【森】


「森に行こうぜ」

 琴浪にとって三週間ぶりの休日。

 食材を持って来た僕に、彼は端的に誘いの言葉をかけた。


 何処の森かは分からないが、ついていかない方がいいことだけは分かった。

 同時に、どうやら琴浪は断られるとは微塵も思っていないことも理解した。


 そっと、生肉と顔(顔?)を見合わせる。顔? 顔はない。口だけがある。

 厳密に言えば口と呼べるものではなく、生肉はいつも、凍ったささみを何某かの特異な方法によって咀嚼している。

 不気味で健気な四つ足の生のお肉は、ここのところ、体積が元の三倍になった。

 琴浪が『なんか飽きてきたな』と言って、食が細くなったためである。

 生肉は自身の味変について熱心に調べているようだ。最近、にんにく味噌を買いに行かされた。


「森に行こうぜ」


 無言のままに断りの文句を考える僕に、琴浪は再度、同じ文言を繰り返した。

 目を逸らしてしまったのは、致し方ない反応だと言えるだろう。


 琴浪は休日なのにスーツを着ていた。

 下手すると、今日を休日と認識できていない恐れがある(つまりは、出勤日だと思った上で、明確に無断欠勤をしようとしている)ので、僕は服装への言及を避けていた。

 ここ三週間ほど、ピンク色の謎の水を売り続ける仕事をしていたせいで、琴浪はなんだか挙動がおかしい。

 いや。

 それは別に、いつものことかもしれないけれど。


「それは……僕がついていく必要があるんですか?」

「は? 此処でついて来ないなら、お前はなんのために来てるんだよ」

「…………強いて言うなら、生肉のため、ですかね」


 そしてそれを琴浪に食べさせるため、である。

 厳密に言うなら、食事さえ取ってくれるならなんでもいい訳だけれど、とにかく、少なくとも、よく分からない森についていくためではない。


 それに、僕は琴浪に食事を摂らせた後には、勉強をしなければならない。一応、復学への備えだ。

 生肉が遊んでくれとアピールしてくるので、最近は、ここに来た日はそのまま琴浪の家で勉強することも多い。


 何をしているんだろうか、と思う時はある。実際、琴浪にとっては邪魔だろうとも思う。

 来るな、と言われれば来ない、かもしれない。どうだろう。自分のことなのに、あまり分からなかった。


 様々な感情のもと、ひとり困惑し始めている僕に、琴浪は何ともつまらなそうな顔で吐き捨てた。


「人んちで肝試ししやがったくせに、森には行きたくねえってのか」


 それを言われると非常に痛い。

 何の反論も出来ない。

 本当に、何も言えない。


 言えないがために、僕は琴浪と共に森にやって来た。

 詳細な場所は伏せておくが、埼玉の奥の方だ。琴浪の家からは程々の距離である。

 琴浪は手書きの地図を手にバスに乗り、ぽつぽつと一軒家の並ぶ街並みの片隅にある、小さな森まで僕を連れて行った。


 ちなみに、生肉も同伴している。

 長めの散歩が余程嬉しいのか、生肉は跳ねるように走っていた。

 そういえば兎だったな。

 いや? 兎だろうか? 果たして?

 耳がない。

 それでも確かに、あの時はうさぎだったのだけれど。


 少し先で振り返った生肉が、楽しそうにじっと僕らを見つめている。

 妙に思考がぐらついたので、僕は考えるのをやめた。


 そう広くはない森だったが、全体的に木がとても高く、密集していて、何処も薄暗かった。

 二人と一匹で、落ち葉の積もった道を進む。


「この辺だと思ったんだけどな」

「何がですか?」

「ヤノくん」

「やのくん?」

「あ。


 あった」

 

 琴浪は何かを探すように周囲を見渡していたが、やがて目印となるものを見つけたのか、迷いのない足取りで一本の木の下に向かった。


 太い枝に、擦り切れかけたロープがぶら下がっているだけだった。

 僕の目にはそのように見えた。ただ、僕の耳の方に関しては、ずっと、泣き喚く声を拾い上げていた。


 いたい、いたい、と喚く声が響いていた。

 人間は痛い時には極めて単純な叫び声しかあげられないのだ、とよく分かる悲鳴だった。


 何も見えないけれど、ロープは暴れるように揺れている。

 ちょうど、人の頭が通るだけの輪っかが、揺れている。


 僕は、自分がひどく汗を掻いていることに気づくまで、しばらくの時間を要した。

 なんだか息がしづらい。

 余程ひどい顔をしていたのか、駆け回っていた生肉が、気づけば足元に戻ってきていた。

 前足で僕の靴を踏んでいる。猫みたいに。


「あーあ。ゴキブリなんて友達にするもんじゃねえわな」


 琴浪はちょっと呆れたように呟いて、揺れるロープを鋏で断ち切った。


 途端、辺りはじっとりとした静けさに包まれる。

 解放されたはずなのに、息苦しさは増した気がした。


 溜め息を落とした琴浪は、それ以上何も言うでもなく、踵を返す。

 口を開くのもなんだか憚られて、僕は無言でその背に続いた。


 帰宅後、僕は一時間かけて、生肉を丁寧にお風呂に入れた。

 無事に清潔な生のお肉となった生肉は、その日は生姜焼きになった。



 ところで。

 僕は本当についていく必要があったのだろうか。






◆なまにくの にっき


 ふたりでいけば

 ほたるくんを

 つれてかえるひつようが

 ある

 からだよ。


 あるよ。


 またあそびいこうね。

 ゆうえんちがいいなあ。


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