崖
幸い、馬は寸前で右に曲がった。しかし、馬車は勢いで放り出され、後方半分が崖からせり出す形で止まった。
ジェラルドは馬車に駆け寄り、崖から身を乗り出して馬車の扉を開けた。
それから、数秒間固まった。
「君は……」
馬車の中の赤いベルベッド張りの椅子に座っていたのは、隣の家のあの乙女だった。
窓の向こうのあの乙女が今、もう少しで手の届きそうな場所にいた。
乙女も、ジェラルドに気づいたらしかった。
「私はいいから、まずは御者のジョシュを助けて!」
見ると、御者台から振り落とされたらしい御者が両手だけで崖からぶら下がっていた。
ジェラルドはすぐに彼の体を引っ張り上げた。ジョシュは細身で背も小さかったので、引っ張りあげるのは難しくなかった。
駆けつけてきたガブリエルが、彼を安心させるために何やら言葉をかける。
そのときだった。
ギィーと恐ろしい音を出しながら、馬車がゆっくりと後ろに傾き始めた。
「キャッ!」
乙女が小さく悲鳴を上げた。
バランスを保とうとして乙女が動くと、馬車がますます不安定に揺れる。
タイムリミットは後数分といったところか……。
「大丈夫だよ。大丈夫だから、動かないで。さあ、深呼吸するんだ。ゆっくりだよ」
ジェラルドは彼女の方に片手を差し出し、乙女がするのに合わせて深呼吸した。
「落ち着いたかい? そしたら、靴を脱いで。ゆっくりとだよ」
乙女は不思議そうに眉をひそめた。だが、従ってもらうしかない。
「そうだよ。じゃあ、立ち上がって。背もたれと座面に片方ずつ足をかけてバランスを取ると良い」
馬車がまたガクンと揺れた。今度は、乙女は悲鳴も出せずに、ハッと息を吞んだ。
馬車は最早、今にも落下しそうに傾いている。馬車が落ちるまでに1分もなさそうだ。
「大丈夫だから、ゆっくりと、こっちに向かって歩いて。開いたドアを足場にするんだ」
しかし、乙女は足がすくんで動けなかった。
馬車のはるか下では、尖った岩に海が波を打ちつけている。
それを見る乙女の瞳は恐怖に揺れ、馬車の壁にしがみつく手は震えていた。
「大丈夫だよ。絶対に落ちたりしないから。下を見ちゃ駄目だ。こっちを見るんだ。僕の目を」
澄み切ったターコイズブルーの瞳が、その時初めて、海色の瞳をただ真っ直ぐに貫いた。
ジェラルドは急に、今まで自分が見てきた乙女の姿は全て、ぼんやりとした幻だったような気がした。
今、霧が晴れ上がり、初めて本当の乙女を見たような心地だった。
「さあ、こっちに手を伸ばして。僕を、信じるんだ」
ジェラルドは、ほっそりとした冷たい手を包んだ。
乙女も、その華奢な見た目からは想像つかないほど強く、ジェラルドの手を握っていた。
「それじゃあ、足場を思い切り蹴ってこっちに飛んで。怖がらないで。この手は決して離さないから」
乙女の瞳はもう微塵の迷いも映してはいなかった。
「僕の合図に合わせて。いいかい? 3……」
乙女は大きく息を吸った。
「2……」
ジェラルドは彼女の手を握る手に力を込めた。
「1!」
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