とりあえずビール

明日和 鰊

とりあえずビール

 別居中の妻から「離婚について真剣に話をしたい」というメッセージがLINEで届いた時、私は一人で居酒屋の入り口に立っていた。

 すぐ後ろに来ていた客に押し込まれるように店内に入った私は、初めてきた店なのになぜか懐かしい店だなと感じた。

 赤提灯を掲げた門構え、ガヤガヤとうるさい客の声と活気の良い店員の注文を厨房に通す声、店内に充満する料理の匂い。気取った様子がなく、どこの街にも必ずある、これぞ大衆居酒屋といった店だ。

 カウンター席に案内されてお通しが出されると、店員が注文を待っている。

 普段ならどんな店でも「とりあえずビール」といくところだが、今日は「後で注文する」と言い、壁に貼られた短冊形のメニューを眺める。

 メニューにアルコールは、ワイン、焼酎、ハイボールなどいくつか書かれていたが、店の雰囲気と同じく、気取った料理などないこの店ではとりあえずビールを頼むのが正解だとわかってはいたが、今日はなんとなく、「とりあえず」という考え方に抵抗したかった。


 四月から元部下が直属の上司になることを社内の噂で耳にした。

 元上司が部下だとやりづらいかなとも考えたが、特別やりたいこともスキルも持ち合わせていない私にとって、辞めるという選択肢は浮かんでこなかった。

 そもそも出世レースから外れていた私にとって、いつかは来ることがわかっていた事だ。

 しかし現実にその時が来ることを知ると、いささか気持ちが重くなった。

 だから今日は社内の人間の誰とも会いたくなくて、普段とは違う駅で降りて目についた居酒屋に飛び込んだ。


「とりあえず」という言葉は私の人生を表しているようだと、最近つくづく思う。

 後のことはさておいて、まず目の前のことだけ考える。

 一見、目の前のことに集中して一生懸命やるという良い聞こえ方もするが、私の場合は先の展望を持たずに、ただ今だけを事務的に処理してきただけである。

 マイナスではないがプラスでもない。

 今の境遇は至極当然の結果だが、それでも胸をよぎる一抹の虚しさが私を見知らぬ街の居酒屋へと足を運ばせたのだろう。


 妻からもう一度メッセージが送られてきたが、私はそれを確認せずにメニューを見続けた。

 そういえば妻との関係でもそうだ。

 社内で知り合い、なんとなく付き合い始め結婚をした。

 特別好きだったわけでもないが、周りに独身の知り合いが減っていたこともあって、とりあえず近場で相手を探した。

 妻もそれは同じだろう。

 恋愛中はそれなりに情熱を持っていた気もするが、今となってはそれすら記憶の幻だったのではないかと思えるほど、妻との関係は冷え切っている。

 妻との対話を避けているのも、無意識に億劫な問題を考えないで済むように後回しにしてきた私の性格によるものだろう。

 そろそろ変わらなきゃいけないな。

 

 私はスマホをつかもうとした。

 が、手を止め店員に声を掛ける。

「とりあえずビール」

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