涓滴、岩をうがちて

西海こか

第1話 神楽

  その日、右掌うしょう側の五局は、朝から大いに盛り上がっていた。

                 

 ひたすらに平和で怠惰な日々を送っていた武官たちのおかげで、その驚くべき話は矢が飛ぶように伝わっていき、あきらが第十指神楽局に入った時には、すでに中にいた全員が知っているような状況になってしまっていたのだ。

「おお、今日の主役だ」

 陽が、足の踏み場のないほどに床を埋め尽くす色紙のみじん切りをかき分けながら自席に向かっていた時、局長である清豪きよたかが声を上げた。

 いかにもエリート、といった風な容姿であり、おかしいほどに真っすぐな髪を一つに束ね、前髪をはらりと優雅に流している。いかにも美男子、といった見た目で貴族の家の出として申し分ない姿である。いつものことだが、鶴の派手な刺繍を施した上着は官令に触れるぎりぎり、首元だけ、神楽局を示す鮮血のような赤を覗かせている。

 清豪が陽をからかうようにひょい、と筆を上げると、書きかけの紙に墨がぼとりと落ちた。それを見て、彼の秘書は悲鳴を上げる。

「おとといからしつこく催促されている書類が―っ」

「ああ、ごめんごめん」

 墨を吸ってどんどん酷くなっていく染みに青い顔をして絶句した秘書に、たいして興味もなさそうに謝る。清豪が染みの加減を確認しようとした際に軽く筆を振ったせいで、横に積んであった、すでに書いたものとされる紙の束にも墨が散った。

「まあ、何とかなるだろう」

 清豪はへらりと言ったが、秘書が「結局、俺が羽目になるんですよ」と恨めしそうにつぶやいたのを陽は聞き逃さなかった。

 当然、清豪にも聞こえる距離であったはずであるのに、彼の興味は完全に陽に向かっているようで、何とかしといてくれ、と秘書に書類を押し付けてこちらに手招きする。ぶつくさ言いながら部屋の奥のほうへ向かう秘書と入れ違いに、陽は清豪の卓の前まで進み出た。

 清豪の卓は他のものとは違って高く、足を折らずとも座れるようになっている。専用の本棚まで完備され、卓上には立派な灯台まである。そこまでは他の局長も同じなので文句はないが、床に座している陽たちのものよりも、四倍は厚い座布団をその上に敷いているのだから、これだからお坊ちゃんは、と言いたくなるのだ。事実、神楽局の中で自主的に彼を好む人はほとんどいなかった。

「朝から人気者だなあ、陽。もう俺のもとまで話が届いているんだから、よっぽどのことだったようだな」

「皆さんにご迷惑をおかけしました」

 清豪は頬杖をついたままにやにやと陽を眺める。いかにも、面白い話題が降ってきた幸運ににやけを押さえられない、といった風だ。

「いやいや、お前が勉強熱心であることは良いことだ......だがまさか」


      とは!


 ことさらに強調されたその一言に、部屋にいる三十人の意識が一斉に陽に向いたのを感じた。皆、手元を見て熱心に仕事をするふりをしているが、耳はこちらを向いている。賢い清豪はそれに気づいているだろうに、声を低めることもしなかった。

「神楽局の評判上がったりだ。ただでさえたいした仕事をしてないと言われるのだから、熱心な者がいるというのは良いことであろう?完全に忘れ去られていたわが局が、こんなにも話題をさらっていくとは!それだけ強烈だったのであろう......私は人伝えにしか聞いてないが」

 流れるようにすらすらと言った清豪はことさらにうれしそうに言った。陽のことは見えていないように宙を見つめる。

 この男は、わざわざ自分からこの神楽局に来たはずなのに、注目を浴びるのが大好きなのである。

「はあ」

「注目を浴びるのは良いな。ここまで来るだけで何人の女官に話しかけられたことか......。して、陽、部屋はどうなった?」

「まだなんとも」

 相変わらず締まりのないにやけ顔でこちらを見てくる清豪に、陽は淡々と言った。清豪は面白くなさそうにふうん、とつぶやくと、手元に目線を落とした。どうやら、大した情報は得られなさそうだと思ったことで興味が無くなったようだ。彼は、面白いほどに気分が態度に出る男だった。

「まあ、何とかなるだろうな」

 全く信用ならない意見をきっぱりとした口調で述べた清豪は、おもむろに手近にあった紙を引き寄せる。その拍子に、幾本もの筆を立てていた筒ががっしゃん、と落ちたが、清豪は、もはやすがすがしいほどに気づいていないそぶりだった。

「何か決まったら教えてくれ。もう行っていいぞ」

 陽は、「あんたに言って何が起こるってんだ」と毒づきたい気持ちを飲み込み、素直に頭を下げる。もともと寡黙な陽だったが、この男に対しては感情が沸き上がってくる。言ってやってもいいが、清豪にはなんの傷にもならないだろう。

「失礼します」

 自席に着いたところでこっそり上司を伺うと、まるで最初から仕事をしていたかのように筆を動かしている。彼の秘書が懸命に整理した卓の上は、色とりどりの糸や様々な設計書が散乱する陽のものよりもすっきり片付いている。

(だから苦手なんだろう)

 この自信しかない、といった態度が。

 陽は軽くため息をつくと、だいぶへたってきた座布団に腰を下ろした。




           *  


 

 山河内やまがうちあきらは二十八年前、ごく普通の家に生まれた。そして、同じく長殿に勤めていた父の後を追って”光照ひでら十指じゅっし”に転がり込んできたのだ。恰幅も人当たりもよい父と違い、いっそ病的なほど白い肌にそばかすが浮き、切れ長な目は三白眼で、いつも不機嫌にみられるような男である。視力の低下が原因で長殿を辞した父と入れ替わりに官となり、それからはずっと、神楽局で祭りに使う剣制作の監督として働いている。

 見た目に違わず交友関係は広いほうではなく、大人しめの人が多い神楽局でも一番静かであった。そのため、黙々と作業する仕事はなかなか気に入っていたし、共に作品を作り上げる同僚たちともなかなかに上手くやっていた。


 ここ、光照ひでらの国の政府には、十指と呼ばれる仕組みがある。

 十指の中にも左掌さしょう右掌うしょうがあり、左は政、右は軍事ということになっている。ほとんど軍を動かす機会がないため、長殿内の権力は左掌に偏っている。

 両掌の中で特に抜きんでて有名であるのは第五指管理局と第六指近衛局である。十指の中でも変わっているのが第二指影水局で、この局は、たいていは長殿の外にある影水寺におり、数人が長殿に居るようになっていた。

 そして、崖を背負って鎮座する夜落殿を囲うように半円状に作られた長殿と呼ばれる平屋づくりの建物の、右の端に神楽局はあった。

 神楽局は、儀式や演技用の武具を製作し、管理する仕事をしている。そのため、ほとんどが武人の右掌の中で唯一、職人や普通の文官が入り乱れる奇特な局であった。

 立地は、とにかく日当たりが悪く、神楽局の他に何もない突き当りにあるせいで、局員以外はほとんど立ち寄らないような辺境の場所である。建物の右端は少しだけ洞窟に突っ込むように作られており、何代か前の局長が作り上げた倉庫がある。ひんやりとして風雨を避けられる、風もよく通り抜ける洞は道具を保存するのにぴったりで、大量の扇や装飾品が保管されている。たまに、帰り損ねた者が閉じ込められることもあり、紆余曲折を得て最近では警備員が雇われている。

 いつも仕事をしている部屋は、片側の壁が一面障子が備えられており開けられるようになっていたが、そういうことに無頓着な神楽局では、開いていることはほとんどない。かつては滑らかに光っていたのであろう板間の上には幾度も染料や糊などをこぼした跡があり、お世辞にも綺麗とは言い難い。皆、手元にある小さい明かりをつけるので部屋全体は常に薄暗かった。

 とにかく地味な局だったが、仕事では素晴らしい功績を残してきた。例えば、新年の舞で披露された新作の扇は、ひらめくたびに星が瞬いているように見える、素晴らしい出来だった。神楽局の職人たちは皆、扇が宙を舞うたびに感嘆し、製作者に拍手を送ったのだった。

  ―しかし、いくら儀式に必要なものを作っているといっても、職人以外の人々から注目を浴びるのは、それを扱い、素晴らしい演技を見せる武人や舞手である。

 職人や道具に詳しい者たちの間ではなかなかに有名であっても、数年前までの神楽局は全く目立たず、下手をすると十指としての存在さえ忘れ去られているような状況だった。それでも、自らの理想や目標だけを信じて、何とかやって来たのだった。

 

 まさに”陰の立役者”として生きていた神楽局が変わったのは、六年前のことだ。

   伊和いわ清豪きよたか

 この若くて凛とした青年がやってきてから、神楽局は変貌した。

 伊和家というのは、遠い昔の【てらすきみ】と血を分けているとも言われる、裕福なことで有名な家である。その現当主である伊和いわ善盛よしもりの次男が、あろうことか神楽局にやって来たのだ。

 当時、伊和家の次男は成績優秀であることで有名で、官吏試験もよい結果を出したと有名であった。そのため、左掌の第五指 管理局へ勤めることが確実とまで言われていたのだ。第五指 管理局は、政府内で第二指 近衛局の次に権力を持っている。しかも、すでになかなかの役職に席が用意されているという話もある。ついでに言えば、相当な派手好きで、いつも豪勢な衣装を身にまとっている、という。第二指近衛局に勤める父親とはあまり似ていないそうだが、整った顔立ちをしているらしい。 

 その時点で、神楽局にとっては関係のない話だと皆、思っていた。長殿の新人たちは、成績の良かった者から順に、自ら志望した局に配属されていく。派手好きで優秀だという男がこの、特に地味な神楽局を選んでくるとは思えなかったのだ。

 しかし、冬も終わりの頃、随分提出を渋った清豪は、あろうことか神楽局に希望を出したのだ。神楽局はそもそも人気がないのはもちろんのこと、街から採った職人たちが半分以上を占めるため枠が少ないのだ。成績もよいという清豪の希望が通らないわけがなく、最年少の局長として神楽局への配属が決まった。

 そして新しい年が始まる梅の頃、新たな局長を迎える準備など全く出来ていなかった神楽局に、清豪は堂々とやって来た。

 「新しくここの局長となった伊和と申す。皆、よろしく頼むぞ」

 威厳ありげにそう言い放った男は、噂通りに、なかなかの美男子であった。まだせいぜい二十ほどであるはずだが、きりりとした眉と優雅さを醸し出す流し目、なかなかがっしりとした体格はここにいるどの職人たちとも全く違う、武人のような雰囲気を醸し出している。金糸を背負ったかのような豪華な羽織が、暗くて古い神楽局の中で浮かび上がり、徹夜で飾り矢を仕上げていたぼろぼろの局員との対比が面白いほどだった。

 誰にも伝えずにいきなり来たものだから、局内はいつものように屑籠をひっくり返したような様相だったが、清豪は床に散らばった色紙の切れ端にも、無造作に積まれて雪崩を起こした資料の束にも臆せず、すっかり分かり切ったような顔で自席に向かった。それだけで、局員たちには彼がただものではないことは良く分かった。

 二十ばかりの局員たちは、目の前を歩いていく、まるで劇の俳優のような恰好をした男を、放心したように見つめていた。その姿は、ずっと右局の端っこで勤めてきた者たちに、恐怖ともあこがれともつかぬ感情を覚えさせていた。

 徹夜明けだった陽は、これから神楽局はどうなってしまうのだろうかと頭の中でぼんやりと考えていたが、局長席にほど近い自分の席に、清豪が近寄ってくると思わずその顔を仰いだ。微笑みを浮かべた瞳とかち合い、茶化したように片目をつぶられる。その、自信しかない、といった風な姿に、陽は眠気も覚め、胃が痛む思いだった。

 およそ新人とは思えないほどの恐ろしいほどの時間をかけて、優雅に自席にたどり着いた清豪は、立ったまま部屋を見渡す。皆、作業を止めたまま、一人の男を呆然と見つめていた。部屋に、嫌な沈黙が落ちる。

 しかし、その空気感を少しも読まない、あっけらかんとした声がふいに、言い放った。

「......なんか地味だなあ。私は綺麗なものが好きなんだが」


   (......地味で悪かったな!!!!)

 

 きっと、あの部屋にいた全員が思っていただろう。新たに清豪付きの秘書になった幸人ゆきとという青年の顔も真っ青だった。

 しかしながら、当の本人は機嫌よく席に座って引き出しを出したり仕舞ったりしている。陽は、あんぐりと口を開けて何かを訴えかけてくる同僚たちと、目を交わしあった。―とにかく、皆、清豪に好感を持っていないことは確かだった。

 そんなこんなで迎えた新年度には不安感しかなかったのだが、清豪は案外すんなりと業務をこなしていった。だが。

 面倒な事務作業や局長会議などは素直にやっていたが、派手好きが災いし、やれ模擬の剣を斬れるように磨いてみろだの矢尻に細かい模様を彫ってみろだの、職人に文句をつけだした。数人は言い返したりもしていたが、陽は、清豪には何を言っても暖簾に腕押しだということは分かっていたので素直に従っておいた。幸い、陽の担当している飾り鉾にはあまり口出しされず、しいて言えば、先をもっと尖らせてくれ、ということだけだった。

「清豪殿はどこを目指してるんだか」

 食堂で、同僚にそう漏らされたことがある。米を掻っ込みながら、山吹やまぶきという同期の男は眉にしわを寄せた。

「舞や演武で使うだけなのになあ。まーためんどくさい細工を注文されたぜ。俺もやけになって、うんと複雑なやつも候補として提出したら、ご丁寧にそれを選びやがった」

 喉を鳴らして水を飲み干した山吹は、陽を見据えるとにやっと笑った。そしてまた箸を持つと、「分かってやってんのかなあ」とぶつくさといった。

「......こんなところでそんな話しててもいいのか?」

 長殿に、食堂はひとつである。もちろん、清豪が来ないといった保証はないのだ。実際、さっき入ってくるときにすれ違ったのは、第四局の副局長であった。

「いいだろ、お坊ちゃんは城下で食べるんだろうし。......良いよなあ、実家が太いって」

「まあ」

 陽は肯定も否定もせず、と言った風に曖昧な返事を返した。それに対し、山吹は口を歪める。

「おい、なんかいつもよりノリ悪くないか?―お前、大した注文つけられてないからなあ」

 良いなあ、と山吹は眉を下げる。ノリが良いか悪いかは別として(普段もたいして良かないので)、陽も清豪のことは苦手である。わざわざ危険を冒してまでここで文句を言うつもりはないが、山吹の気持ちもわかるところがあった。

「難儀なものだな」

 そうつぶやくと、山吹は大げさに頷いた。


 そうやって、局員は不満こそは漏らしながらもきちんと仕事をこなしていた。陽たちにはどうしようもないが、神楽局は目立ちたがりの清豪のせいで少しだけ有名になり、神楽局の場所を知っているものも増え、何なら清豪が人を招待することもあった。たいていは、昔からの知り合いだという右掌の武人たちが多く、たまに上官がやってくることもあった。そういう時は、清豪が倉庫の裏に勝手にしつらえた小部屋で長話をするのだ。そんなことも、初めは皆動揺していたが、だんだん日常の風景となっていく。他にも、部屋の閉め切られていた障子も開けられることが多くなり、清豪に文句を言われた者たちの身なりがきれいになった(何やらぶつくさと言ってはいたが)。道具やなんやで散らかっている床は変わりないが、明らかに清豪がやってきてから神楽局は変わっていっていた。

......その、矢先だ。



                  *


「おーい、陽」

「......釜内」

 食堂で昼食をとった帰り、陽を呼び止めたのは釜内かまうちあきらである。この男は第五指管理局に勤めており、『あきら』という同じ名前というだけで陽に絡んでくるのが常であった。陽と同期であり、癖の付いた髪が呑気そうな顔にぴょんぴょん跳ねている。垂れ目が印象的で、まるで狸のような見た目だ。陽が初めて長殿へやって来た時に、同じく新米であったあちらから声をかけてきてから早九年の付き合いである。

 管理局は神楽局とは規模が全く違い、二百は優に超えるだろう局員を有している。地方に飛ばされている者も合わせれば、なかなかの数がいるだろうと思われる。そんな中で、とにかくのんびりとした性格の男である釜内は、出世を狙ったりすることはなく、ほとんど管理局の雑用係のような仕事を引き受けている変わり者であった。

 釜内は、陽に止まるように手で制したまま、こちらに近づいてきた。第九指 武具管理局につながる廊下であったので、通り過ぎる人々がこちらをちらちらと見てくる。先ほど、一人で昼食を食べた食堂でも一身に受けた、突き刺さるような視線を気にしないようにしながら陽は釜内に向き直った。

「ずっと探してたんだけど、こんなとこで会うとはなあ」

 確かに、いろいろなところを探したようで、彼の額には汗が浮いている。まだ七月とはいえ今日はなかなか暑かったから、随分苦労したようである。

 袖で軽く汗を拭いた釜内は、緩慢な動作で馴れ馴れしく陽の肩に手を置いた。

「ここじゃなんだから、うちの局で話せるかな?」

「...あと二囀 てんで昼休みが終わるんだが」

 こちらを覗き込んできた瞳は笑みをたたえている。この男はいつも独特のテンポがあるが、流石に始業時間を知らないとは思えず、陽は怪訝に聞き返した。

「伊和局長からの許可は出てるし、何ならうちの局長の指示で来てるから」

 釜内は食い気味に言った。そして、陽を急かすように背に手を添えると、管理局のほうへ無理やり歩き出す。

「...どうせの話だろう」

 陽も素直に従いながらも、釜内をじろっと見た。「おお、こわ」と大げさに肩をすくめた釜内は、肯定とも否定とも取れないぐらいに何ともあいまいに首を振った。

「うーん...まあ、あれの話なんだけど、他のやつらとは違って...なんというか今後の処遇について、みたいな?」

「だからお管理局か」

 はっきりしない言い方に少し苛つきながら言うと、釜内は大げさに頷いた。何年たっても、この男の独特な言動には慣れない。

「そういうこと」

 なんだ、分かってるんじゃないか、と釜内は笑う。けれど、陽は笑う気にはなれなかった。もちろん好奇心を隠そうともしない視線は痛いが、それでこんなに憂鬱なのではない。昨日から目を背けてきたことに、向き合わなければならなくなってしまったらしい。陽は、胃が痛むのを感じながら、釜内とともに廊下を進んでいった。

「ここだと思うんだけど...」

「分かってるんじゃなかったのか」

 自局のはずなのにやけに自信のなさそうな釜内は、一室の前で立ち止まった。

 夜落殿を囲うように作られた長殿だが、そこから広がるように外側に廊下が張り巡らされていてたくさんの部屋が備えられている。大した人数もいない神楽局には無いが、その建物たちは明殿あけどのと呼ばれ、最も端は中央街にも繋がっている。長殿に局長室を設けることなどの決まりはあるが、他は特に決まりはないようで明殿は年々外に向かって広がっている。特に人数の多い管理局には明殿の数も多く、中央街で役所として機能している部署もあるほどだ。

 釜内が陽を引き連れてやってきたのは、管理局の端っこにある、やけに閑散とした明殿だった。随分使っていないようなその見た目に、陽は訝しげな眼で釜内を見た。

「まあ、入ってみたらわかるかな」

 遠慮なく戸を開けた釜内に陽はおい、と声をかけた。本当に、突拍子もない男である。

 陽の声が決して広くはない部屋に響く。しかし、中には局員たちの姿はなく、一人の不機嫌そうな男が卓についていた。何もない、薄暗い部屋の中に背の高い卓が一つ、何とも異様な光景である。男は、こちらを一瞥すると、分かりやすくため息をついた。

「やっと来たか、あきら」

 男が、眉間にしわを寄せて言った。一瞬、どちらの『あきら』か分からなかったが、釜内がすぐに返事をした。

「だいぶ頑張りました」

「......遅れてもいいとは言ったがな、だいぶ過ぎてる」

 へへ、と笑った釜内は陽の背をぐいぐいと押し、じりじりと部屋に入る。部屋の真ん中まで押し出すと、釜内は満足そうに陽の後ろに立った。その作ったかのような笑顔に、陽は内心首をかしげたが、すぐに理由は思い当たった。むかし、管理局局長は釜内彰の従兄だということを聞いたことがある。

「直接話すのは初めてだろうか。管理局局長、黒神と申す。......さ、掛けてくれ」

「お初にお目にかかります」

 管理局局長、黒神くろかみじん大指おおゆびと称される左掌三局の局長であり、長殿の中でも相当な地位にいる。彼が主に担当するのは総務部。陽の巻き起こした今回の騒動には適任と思われた。

 なぜ釜内が呼びに来たのかという点は謎だが、陽と一番親しく見えたのが彼だったのだろう。実際には、絡まれているだけなのだが。

 陽は、黒神に言われるがままに一つしかない椅子に腰かけた。その時、ちらりと釜内を見たが、そいつは立たせてろ、と黒神に言われた。目が合った釜内はにっこりと笑みを浮かべたが、上司兼従兄を前に妙にひきつった笑みであった。釜内は陽の背側に立ち、陽は局長と卓を挟んで向かい合う形になった。―まるで取り調べである。

「―大層なことをやってくれたな」

 陽が腰を落ち着けたことを確認して、絞り出すように言った黒神は少し頭を抱えるような仕草をした。犬の威嚇にも聞こえる低い声に、釜内がこの男に臆している理由も分かった。

「申し訳ございません」

「―寮の床を抜かした官は光照の歴史の中でも初めてであろう。処分を考えるのも一苦労であった」

「......はい」

 陽はおとなしく頷いた。

「どうしてこんなことになった?言ってみろ」

 黒神は、あきれた様子を前面に出したまま聞いた。陽は、結局どれだけ現実逃避しても、あの出来事について話すことから逃げられないことを悟り、諦めてゆっくりと話し始めた。




 ―昨日は遅くまで仕事だった。そもそも、頻繁に夜勤がある(自主的にだが)神楽局の官たちと同じく、陽も寮に帰らない日が多い。だから、寮の自分の部屋に帰るのは二日ぶりだった。

 長殿の寮は三階建てで、長殿の西側にある。あまり新しいとは言えないが、なかなかに立派な建物で、上級官吏の住居として充分であった。裕福な家の出や武家出身のものは中心街や邸宅の立ち並ぶ住宅街へ帰っていくものもいるが、たいていの普通の官は寮に住んでいる。陽もその一人で、いくつもある棟のひとつの、二階に住んでいた。

 もとより、陽は寡黙なほうであり、休みの日も静かにこもって書物を読みふけるのが常であった。そのため、長い休みのたびにその紙束は棚にさえも入らなくなるほど増えていき、しまいには平積みされた本の山がどんどん乱立してきていた。陽もその状況に気づかなくはなかったが、ちょうど忙しい時期に入ったため放置してしまっていたのだ。

 そして、よりによって陽が不在にしているときに、床は限界を迎えた。

 やり残した資料を抱えて暗闇の中を歩いていた陽は、なぜか自分の住む棟が賑わっていることに気づいた。行儀よく並んだ何本もの寮と寮の隙間のひとつに大量の人が群がっているのだ。 不思議な光景に、陽は近づいて行った。

 見ると、やじ馬たちの中心で、何やら声を張り上げる人物がいた。「どうしてくれる」「早く探せ」などという声が人々のざわめきの中から漏れ聞こえた。

 その時、少し遠くで様子を眺めていた陽は、現場を去ろうとした一人の男とぶつかった。ああ、すみません、と軽く会釈した彼は少し年上の職人だったが、陽の顔を見るなりあっ、と声を漏らし、「陽!」と叫んだ。

「お前、大変なことになってるぞ。この騒ぎ、お前の部屋だよ」

 彼に促されるままにやじ馬の最前線までたどり着いた陽は、顔を真っ赤にして怒り狂う壮年の男と、それをなだめる管理局のものたちを見た。自室のほうを見ると、一階の窓は木材で埋められ、窓の木枠や張られた和紙は見るも無残に打ち破られている。

 心当たりがないでもなかったが、はっきりと状況を把握できなかった陽は、管理局の制服を着た青年に声をかけた。

「すみません、その部屋のも......」

「お前っ!」

 最後まで言う前に、怒り狂っていた男が陽に向かって叫んだ。陽は驚いて男の顔をまじまじと見る。長殿でたまに見る顔であり、どうやら陽の部屋の下に住んでいる人のようだ。

「どうしてくれんだ、こんな大ごとにして!」

 男は唾を飛ばしながら言い、陽に掴みかかろうとする。慌てて、管理局員たちが三人がかりで男を押しとどめた。

 「とりあえず、落ち着いてください!私たちにも何が何だか」

 困ったように言う局員たちに押さえつけられたまま、男はやっと陽へ伸ばした手を下ろした。ただ、怒りが収まったようではなく、むしろ膨れ上がっているようである。

 結局、陽と男は管理局の、寮の運営をしている部署に連れていかれた。こぢんまりとした明殿の一室で、陽と男は改めて向かい合った。

「仕事が終わって家で晩飯を食ってたんだが、突然天井がみしみし言い出して慌てて外に出たとたんにあの様だ。前々から天井がたわんでいる気もしていたんだが、まさか落ちてくるとは!一歩間違えたら下敷きだったんだぞ!」

 やっと落ち着いた男は、しかしまだ怒りのにじむ声で言い放った。

「申し訳ありません」

「謝ってすむものか!」

 陽はできる限り反省しているように言ったつもりだが、男には逆効果である。元々、顔にあまり感情が浮かばない陽は、たいして反省していないように見えてしまうのだ。

 男が怒り、陽が謝る。全く意味をなさない問答を繰り返し、立ち会っていた局員が退屈してきたころ、一人の局員が入って来た。現場にいた一人で、こちらに来る際に寮の入り口で別れた者だ。なんでも第三指法務部の局員と現場検証のようなことをしてきたようで、陽と男と同じ卓に着くと、べらべらと脈絡もなく喋りだした。

「......と、まあ単純に本の重みで床が抜けた、ということです」

 随分まどろっこしく言った後、局員はまとめていった。

「事故、ということで」

「事故なわけあるか!建造物破損であろう!寮の建物自体、年末に点検を行っていたんだから完全にこいつの責任だろ」

 男が怒鳴り、局員は目を丸くした。今気づいたとでも言いたげな表情である。

「.......そういえば、そうですねえ」

 この局員は、真夜中に直接寮の戸を叩かれて呼び出され、急いで局の制服を引っかけて現場に駆け付けていた。頭が働かないのも当然で、それは法務局の局員らも同じであったのだ。それが散々怒鳴られて、やっと目が覚めたようである。

 局員は顎に手を当てて少し考え、そしてあきらめたように言った。

「明日、局長に話を伝えて処分については検討します。それまでは寮の空き部屋を提供しますので、そこで過ごしてください。今から案内します」

 局員は鍵、持ってこい、ともう一人に呼びかけると、立ち上がった。もううんざり、といった表情である。

 反対に、男は立ち上がりながら陽を睨みつけた。しかし、その口元は微かに笑っている。これで事がうやむやに終わらせられることもない。それに、完全に上の住人のせいなので、自分は被害者になるのだ。男は良い性格をしていたので、口では文句を言っていても、この事態が愉快で仕方なかった。

 そのことは陽も気づいてはいたが、ただただ管理局の決断を待つだけである。

 そのあと、寮の空室に入って、ぼんやりと天井を見上げた陽は、明日のことを思って頭痛がする思いだった。


 

 ......そして、今に至るのである。

 陽の話を聞いた黒神は、人差し指で卓を軽く叩きながら言った。

「夜落まで持ち込んだぞ、まったく」

「夜落まで」

 夜落は、照の君に一番近いとも言われる側近集団である。日照ではなかなかの地位にある長殿官吏の陽たちでもそれ以上知りえないほど、その内実は謎に包まれている。長殿と夜落殿の間には鬱蒼とした林が立ち、その外側を長い塀が囲んでいるせいで、まるでその奥にある迎光宮を隠しているようであった。長殿の官であっても、林の中に一歩でも踏み入れれば不法侵入となってしまうのだ。

 そんな夜落までこの話が持ち込まれたということに、陽はぞくっとした。このぐらいの話、長殿内で解決できそうなものだが、わざわざ夜落まで伝えられるというのは奇異なことである。

「処分は夜落に委ねた―異議はなしだぞ、転局だ」

「......はい」

 黒神は続けて言った。あまりにあっさりとした言い方に陽は少し拍子抜けしたが、勿体ぶられるよりも良かった。何分、昨日から今日まで十分すぎるほど焦らされたのだから。

 転局になるのは陽にも分かっていたので静かに頷いたが、ふと、首を傾げた。―長殿に神楽局より下位は無いのである。あり得るとすれば下官として長殿の官に仕えるかだが、そういう場合には『転局』という言い方はしないのではないだろうか。

 そんな陽の表情を読み取ったのか、目の前の不機嫌そうな男は初めて少し微笑んだ。そうすると、目元が釜内と少しだけ似ている。

「転局、と言ってもこれより下は無いのではないかと思っているのだろう」

「はい」

 陽が頷くと、後ろで釜内もこくこくと頷く気配がした。

「私も気になります」

「お前は気にならんでいい」

「えええ」

 食い気味に冷たくあしらわれた釜内は、困ったように呟いた。しかし、黒神はそんな従弟を放っておくと、陽の瞳をしっかりと見据える。...心なしか、その顔に冒険に出る前の少年ような色が浮かび、陽は思わずじっと見つめた。

「......第十一指垂水局に転局に決まった」

「十一!?局長、十一なんて無いですよ」

 釜内が素っ頓狂な声を上げたが、黒神は今度は無視せずに頷いた。おかしくなったんですか、と騒ぐ釜内をなだめるように片手をあげ、そして眉を下げた。

「夜落側が言ってきたのだからあるのだろう。だがしかし、長殿に二十数年いるが、この私でさえ十一指目など聞いたことも無いのは確かだ」

「陽をどこに連れていくつもりなんでしょうかねえ、全く!ちょっと床が抜けただけでしょう。事故ですよ、事故」

 憤慨する釜内とは対照的に、陽は冷静にこの処分を受け入れていた。むしろ、陽の口元は微かに弧を描いている。その表情を見て黒神は少し眉根を寄せたが、すぐに声を潜めてささやいた。

「山河内、今日彰も同席させたのはそういうことだ。何かあったらこいつか私を頼れ」

「何か、とは」

 変わらない声色で尋ねる陽に、黒神はふいに真剣な目になった。小声でぶつくさ言っていた釜内も自然と静かになってこちらを見る。今や、二人の視線が陽に注がれていた。

「......君を追い出して訳も分からない局に押し付けたいものがいるとしたら、あいつだろう。黒神家うちはあの家とあまり仲が良くないが、その代わりに味方になれる。私なら、君を垂水局なんて訳の分からないところには行かせないで済むだろう。どうだ、うちに来ないか。君は......」

 陽は何も言わずに局長の目を見た。混じりけのない黒色の瞳の中に反射して自分の顔が見えた。そこに映るのは表情のない細面だけで、その奥にある感情は微塵も現れていない。陽は、微かに息をついた。そして、次に続けられる言葉を静かに待った。

「......今回の処遇に伊和家が噛んでいるとは思わないか」

「伊和家が?」

「少なくとも、私はそう思う」

 黒神は、真剣な目でそう続けた。

「君は自分が思っているより貴重な存在だ。私は君が何者か知っている」

 もったいぶられた言葉に、釜内が後ろで息をのんでいるのが分かった。分かりやすい男である。

 陽はしばらく、黒神の後ろにある窓から見える曇り空を眺めていた。黒神のほうも陽が口を開くのを待っている。部屋はしんと静まり返り、はるか遠くの人の声でさえ聞こえるほどであった。

 しかし、緊張した空間に似合わない、やけにまじめな声で陽は言ったのだった。

「山河内家の長男であるという以上に何もないと思いますが」

 沈黙が落ちた。もういちど、黒神の瞳が陽の瞳をしっかりと捉え、探るように見つめる。

「......そうか」

 やがて、たっぷり時間をかけて黒神は呟く。そして、少し落胆した様子の黒神は、かすかに頷いた。どうやら求めていた返事ではなかったようで、そこまでの真剣な様子は取り払われ、納得したように何度も頷く。

「うん、わかった。だが、もし良かったら......何か変なことがあったら釜内にでも伝えてくれると嬉しい。私は君をから」

「困ったことがあったら、」

「うん」

 気楽に相談してくれ。そういった黒神はその顔に笑みを浮かべて言ったが、その言葉でさえも冷静な陽の表情を変えることはなかった。







 

 






 

 

 






 

 



 

 



 





 


 

 


 




















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涓滴、岩をうがちて 西海こか @ocha1103

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