マイ・ファニー・ヴァレンタイン

卯月 朔々

0. Unavoidable




 世界で一番、人を殺しているのは誰か。



 それは激戦地の前線に立つ兵士でもなく、殺し屋と呼ばれる人間でもなく、独裁者でもない。

 死の商人と唾棄される、武器商人だ。

 売買された武器は何処かの誰かの手に渡り、誰かが死ぬ。

 一つを売れば、装填出来る弾数だけ死ぬ人間は増え、弾丸を込め続けて撃ったなら、死ぬ人間の数は自ずと増える。

 だから、武器商人はただの人殺しより、より多くの人間を殺せる。死の商人とはよく言ったものだ。

 しかし、武器商人は直接手を下さない分、直接憎まれることは少ない。人間の憎しみは遠くにある原因より、近くにある結果へ向けられるからだ。



   * * * * *



 この期に及んで、一体何がどうなっているのか、まだ把握しきれていない。

 何度か踏み入れたことのある、大統領府の応接間。履き潰したブーツで踏むのが心苦しいほど、絨毯は柔らかい。

 その絨毯の上で手足を放り出して横たわる、頭と両手足を撃ち抜かれたアジア系の中年の女。そのそばで呻き声を漏らしながら座り込む、長い黒髪のアジア人の若い女。今日の来賓は日本人だった、とぼんやり思い出す。

 若い女に銃口を向けている、同じ部隊の同僚だった男。

 こちらが現れたことを察しているくせに、同僚は視線を向けてくることもない。目の前の女に銃口を向けたままだ。

 若い女の掠れた悲鳴が漏れ聞こえる中で、同僚だった男に問いかける。

「何のためにこんなことをした」

「あんたに関係ない」

 問いかけた相手は、素っ気なく言葉を返す。男の金色のボブヘアが少し乱れて、右目にかかっている。払いのけようともせず、に指をかけたまま銃口を動かさない。一見すると、なんてことない状況にしか見えないが、同僚の男にとっては顔にかかった髪の毛を払うことすら惜しむほど、張り詰めた状態らしい。

 何がそこまで緊迫しているのか、自分にはわかりかねる。

「バケモノが」

 苛ついた声で、同僚だった男は視線の先の若い女に吐き捨てた。女は項垂れたまま、こちらを見ることはしない。

 この同僚だった男は、中性的な容姿で目鼻立ちも整っていて、綺麗な顔をしている代わりに性格が悪く、任務よりも自分の興味と趣味のために生きていた。

 スマートに仕留めればいいものを、わざわざ残虐な殺し方をしたがるのだ。

 そんな男にとって絶好の標的がいるにも関わらず、目の前で項垂れた若い女をどうするでもなく、警戒のために銃口を向けたまま、状況を動かそうとしない。

 若い女の手元にはあるが、に指がかかっていない。女に反撃されるよりも前に、こちらがとどめを刺せるのは明白だった。

 なのに、そうしないのはなぜだ。


 静かに、若い女の首が持ち上がる。こちらからは横顔しか覗けなかったが、

「”黙れクソ野郎“」

 英語で、これでもかというほど憎しみを込めた言葉が聞こえた。

 長い黒髪の隙間から見える殺意のこもった黒い瞳が同僚の男に向くと、その時には女の指先はを引いていた。だがそれは、同僚だった男が発砲するのと同時。

 どういう状況でこうなったのか知らないが、自分には無関係だし、さっさと潰し合えばいい。何処の誰だかわからない女と、同僚だった男。どちらが死んでも、どちらも死んでも、自分には何の得にもならない。


 もう何も残っていない。




  * * * * *


 陽の沈みかけ、太陽の後を追うように薄い闇が、寒空に広がっている。


 ユーラシア大陸、ヨーロッパとロシア・中国の狭間にある我が国は、隣国・クルネキシアと長年、紛争状態だ。お互いに、お互いの領土を吸い上げて統一国家にしたいと主張して譲らず、形ばかりの和平を結んでは反故にしている。

 鉱物資源が豊富なクルネキシアは西側諸国からの支援を得て、天然ガス資源がメインの我がリエハラシアはロシア・中国からの支援を受けた。大国からしても、どちらかの国が速やかに領土を統一してくれたほうが、資源確保というメリットから言ってもありがたい。故に、この戦争は終わりが見えない。

 要するに、大昔の東西諸国の対立を根底にした代理戦争を、資源争奪戦の形を借りて二十一世紀になってもやっているのだ。

 体裁のために大統領府は美しい景観を保っているが、首都であるはずの街は廃虚と生活空間が入り混じっており、国は安定しているとは言い難い。


 大統領府に向かって走っている黒塗りの車。半壊状態の町並みにはそぐわない、光輝いたボディ。これみよがしに先導する警察車両の後ろで、舞い上がった埃が黒いボディに貼りついていく。

 車の後を目で追うと、北側真正面に見えるのが、大統領府。

 灰白い壁で横幅の広い、バロック様式を模した建物。周囲の荒廃とは一線を画す、きっちりと整備された庭。まるで一度も砲撃を食らったことはありません、といった風だが、数年に一度は砲撃を受けて、そのたびに修復されている。

 自分が今いるのは、その大統領府を見渡せる、周辺の建物の中で一番背の高いアパートメントの屋上だった。

 市街戦でこれまで何度も砲撃を受けたアパートメントにはもはや誰も住んでおらず、屋上に設置されていた貯水タンクには銃痕がいくつも空いている。空っぽのタンクに溜まっているのは埃まみれの雨水だ。


「こんなVIP対応するほどの来賓だったか」

 18:00に大統領府で会食のスケジュールがあるのは確認していたが、今日来る来賓はずいぶんものものしい護衛を付けて移動していると思った。

「大統領と会食するくらいだから、VIPなんじゃないの~」

 隣から間延びした、やる気のない声が返ってくる。双眼鏡を除いて車列を見届けている諜報担当の赤毛の男だ。

「日本人二人、何しに?」

「アヴェダが取引しようと思ってた本命の武器屋が相手してくれなくて、代わりに紹介された武器屋さんだって。大して名の知れてない武器商人だったよ」

 アヴェダ。

 何を考えているのか、何も考えていないのか、方針と言動がいつも一致しない我が国の元首。妻の実家が資産家であり、その資産を元手にのし上がった実業家でもある。

 この大統領がいたおかげで、我々は十分な装備で戦えている。

 公に配備したと言えば角が立つ、特殊かつ最新の装備品の数々を、今回のように武器商人と交渉して調達しているからだ。そんな背景もあり、軍や警察からの支持が厚い。

 現大統領がそうやって装備をそろえなければ、さっさとケリがついていた紛争だったかもしれないが、なんとかここまで持ち堪えられた。

「武器商人か。今後のことを考えるとまずくないか」

「んー、でもこの後のスケジュール考えても、今日しかないよねぇ。仲裁役大使が来るタイミングよりマシでしょ」

 それはそうだった。赤毛の男の言うことは正しい。

 紛争仲裁のために、時折、仲裁役の国の大使が大統領府に来る。赤毛の男は「仲裁役大使」と適当なネーミングで呼ぶ。その大使が来るときに比べればまだ、マシだ。

 無論、日本からは相当の反発を食らうだろうが、そもそもこの国の紛争に積極的に介入してくるわけでもない国だ。日本の民間慈善団体がこちらに来て活動しているものの、それ以外の特筆する国交はない。

「欲を言えば、今日の取引で仕入れられたであろう装備は、欲しかった」

 驚くほど無意識に願望を口にしていた。それを聞いた隣の赤毛の男がブッと吹き出した。多少の気まずさを覚えながら時計を確認すると、

「17:30、移動する」

 座っていた貯水タンクの影から立ち上がり、非常階段から降りた。確認した時間は、おおよそ想像通りだった。自分は今から大統領府に向かわなくてはならない。

 自分につられるように移動を開始した赤毛の男は、鼻歌を口ずさんでいる。どこまでもマイペースでつかみどころのない性格だ。

「じゃ、18:30に裏門でな~」

 18:30に大統領府の裏門へ横付けされた車両に乗って、宿舎に用意された司令部へ戻る。赤毛の男は諜報担当として作戦の指揮と車両を裏門に配置するのが役目だった。

 真後ろで続いていた階段を降りてくる足音は、地上に立った瞬間、すぐさま大統領府に背を向けて歩きだす。



    *


 ものものしい護衛付きの車列が大統領府に到着したのが17:33。晩餐会という名目で、18:00から応接間で大統領と軍トップの国軍長官、日本から来た武器商人二人組の合計四人が集まっている。

 和気あいあいと最初は始まり、すぐに不穏な空気に代わっていた。大統領の顔色は悪くなり、国軍長官は渋い顔で何度も頷いている。

 交渉はだいぶ不調なようだ。

 それが、作戦開始直前に狙撃銃L96A1に着けたスコープから覗いた景色。


『18:07、ちょっと早いけど開始しま~すよっと』

 イヤホン越しに聞こえたのは、赤毛の男ののんびりした掛け声だった。本当に気が抜ける。何度も注意しているが聞いた試しがない。

「周囲の確認頼む」

 イヤホンのマイクだけ切って、背後にいた後輩へ声をかける。

 狙撃銃を抱えた茶色味の強い金髪の後輩は、緊張した面持ちで周囲を見回し始める。

 大統領府にいる警備は、軍からではなく警察から配備されている。法執行機関の装備と訓練は、軍の、しかも特殊部隊である我々の比にはならない。門前の警備と建物内の巡回をしている警官を、騒ぎになる前に一人一人撃ち抜いていく。

 その間に、送電設備は諜報担当が操作して停止させる。大統領府の灯りが一瞬にして落ちる。

 それでも建物からは、異変を知らせる動きはない。叫び声も漏らせずに倒れていくからだ。館内に入った近接戦部隊が片付けている。自分と後輩は、近接戦部隊の動きが外に察知されないように、あらゆる邪魔を排除することが役目だ。

 ここまでは計画に寸分の狂いもなく進んできている。もしかすれば、予定よりも早く遂行完了できる、とわずかに思った瞬間だった。


「あの、応接間で、あ……」

 後輩が上ずった声で何かを知らせようとする。

 正確な状況報告すらできない後輩に舌打ちが出たが、急いで応接間の方に狙撃銃を向けてスコープから確認する。


 応接間にいたのは、逃げ惑った結果なのか、窓辺に集まって身を寄せる、大統領と国軍長官。

 両手足を撃たれて、若い女の腕に抱えられるアジア系の中年の女。満足げな表情で、中年の女の頭に狙いをつけて撃とうとしている、金髪のボブヘアの男。

 右肩を負傷しているのは、この中の誰かに撃たれでもしたのか。

「あいつは誰に撃たれた?」

 後輩は何度も首を横に振る。その場面は見ていないということだ。

 金髪の男は中年の女にとどめを刺し、若い女を狙うかと思ったが、窓辺にいる大統領と国軍長官に何かを話しかけている。金髪の男の言葉を聞いた二人は、先を争うように応接間から出ていく。

 手筈と違う。大統領たちを追いかけるでもなく、金髪の男はゆっくりと若い女に近づいていく。何をやっている。

「おい、何してる」

 イヤホンのマイクをオンにして、部隊全員に声をかける。返事が聞きたいのは、金髪の男だけだ。

『あんのクソガキ、自分以外の仲間、殺しやがった』

 返事をしてきたのは、一時間ほど前に屋上で話していた諜報担当だった。諜報担当がクソガキ、と呼ぶのは、応接間で座り込む若い女の頬をブーツで蹴りつけている、金髪の男のことだ。

「裏切ったのか」

『だぁね、俺は撤退する~。お前らも適当に逃げてね~』

 ブチッと通信ごと切られ、思わずイヤホンを投げ捨てたくなったが、痕跡を残すのは二流の仕事だ、と抑える。おそらくこれが最後に聞く諜報担当の声は、言葉だけはいつも通りだが、少し震えていた。

「あ……あ」

 会話には加わっていなかったものの、イヤホンを通して情報を共有していた後輩は、目を見開いて座り込む。

 もともとメンタルに不安要素があると思っていた後輩だったが、目の前で仲間の裏切りを見て、完全に戦意を喪失していた。

「落ち着」

 言い切る前に、カシュッという音がした。振り返ると、後輩は床に寝転んでいた。

 頭の下には血溜まりが広がって、その血がコンクリートにわずかに吸われていた。力なく床に投げ出された右手には銃口部に僅かに涎のついた拳銃P226


 狙撃手スナイパーは捕虜にはなれない、と我々はさんざん叩き込まれている。狙撃手は敵の憎悪を一身に買う以上、人間として扱われることはない。だから自決用に拳銃を、そして自決のための弾は一発、絶対に残しておけ、と。

 後輩はこの局面で死を察した。だから脳幹を撃ち抜いて自決した。ならば、自分はどうする。



           *


 照明が落ち、警備や使用人が床に何人も倒れている中を歩いていくと、同じ部隊の同僚もその骸の中に確認できた。甚振ることよりも数をこなさなければならなかったのだろう、すべて致命傷だった。

 短時間にこれだけ殺す。数々の訓練とテストの中で、近接戦では群を抜いた身体能力とセンスを見せただけはある。その事実に改めて腹が立つ。

 狙撃ポイントから撃ってやってもよかった。それをしないのは、同僚だった男が何を思って裏切ったのか、聞く権利を放棄することになるからだ。

 

 裏切ったものには粛清を。

 

 自分で思っていた以上に、頭に血が上っていたのは確かだ。人の気配が消えて暗い大統領府を、応接間まで真っ直ぐ目指して歩いた。

 何度か踏み入れたことのある、大統領府の応接間。履き潰したブーツで踏むのが心苦しいほど、絨毯は柔らかい。


 ————そして今、ここに至る。


 目の前で火花が起きて、破裂音がした。細かい破片がこちらに飛んでくるのを察して、一瞬目をつぶる。


「運がいい女」

 同僚だった男は、死んだかと思っていたが死んでいない。

 反対側の女も、傷一つない。

「狙ってやったなら恐ろしいし、狙ってないなら運が良すぎる。ありえないでしょ、弾同士が正面衝突って」

 同僚だった男が少し興奮した様子で笑みを浮かべていた。目の前で起きたことに驚いて、僅かに注意が逸れていた。その瞬間に、自殺用に携帯していた拳銃P226を男に向けた。

「なんで裏切ったか言え」

 思っていたより声が大きくなった。こんな相手に、感情など込める気もなかったのにも関わらず。

 殺気立った青い眼が、金色の髪の隙間から睨んでくる。

 音もなくゆらりと立ち上がった女は、拳銃ベレッタ92の引き金に指をかけていた。

 同僚だった男の銃口は女に、女の銃口は同僚だった男に、そして自分の銃口は男に。

 分が悪いのを察して、同僚だった男は銃を下げる。そのまますぐに撃ち抜きそうだった女に、今度は自分の銃口を向ける。

「お前は銃を降ろせ」

 この女にしゃしゃり出られるのが面倒だった。自分は、この同僚だった男に聞きたいことだけ聞いて殺したいだけだ。

「こっちの援軍が来るよ。包囲される前に逃げたら?」

 こちらの集中が途切れた隙を突いて、同僚だった男はニヤッと笑った。

「一緒に地獄へ連れていってやる」

「俺は死ぬことないけど、あんたは殺されるよ。民間人を含め、これだけの人数を殺害した凶悪で無慈悲な狙撃手だ」

「半分以上、お前の仕業だろう」

「俺は、大統領側だもん。大統領が思う通りに事が進む」

 それを聞いて舌打ちが出る。この計画はすべて漏れていた。この男のせいで。

 舌打ちが称賛にでも聞こえたのか、金髪の男は満足げに言う。

「あんたが望むなら、全部この女のせいにしてもいいよ?」

「これがお前の、俺たちに対する復讐か」

 そう尋ねるときょとんとした表情を見せた。その表情だけは歳相応の子供だった。

「そうだよ」

 同僚だった男は、清々しいほど綺麗な作り笑いで、質問に答えた。

 大統領府のエントランスの方が騒がしくなっている。大統領か国軍長官が呼び寄せたであろう警備部隊が集まってきたのだろう。

 同僚だった男は踵を返し、エントランスの方へ向かっていく。こちらが反撃する時間はないと見越して、背中を向けて悠々と去っていく。今から、同僚だった男は警備部隊に合流するだろう。

 自分と、この女はどうなる。


「“逃げるぞ”」

 拳銃を握って離さない女の手首を取って、捻り上げた。拳銃が指から離れて床にぶつかる音が響く。

 今やるべきことは、ここから離れること一択だ。だが、

「“何処へ逃げろと”」

 女は、押し殺した声音で言う。真っ白な顔色、真っ黒な眼に白目は血走っていた。英語を流暢に話すが、こちらの言語は話さない。英語で話す方が無難なようだ。

「“ここ以外のどこか”」

 全く納得していない顔の女は、何かを言い返そうとしたが、それを遮った。

「“復讐したいなら生きろ”」

 抵抗しようともがいていた女の手の力が、静かに抜けていく。糸の切れた人形のように座り込んだのを見て、もはや反抗するほどの気力も残っていないと察した。

 その隙に、床に転がっていった女の拳銃を拾い上げて回収しておく。

「“置いていくしか、ないですか”」

 血走った黒い瞳が名残惜しそうに見つめるのは、死体になったもう一人の女のことだった。

「“死体を連れ歩けると思うのか”」

 言い方が悪いが、これくらい言わないと諦めてもらえる気がしなかった。

 小さく「クソが」と呟くのが聞こえたが、聞かなかったふりをした。こちらに向かって言ったわけではなく、この状況に対しての悪態なのはわかっていたからだ。



                  *


 警備部隊が本格的に乗り込んでくる前に、さっさと大統領府の敷地を抜けることができた。同僚だった男なら、大統領府内の隠し通路が何処に繋がっているか知っているはずなのに、そこに現れることはなかった。

 思い出したくもない顔の男からの温情を差し向けられたことに、反吐が出そうだった。だが、今はそこに頼るしかない。

 大統領府の周辺には、入り組んだ路地が点在している。破壊されるたびに、修復と同時に新たな通路が作られて、自然に網目状の道が出来上がったのだ。

 その路地に入って、キーをつけたまま停められている黒い欧州メーカーの車に乗り込む。諜報担当が用意していた、予備の車両だ。

 女は、大統領府で「クソが」と呟いて以降、何も喋らなくなった。ただ黙ってついてきている。足手まといにならないように細心の注意を払いながら必死でついてくる様は、教官に見捨てられないように必死で訓練に食らいついていたころの自分を思い出して、仄かに苦い気持ちになった。

 カーステレオにはチャイコフスキーの全曲集が入っている。再生を始めると、ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35が流れ出す。こんな状況でなければ、任務後の徒労感を癒してくれた音楽だったろうに、今や逃亡シーンのBGMという。


「“寝たければ寝たら良い”」

 助手席の窓に頭をもたげて、外を見ているように見せかけている背中に声をかける。女は眠いわけでもなく、眺めているものは外の景色よりももっと遠く、虚ろだ。

 この車は、舗装されていない道をさっきから走っている。申し訳程度に立つ標識は落書きされていた。

「“いっぱい人が死んでましたね”」

 少しかすれた声なのは、久しぶりに声を発したからだろう。女が言っているのは、大統領府を抜け出すときに見た光景のことだ。

「“戦場の方がもっと死んでる”」

 自分の返事に、女は天を仰ぐような素振りを見せた。戦場で人を殺しているのは、自分たちが売る武器だとは一ミリも思っていなそうだ。

「“質問しても?”」

 ぽつりぽつりと話し始めたことがきっかけで、女が会話を振ってきた。

「“答えを持っているとは限らない”」

 女が何を質問しようとしているのか見当もつかないが、かといって質問を拒む理由もなかった。

「“私たちがいるタイミングでクーデターが起きた、って理解で合ってますか?”」

 クーデター、と言われて、苦々しいものが胸に落ちてきた。自分にとっては正式な任務だったのだ。だが、傍から見ればこれはただのクーデターでしかない。

「“クーデター未遂。大失敗した”」

 こちらの返答に、隣に座る黒い眼はゆっくり瞬きを繰り返して、小さく呻いている。

「“あなたはクーデター未遂した側ということ?”」

 クーデターという扱いには不服があるが、たまたま居合わせただけの人間にそれを説明する必要もない。

「“俺が逃げないとヤバい理由はわかったか”」

「“下手すれば私の身も危ういですね”」

 物分かりが良くて助かった。女が呟いた通り、運が良くて逮捕で、悪ければ名前も知らないクーデター実行犯と一緒に射殺されるか、だ。

 そして、運が良くても悪くても、自分は真っ先に殺される。

「“お前が誰だか知らないが”」

 日本から来た武器商人ということしか知らない。この任務の実行計画説明のミーティングで事前に確認していた名前も、今や薄っすらとしか記憶にない。

「"とりあえずクルネキシアに行って、日本大使館に保護してもらえ。政府軍と反政府勢力との戦闘に巻き込まれたとか、適当に言えばいい"」

 日本大使館、という言葉に女は眉間に皺を寄せて聞き返す。

「“なんで日本人だと?”」

「“今から乗り込みに行こうと思っている相手が、その時どこの誰と会うか調べずに行くわけがない”」

「あぁ……そりゃそうか」

 女のよそ行きのキャラクターが崩れて、そこだけ日本語だった。

「“クーデターが起きた、って言わない方が?”」

「"それはこの国が一番漏らされたくない情報。お前の一言で戦況が変わるから一言一言、慎重に振る舞え"」

 自分は日本語も喋ることができるのだが、いまさらだと思って英語で話し続ける。

「“クルネキシアに寝返るとか、クルネキシアに情報を売って戦況を変えようとか、そこまでは考えてないんですか?”」

 女の発言は癪に障ったが、どう見ても年下で、いかにも平和な国で生きてきたのがわかるが故に、ただ耐えることにした。

「“リエハラシアに害を及ぼすことはしない”」

「“あなたを追ってくるのに”」

「“それでも故郷は故郷だ”」

「“愛国心が強いんですね”」

 女の言葉はどこまでも神経を逆撫でしてくる。無意識に、ハンドルを握る手に力が入った。煙草が吸いたくてしょうがないが、手元には一本もない。

「"今の軍や警察に、国境越えてまで追ってこられるような余力はない。お前がここから離れれば離れるほど有利になる。わざわざクーデターの話を持ち出す必要もない"」

「"この国って、お隣と延々揉めてますよね"」

 何を言わんとしているのは大体わかっている。次に来る質問は、クルネキシア以外に逃げた方がいいのではないか、だ。

「"それなら他に地続きの国があるじゃないですか"」

 想像通りで、言い終えられる前に首を横に振る。

「"クルネキシアの国境検問所の係員は買収に乗ってくれる。うちからクルネキシアに出ていく国民もいるし、その逆もしかり。

 他は難民問題が起きるのが面倒だから、なかなか受け入れない"」

「あぁ……なるほど」

 この相槌も日本語だった。

「“金は出してやる。俺ができるのはそれくらいだ”」

「"私はどうにかなるにしても、あなたは?"」

「"何とかなる。さっき言ったように、金で解決出来る"」

 資金は貯め込んできたから、ある程度まで逃亡生活はできるだろう。その先を想像することは、今の自分にはできない。

「"他人の心配の前に自分の心配をした方がいい"」

 市街戦が起こった直後で、道は道でなくなっている。強引にカーブを切ると、助手席から小さく悲鳴のような声が漏れた。もうここらでは、後続の車も居なければ、対向車もない。

「“クルネキシアの人間は、あんまり英語伝わらないからな”」

 この女は、こちらの言語を使えない。さっきからずっと、英語で乗り切ろうとしている。

「“クルネキシアの公用語は? 英語がダメならロシア語なら何とか”」

「“クルネキシア語。英語とロシア語も話せる人間も、多少居るは居るけどな”」

「おぅ……」

 女は淡々と、しかし残念そうなのは隠さない。

「“国境に着くまで、挨拶を教えるくらいの時間はある”」

 せめてもの情けで、そう言った。


    *


 BGMは交響曲第六番「悲愴」。言わずと知れたチャイコフスキーの名曲だが、聴き入る余裕もない。

「“クルネキシア側には、俺のことは通訳かガイドだと説明してくれ。付き添いであって亡命希望ではない、と”」

 亡命すると伝えてしまうと、書類だなんだと手続きを踏まなくてはならなくなる。そんなことよりも、自分は一分一秒でも早く第三国まで逃げ落ちたいのだ。

 助手席に座る女は、しっかり一回頷くと、

「“私は母親の仕事について来て、武装集団に襲われて逃げてきた”」

 暗唱するように言う。発音は悪くない。

「“母親とは逃げる時にはぐれた”」

 母親、と発音するたび、毎回僅かに声が震えているが、あえて触れない。何を思い出しているか、虚ろな黒い眼が如実に語っている。

「“俺がそう説明するから、検問所の人間や大使館の人間にも同じように言え”」

 そう言いながら、所持金や今後の逃亡ルートのことを考える。気が重くなる一方だが、それは隣の女も同じだろう。

 血の気のない女の顔を横目で見て、意図せず預かったままだったもののことを、唐突に思い出した。

「“持ってろ。お前のものだ”」

 大統領府の応接間で拾った、この女が使っていた拳銃ベレッタ92は、ずっとベルトに挿したままだったのだ。

 そのを、女の膝の上に半ば放り投げるように渡す。

「“私の?”」

 女はしっかり両手で受け止めると、左手で拳銃を握る。うすうす気づいていたが、左利きだ。

「“俺が手首を捻り上げたら、お前があっさり手放したやつ。拾っておいた”」

「“棘のある言い方するのは、この国のマナー?”」

 明らかに苛立った切り返しだった。

「“俺の性格のせいだな。あと、これだけは言っておく”」

 名前もよく知らない日本人との最低最悪の逃避行も、もうすぐ終わりだ。最後にしっかり釘を刺す。

「“今まで見たこと聞いたことは、全部忘れろ”」

 女が体ごと、こちらに向けてくる。醸し出す空気が一瞬にして殺気立ったのがわかる。拳銃を返すタイミングを誤った、と思った。

「“覚えていても何の役に立たない。日本で何事もなかったように暮らせ”」

 女の指先が渡した拳銃の引き金にかかったが、すぐに離れた。そして、急に口元を笑う形に動かした。

「“わかりました”」

 眼は笑っていない。こちらを睨みつけているのに、口元だけは笑っている。表情のアンバランスさが、納得していないことをよく表していた。

「“って嘘でも言った方がいいんですよね”」

 思わず睨み返した。

「“前見て”」

 苛立ちもない平坦な声音で、前を見ろと注意してくる女。

 目が合えば、こちらを威圧してくるような佇まいを見せながら、その次の瞬間には興味をなくしたように、窓の外に視線と体を向けている。

 この空気感は、記憶のどこかで知っている。自分の手で葬ってきた敵か、死んでいった仲間のうちの誰かか、思い出せないが。


「“国境だ”」

 適当なところで車を止めると、そこで降りる。女も慌てた様子で車を降りた。

 国境付近の町の景色は、殺風景極まりない。

 民家だったはずの建物の跡は無残で、残っているのは瓦礫と死臭だった。いよいよもなければ、灯りもない。ここは、つい数日前。クルネキシアと交戦した場所だ。

「“この前、ここで市街戦があった”」

 民家だった場所の瓦礫を退かしながら、簡単に経緯を説明してやる。

「“日にちがそんなに経ってないから、服や日用品がまだ残っている可能性が高い。だから、ここで着替えの調達を”」

 目の前の景色に言葉を失っている風の女に、暗に手伝うように伝えた。女の視線がこちらを向くと、民間人のふりをするには無理がある、戦闘服姿の自分の出で立ちにやっと気づいたらしい。

「“わかりました”」

 この女は物分かりが早いので、何をするべきか分かれば、すぐに動き出した。瓦礫を退かして衣服か布かの端切れが見えれば、引っ張り上げる。

 何が悲しくて略奪者の真似事をしているのだ、とぼやきたくなったが、言葉は喉の奥に押し込めた。それを言いたいのは、瓦礫の隙間から見える布切れを探して回る女も同じだろうからだ。

 瓦礫同士がぶつかる音は、鈍かったり甲高かったり、灯りもない暗闇の廃墟の中で、やかましいほど響き渡る。

「“めぼしいものがなければ、そこら辺に埋まってる死体から剥ぐしかない”」

 自分のその言葉に、黙々と瓦礫を拾い上げていた女は一瞬、険しい表情を見せる。目が合ったが、お互いに何を言うでもなく、視線が逸らされるとまた作業に取り掛かる。

「あ」

 驚き交じりの声がした方を向くと、血まみれになった熊の人形を右手に、左手に瓦礫を持った女が、瓦礫の隙間を覗き込んで固まっている。

 何を見たのか察しがついたので、駆け寄ることはしなかった。

 肩を揺らした女がそっと、熊の人形を丁重に瓦礫の隙間に戻すのを見て、予想通りだったと、苦々しい気分になる。

「ごめんなさい」

 女は、そう日本語で呟いていた。

 その言動が芝居じみている気もしたが、それは自分がこの状況に慣れすぎているからだろう。



     *


 不幸中の幸いで死体から剥ぐこともなく、自分なら着ないだろう柄とデザインのニットと、ジャストサイズのボトムスを拾うことができた。それに着替え、着慣れた戦闘服を瓦礫の山の中に押し込める。

 もう一つの収穫物であるオレンジ色のダウンジャケットを片手に、車に戻る。


「“すごい柄とデザインだ”」

 先に助手席へ乗り込んで、こちらが着替え終わるのを待っていた女が、自分の姿を見て開口一番に言う。うっすら面白がっているのが透けて見えて、腹が立つ。

「“言いたいことはわかるが黙れ”」

 ガソリンの節約のためにエアコンを消している車内は寒い。だが女は寒がる素振りもなく、平然としている。

「“これはお前に”」

 ダウンジャケットを女に渡すと、ひどくびっくりした様子で受け取る。

「“スーツじゃ寒いだろ”」

「“そう、ですね”」

 そう言いながらも、羽織ることはなかった。

「“寒いって思う暇がなかった”」

 独り言なのだろうと思うが、わざわざ英語で言うあたり、独り言ではないのかもしれないと思った。どう返してやるべきか、わからない。

エンジンをかけ、溜息をついてからハンドルを握ると、隣からすっと掌が伸びてくる。

「“お礼にどうぞ”」

 掌にあるのは、小さな四角形の包みの何か。ポップな柄と文字が並んでいる。

「“何だ”」

「“チョコレート。毒なんか入ってないから大丈夫です”」

 欲しくもなかったが、受け取ってやった方がいいのはわかっていたので、受け取ってダッシュボードに置いた。



   *


 国境検問所のゲートは、車両用と歩行者用の二つある。車のライトが検問所を照らすと、ゲートに付属した詰所の人影が動いた。

 夜の検問所を通る人はまばら、車は自分のものだけだ。

 つい先日、周辺で市街戦があったばかりだというのに、クルネキシア側の検問所の担当官は、湯気を立てるマグカップ片手に悠然と歩いてくる。

 呑気なものだ、と思う。戦闘に巻き込まれたらどうにもならない、ともはや諦めてでもいるのだろうか。

 仕事でリエハラシアに来ていた日本人を連れている、安全に日本へ送り届けるために付き添いしている通訳だ、と事情を話した途端、担当官はこちらを値踏みするような視線を向ける。

 リエハラシアからクルネキシアに逃げたい、というシンプルなものではなく、イレギュラー対応が必要になる。そこで担当官は賄賂の額を計算しているのだろう。

 思っていたよりは安い額を提示されて、ラッキーだと思いながらも表情は渋々といった感じを出して、ボトムスに突っ込んでおいた札束を渡した。自分とこの女のことは一介の民間人だと信じ込ませて、ここは切り抜けたい。

 担当官は札の枚数を数え終わると、心なしか身軽な足取りで詰め所に戻っていく。電話片手に喋っているのが見え、日本大使館に連絡しているのだろうと悟った。

 となれば、もう終わりだ。


「“検問所で身元確認が終わったら、あとは大使館の指示に従え”」

 女がゆっくりとこちらを向いた。何か言いたげだったが、黙ったままだ。

 もう一度、詰所から担当官が出てくると、助手席の窓を叩いた。

 女が窓を開けると、担当官が英語でパスポートの提示を求めた。言われた通りにパスポートを出し質問に答えているのを、他人事のように眺めているしかなかった。

 あっさりとした身元確認の後、日本大使館に連絡をするから詰所で待つように、と言われた女が、車を降りようとドアに手を掛けたタイミングで声をかけた。

「“あとは一人で平気か?”」

「“ありがとう”」

 作り笑顔なのがバレバレだったが、にっこり微笑んで女は車を降りた。

 担当官には、自分がクルネキシアを通過して第三国へ行こうとしているなどと伝えていない。女の対応に手間取っている間に、さっさと逃げる算段だった。

 アクセルを踏み込んで走り出すと、検問所の担当官たちが慌てて追いかけ、発砲してきたが気にせずに走る。

 最後に背後を確認すると、女がこちらに向かって大きく手を振っていた。

「ありがとう」

 声は聞こえなかったが、口の動きでわかった。こちらの言葉で、はっきりと。


 心もとない旅路なのはお互いさまで、せめて大使館職員が来るまで付き添ってやれば良かったかと思ったが、そんなことをしたところで何の助けになるわけでもない。

 ここから先は、自分が生き延びるために精一杯だ。


 粉雪の舞う国境を越えて、道とは思えない道を走りながら思った。

 これが、自分の人生で最後にもらう、感謝の言葉だったのだろう、と。


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