで喋り続けている男は、こちらが食事に集中しているのに、一切お構いなしだ。
「それはいいから何の用で呼びつけた」
わざわざこちらの気を引くためにしてきた話など、聞いても仕方がないから本題に戻してやろうとする。
「これは今後どう関わりが出てくるかわかんないけど、そのカフェに公安の人間も偵察に来てた。俺じゃなくて、あのコの様子を見にね。きな臭さが半端ないなぁって思った」
「揚げ出し豆腐が不味くなる前に、本当に言いたい用件を言え」
揚げ出し豆腐の外側のパリッとした食感は、出汁と醤油のソースにふやかされて冷めてしまうと台無しだ。
完璧な計算は、構成する要素の一つでも狂えば破綻する。これはすべての物事において同じ。
「日本人の商売ってさ、おもてなし精神って言うのかな、相手の心をくすぐるのが上手いよね」
確かにこうして食卓に並ぶ料理を見れば、器であったり、食材の色味であったり、盛り付けも凝っているのだろうと思う。
それを完全に理解出来るほどの美的感覚は持ち合わせていないが。
口煩い男は、こちらの皿を覗き込んで、唾を飛ばしそうな勢いで言う。
「あの美味くも不味くもない飯ばっか食わされてた頃と比べたら、今めっちゃ充実してるよねぇ」
この男はこう言うが、料理の上手い教官がいた頃の食事は悪くなかった。
ただ、故郷の料理の味付けが、自分の口に合わないのだろう。
量が食べられないから、美味くても腹の足しにはならなかった。腹を満たすだけなら、レーションを食べている方がマシだと思ったほどだ。
だが、この国の食事は美味い。味付けが自分好みだ。
「まぁ、要するにさ、俺の勘だと」
何かを思いついたような顔をして、隣の男はわざとらしく"勘"だの言い出すが、
「お前は勘だのみで話をしない」
自信ありげにニヤリ、と笑いかけられる。勘なんて嘘だ。
「俺たちを嗅ぎ回ってんの、クガの手下だね」
「クガ?」
一体誰だったか思い出そうとしてみたが、断念して揚げ出し豆腐にフォークを刺す。
「有名なジャパニーズマフィアの幹部。凶暴で怖いって評判の」
赤毛の男の話から、記憶から名前と情報を一致させる。勝手に盛り上がっている男は、なおも話を続けた。
「前に話したじゃん、フチノベ ミチルの保護者みたいな存在」
「さぁ。思い出せない」
言葉とは裏腹に、頭の中ではだんだんと点と点が繋がる。
クガの名前を聞いたのは、他でもない。「フチノベ ミチル」の話を聞いた時に出てきた名前だ。
揚げ出し豆腐の衣のサクサクした表面の食感と、豆腐の優しい質感、だしの味付けの存在感が完璧で、この完成度には恐れ入る。
「あの母親……フチノベ ユウコがクガの元恋人だったな。その繋がりで世話になってるのか」
推察するからに、フチノベ母娘は、件のジャパニーズマフィアとは随分と親密な付き合いだったようだ。
母親の元恋人として接しているが、本当の関係性は実の父娘か?
「ま、実際には、彼女はクガの世話にならないで頑張ってるみたいだけど」
「その、クガってヤツの手下が何故うろついてる」
また話が横に逸れそうなので、話を最初に戻す。
わざわざ、このわけ知り顔で面倒臭い赤毛の男がコンタクトを取った理由は、この話をするためだ。
「そりゃー、俺たちが気になるからでしょ?
うっかり母国語で話してるのを聞かれちゃったんじゃない?」
「こんなマイナーな言語なのに、よくわかったな。その解析力は褒めてやりたい」
リエハラシアは、対外的には英語かロシア語を使うが、普段の気の置けない同士の話はリエハラシア語を話す。例えば、今みたいに。
同胞のみで使う言語であるがため、自国以外での認知度はかなり低い言語だ。
それをよくリスニングして判別できたものだと思う。
「そのクガが動いてるってことは、あのコも絡むのねぇ」
ちら、と赤毛の事情通はこちらを見る。
「茄子の漬物美味いぞ」
茄子の浅漬けと呼ばれる漬物が入った小皿を目の前に差し出すと、あからさまに顔をしかめた。
この男は茄子が嫌いだ。それを知っていてやる、おとなげない軽い嫌がらせだ。
「さすがにまだ、ジャパニーズマフィアの幹部クラスとの関係構築はできてないのよ」
こう振ってきたのは、今回は協力しない、と言いたいのだ。皆まで言わなくともわかるが、律儀に言葉は続いた。
「こうやってお前と一緒だと、クガに探られたくない腹を探られる羽目になりそうだから、しばらく大人しくしとこうか」
「その方がいいだろうな」
こうなるのは想定内ではある。そのリスクを考えず、日本には居られない。
無意識に胸ポケットの煙草に手を伸ばすが、昨今のご時世、煙草はどこでも吸えるものじゃなかった。
目の前の男は、グラスの脇に置いたスマートフォンが画面を光らせて振動するのを見て、手に取る。
「あ、ユイちゃんだ♪」
楽しそうに口笛を吹いて、震えるスマートフォンを眺めている。コールすれども繋がらない電話に、相手はもどかしい思いをするだろうに。
この前はアリサ、前の前はアイミ、今日はユイ。こいつにとっては"金はかかるが楽しいゲーム"だと。
本人は至って楽しそうだが、傍から見れば、スケジューリングに四苦八苦しながら、代わる代わる相手している姿は到底理解できない。
「一人は退屈でも気楽でいいでしょ?」
いつも誰かを侍らせている男に言われるのは癪だったが、一理ある。素直に頷いた。
一度切れて、また鳴り出したスマートフォンを手に、帰り支度をしているくせに財布には手をかけない男を見て、今日は情報料として奢らされる羽目になる、と思った。
「そーだ」
揚げ出し豆腐に舌鼓を打っていると、不意に間抜けな声を出される。
「何だよ」
「クガには息子が居るんだけど、今日彼女と会ってたよ。そんで、この店のショップカード渡してた」
それを聞いて、赤毛の男を思わず舌打ちして睨んだ。
この男が本当に伝えたかったのは、「この店に通っているのが、クガにバレた」だろうに。勿体ぶって、芝居がかった素振りをする。
そういうところも含めて、この男が嫌いで嫌いで仕方ない。
*
春の夜は生温い。
アスファルトの上で人々は夜でも昼でも行き交う。
その中で人間が一人増えたり減ったりしたところで、誰の気にも留まらない。
集団の無関心は便利で、誰にとっても都合がいい。
誰の記憶にも残らない代わりに、防犯カメラが記録している。だが、それも新しいデータが増えれば消えていく。
それでも確実に、距離を離しても食らいついてくる存在がいる。和食料理の店を出てから、ずっと尾けてきている。
繁華街の細まった路地をジグザクに進みながら、身を隠しやすそうな雑居ビルを探す。栄えているビルと寂れているビルが隣り合っているのを見ると、商売とは立地だけの話ではないのだと思う。
寂れている方のビルに入り込み、廊下に何故か散乱している段ボール片を踏みながら非常口のドアに向かう。ドアノブを回した瞬間、ビルの入り口に気配がした。もう追いつかれたのだ。思わず舌打ちが漏れた。
非常階段を二段飛ばしで上り始めると、背後にカンカンと甲高い音が聞こえてきた。ヒールの高い靴の音。歩幅は一段飛ばしだったのが疲れてきたのか、一段ずつ上る音に変わっていく。
上には逃げ場がないのに登ってくるのは、待ち構えられても構わないのか。
さすがに無策でここまできているとしたら、浅はかすぎる。
屋上につながる階段の、残り最後の五段目で足を止め、ステップに腰かける。
息を切らして、気配を殺すのもままならないヒール音の主は、自分が腰かける階段の手前の踊り場で、両膝に手をついて地面に頭を下げている。息苦しそうに。
そして、自分が思うにはゆっくりと、当の本人からすれば急いでだろうが、頭を上げてこちらを見た。
一年と少し前に見た姿とさほど変わらない、その佇まい。
長い黒髪と血色の悪い肌、街の明かりを反射する真っ黒い瞳の若い女。
フチノベ ミチル。
この姿を二度と見たくないと思っていたのに、結局こうなったか、と溜め息も出る。
目が合ったとわかると、フチノベ ミチルはにっこり笑って見せた。
「”お久しぶり”」
そして一年ほど前と同様、英語で話しかけてきた。
「”前、会ったんですけど、覚えてます?”」
顎にまで汗が垂れて落ちてきても構わず、顔をしっかりこちらに向けて、一挙手一投足を見逃さないようにしている。これは警戒ではなく、情報を掬い取ろうと必死な眼差し。
居心地の悪い視線に苛立ちながら、胸ポケットから煙草の箱を出す。
「”ご無事で何より。お会いできて良かった”」
覚えていると答えていないのに、フチノベ ミチルは覚えている前提で話を続けている。
否定も肯定もしなかった自分が元凶なのだが。
「俺は会いたくなかった」
煙草に火をつけ、吸い込んでから日本語でつぶやいた。
「日本語の勉強、してたんです?」
こちらが日本語を喋ったのを聞いて、フチノベ ミチルは目を見開いて、驚きを隠さない。
「もともと喋れる」
「おん? あの時も?」
フチノベ ミチルは気の抜けるような声を漏らす。
「そういうのは早く言ってくださいよね、そしたらもっとスムースに」
「うるせぇ」
ぶつくさ言われているのも面倒なので、適当にあしらうしかなかった。
「どうして追いかけてくる」
語気を強くするつもりはなかったのだが、この言い方は質問ではなく詰問だった。
フチノベ ミチルはスッと真顔になると、小さく息を吸い込んだ。そして口元を笑う形に歪める。作り笑いするための所作だ。
「あなたが逃げるからですよ。とりあえず、今は再会を喜ぶところでしょ」
追いかけるのは尾行をまこうとしたからだ、と女は言うが、こちらが聞きたいのはそれについてじゃない。
試行できるありとあらゆる手段を使って、自分の行方を探ろうとしている理由を聞きたいのだ。
「俺の忠告は忘れたか」
フチノベ ミチルには、
少なくとも、何もしないように釘を刺したはずだ。
女は目を細めて、柔和に微笑んだ。
「忠告ですよね、命令じゃない」
瞬間、ピリッとした空気に変わる。表情はとても穏やかなのに、漂うものはあまりにも重たい。口を開くなと言わんばかりの圧力すら感じる。
「詭弁だ」
何を言っても聞こうとしない女の頑固さに、煙草のフィルターを噛む。
まるで自分の方が、余計なことを言ってしまったと錯覚するような空気になる。完全にペースを巻き取られている。
「忘れたいんですよ、私は。でも、忘れられない」
街の光が反射する、虚ろな黒い瞳。この女が発する、淡々とした言葉。
煙草の灰を手摺の隙間から振り落とすと、風に煽られた灰が街の上に散っていく。
真っ直ぐこちらを見つめてくる瞳から視線を逸らそうと、フチノベ ミチルの向こう側にある雑多な街並みへ目をやる。
湿気混じりの夜風。
無数の車列の灯りが光の道を作り、背の高いビルが煌々とそびえ立ち、地面と夜空の境目は光に照らされて白んでいる。
当然だが、あの車の窓から見えた夜空とは、別物だった。
寒くて、空気が澄んで星が綺麗に見えていた。何の星座の、どんな名前の星なのかも知らない光が、点々と連なっている。
思い出と言えるほど古くもない記憶。焦げ臭い臭いと死臭混じりの光景。
自分がもう二度と見る機会はないだろう、故郷の空。
「あなたは日本に、何をしに来たんですか」
フチノベ ミチルの言葉は疑問形ではなく、問い詰める語尾。
先ほど自分が女に対して発した言い方と同じで、責められなかった。
ごく真っ当な質問に、どう答えようか、頭を巡らせた。そして出した答えは、
「観光」
「びっくりするほど悪びれなく嘘つく」
一瞬で切り捨てられる。
フチノベ ミチルが纏わせていた重苦しい空気が緩んだのを察して、こちらから話を切り出してみる。
「俺は今でも故郷のために尽くしたいと思っている。だから、余計なことをされると困る」
「あなたの国に、何かしようとは思ってませんよ」
その言葉が本当かどうか、自分には判断する術を持っていない。
「
この女とその母親があの日、大統領と会食していたのは、軍の装備品横流しの交渉をするためだ。
任務前のミーティングで、その情報は共有されていた。
「そこまでご存じだとは、さすが。でも武器屋は廃業したんで、もう物騒なものは持ってません」
フチノベ ミチルは両手を広げてひらひら見せる。「何も持っていない」アピールの動き。張り付いたような笑みが嘘臭い。
「そうか、無職か」
「バイトで生計立ててますよ、失礼な」
「安定した職にも就かずに、怠惰に任せた将来性皆無な生活」
「日本語流暢すぎません? あと、めちゃくちゃ酷い言い方しますよね」
フチノベ ミチルは苦笑いして受け答えしているが、目が笑っていない。
さっきからずっとそうだ。
「多方面の情報屋に対して、お前がバイトで払える額じゃない金を払っているのは、クガの金か?」
「それ、どこ情報?」
クガの名前が出ると、苛ついた声音になる。余程触れられたくないのだと見える。
「知り合いの情報屋」
「その情報屋は有能だね、的外れだけど。家にあった在庫を売って、家を売って資金にしたんです。玖賀の息はかかってない」
和食料理店で隣にいた、赤毛のうるさい情報通の男の顔を思い出しつつ、煙草の火種を階段のステップに押し付けて消す。その流れで、煙草をもう一本手に取る。
「何が目的だ」
女は答えない。笑いもしないで、じっとこちらを睨むように見つめている。真っ黒な、光をはじき返す暗い瞳。
「リエハラシアで復讐
「用があるのは、大統領とその取り巻き」
今は武器商人ではない、一介の民間人が、一国の大統領やその取り巻きを殺そうと? 馬鹿げた話だ。
「何を言いたいかは、わかりますよ。私だって無理だと思ってる。だから、必死で取っ掛かりを作ろうと」
フチノベ ミチルがこちらに向かって一歩踏み出す。
そして音もなく軽やかに、自分の目の前に顔を寄せてきた。
「どんな小さな取っ掛かりでいいから、あなたが持っている情報が欲しい」
目の前に、感情の見えない真っ黒な目がある。この不愉快な距離感に、猛烈な殺意を覚え、思わず母国語が出た。
「”今すぐ下がれ、でないと殺す”」
意味はわからなくとも声のトーンで察したらしく、フチノベ ミチルはすぐに一段下がって距離をとる。
「あなたは、あの時現場に居て、生き残った貴重な人物」
一段下のステップからこちらを見上げているのに、獲物を目の前にして襲い掛かろうとしている獣みたいな視線を送ってくる。
「生き残る? 死に損ねた、の間違いだ」
自嘲しながら、フチノベ ミチルに銃口を向ける。日本では使わないだろうと思いながら、念のために用意していた
「お前には残念な話だろうが、俺も、あの大統領も、危惧していることは同じだ。政府の監視も届かない状況で、あの日の生き残りがこの世にいる事実が恐ろしい」
自分の言葉を聞いて、フチノベ ミチルは少しだけ首を傾ける。
唇の端が微かに歪んでいた。困惑が見て取れる。
「アヴェダ大統領の味方みたいな言い方しますね。反体制派なのに」
反体制派、と言われるのは納得できないが、現状、自分の立場はそう言われる側なのだ。反論の言葉は喉の奥に抑え込んだ。
「俺は、自国民を害する存在ではない。
お前がリエハラシアに災いを
そう言いながら、引き金にかけた指の力を、少しだけ強めた。
フチノベ ミチルは口を開いたものの、喋るのを躊躇った様子で唇を噛む。
お互い黙ると、街の喧騒のボリュームが大きく感じる。
この喧騒が気にならないくらい、会話に集中していたのだろう。
数秒ほどの沈黙。それを破ったのはフチノベ ミチル。
「あの建物には」
喧騒が遠くなるほど、しっかりとした声音で話し出す。
「民間人もいましたよね? それでも、綺麗事を言う?」
引き金にかけている指の力を緩めた。痛いところを突かれた。その事実に反論の余地はない。
「それでも、あなたの国の人たちがそんなに大切なら、私に協力してほしい」
向けられた銃口など気にしない素振りで、こちらを見つめている真っ黒な瞳は淡々と語りかけてくる。
熱心に説得してくるのではなく、奇妙に思えるほど静かに。
取り出したはいいものの、持て余してしまった拳銃を、ウエストにしまい直す。
「協力はしない」
はっきり断ると、溜め息の後にくぐもった笑い声が漏れ聞こえてくる。
「じゃあ、協力とかナシで、友達になりませんか?」
「……何を言われているのか理解できないんだが」
「あなたは私の命の恩人だから。これも縁ですよね的な」
さっきまでは気味が悪いほどの威圧感を醸し出していたくせに、笑い出してから急に、緊張感のない所作をする。
しかも、言い出してきた言葉は、突拍子がなさすぎる。
「私とあなたは、ただの顔見知りよりは濃い間柄じゃないですか」
「冗談じゃない」
勝手に友達扱いされているなど、御免だ。
この世で反吐が出るほど嫌いなものはいくつかあるが、そのうちの一つが馴れ合いだ。
「何が命の恩人だ。俺は、お前がリエハラシアに災難を呼び込まないように監視したい、それだけだ。つるむ相手が欲しいなら、マッチングアプリでもやってろ」
「監視したい、って面と向かって言われるのは斬新」
人を食うような言い方は、馴染みがある。今日、そんな態度の男と和食料理店で会ってきたばかりだ。
一日に二度も、人物は違えど似たタイプの人間に遭遇してしまった自分の不運さに、一層腹が立つ。舌打ちが出た。
フチノベ ミチルは羽織っていた上着のポケットに手を入れ、探り当てた何かを手にすると、その掌をこちらに差し出してきた。
「はい、どーぞ」
掌にあるのは、白黒のホルスタイン柄の包み紙の小さな四角いもの。このやりとりに既視感がある。
「チョコレートか」
あの夜の車中も同じように差し出された。あの時は受け取ったが、今は手を出さなかった。今までのやり取りで、非常に機嫌が悪いからだ。
「吸ってる時に甘いもの勧めるな」
「美味しいですよ」
フチノベ ミチルは一切めげずに、小さなチョコレートが乗った掌を差し出し続けてくる。押しつけがましい。
「いきなり何なんだ」
「ちょっと打ち解けてみようかなって」
「逆効果でしかない」
掌をぐいぐいと差し出されて、自分が受け取るまで絶対に引かないという強い意志を感じる。本当に何なんだ、これは。
「コイツ嫌いだなぁ~って思われてても、それは相手に自分を認識させたんだから、めちゃくちゃ大事な第一歩なんですよ」
この女、無駄にプラス思考で苛々する。
「私はあなたにもう一度会えて、ホッとしたんですよ。生きていてくれた、って」
そう言いながら、上着のポケットからチョコレートを何故かもう一つ取り出して、小さな四角い包みが二個になった。その掌を、懲りずに差し出してくる。
「お前、本当にうぜぇ」
燃え尽きかけた煙草を足元に捨て、踏み躙る。一瞬迷ったが、吸殻を拾った。
自分がここにいた痕跡を残したくない、そういう
「マジで日本語流暢すぎない?」
このうるささが本当に癪に障る。
こんな雑談に付き合っている義務はないのだから、立ち去っても何の文句を言われる筋合いはない。きっとこの女は、ぎゃあぎゃあと喚くだろうが。
女の横を擦り抜け、階段を降りようとすると、
「まだ話しましょう」
予想通り、引き留められる。
「帰る」
振り向かずに階段を降り始めると、甲高いヒールの足音が後ろに続いて聞こえる。
踊り場で、互いの足元の段差がなくなった瞬間、フチノベ ミチルは自分の前に回り込んできた。
その左手にはスマートフォンが握られている。
「帰る前に、連絡先交換してもらいたい」
距離を勝手に詰めてくる上に、見苦しいほどの必死な表情で、純粋に気持ちが悪い。
「断る」「私と連絡を取る手段があるのは、あなたにとって悪い話じゃないと思う」
こちらが言った言葉に被せてくるように、フチノベ ミチルはニヤッと笑って言った。
「監視しやすいでしょう?」
相手の言う通り、したり顔の赤毛の男から情報を聞き出すより、何かやらかしそうな張本人と直接コンタクトが取れる方が、手っ取り早くて安上がりなのは間違いない。
「……”クソ”」
母国語が出た。背に腹は代えられず、苦渋の決断でスマートフォンを取り出す。
「連絡は一日一回以上必ずね」
「なんでそんな頻繁なんだよ」
「ジョークですよ」
ジョークだ、と言う割には作り笑いすら見せずに、真顔で言うので真意がわからない。何も考えずに言っているだけのようにも思えるが。
「せっかく友達になったんだし、観光案内くらいしますから」
こちらとしては友達になったつもりなど一切ない。しかも、観光目的で来たと答えた、あの明らかな嘘をいじってくるのが意地悪い。
「あ、でも高いお寿司屋さんとか案内できないですよ。奢りなら行きますけど」
「それが命の恩人に対する態度か」
軽薄なやり取りに辟易していると、フチノベ ミチルは微笑んだ。
威圧してくる笑い方ではなく、柔らかく微笑んでいた。
「あの時助けてくれたから、
この女に何ができるのだろう。
とはいえ、日本で生活する中では、数少ない人脈だ。
背後にいるクガとやらの動向を探り、抑え込めるのならば、それはそれでメリットが大きい。
「俺が話したことを、お前は真実だと思うのか? 俺が親切面してお前を騙して嘘を吹き込んだら?」
振り返らずに非常階段を降り続けながら、フチノベ ミチルに尋ねた。苛立ちのあまり、八つ当たりしたくなったのかもしれない。
「私もあなたも、真実なんてどうせ知らない」
きっと無表情で、感情の見えない黒い目をこちらに向けて言っているはずだ。それだけは想像がついた。
どこまで知っていて、何を知らないのか、自分もフチノベ ミチルも理解していない。
「母親を殺したヤツの話を聞きたいか」
「勿論」
「聞いてどうする?」
「どうしましょうね」
今日どうする? と聞かれて、適当に返事をする時と同じ声のトーンだった。
脱力感しかない言葉に、思わず振り返ってしまった。
「あいつの命と母の命は等価値じゃないんで、無意味」
声のトーンと相反して、女の表情は渋い。考えながら言葉を発している。
「アイツを殺したところで、何も戻ってこない」
黒い瞳は、階段の手摺のもっと向こう、電灯に照らされた夜空の方を見ている。
「最後の最後、オマケで殺せたらいいかな」
「復讐がオマケ扱いか」
思わず笑ってしまった。
不思議な女だと思った。
復讐だけに生きているのかと思わせて、意外と冷静に、物事を捉えているのかもしれない。
自分の笑い声に驚いたのか、フチノベ ミチルは一瞬目を丸くしてから、こちらを指差して豪快に笑い出す。
「笑うと顔が不気味ですね!」
「お前、死ぬほどうざいから、もう喋るな」
「うぇい」
一刻も早く、殺す以外でこの女を黙らす方法を知りたい。
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