故人書店
さしもぐさ。
第1話 植物図鑑(1)
起立。
気を付け。
礼。
十五時二十五分。燦燦と照りつける太陽の光、そして夏の足音が聞こえ始めた大気とセミの声が校舎を包む。ホームルームを終えたこの教室、私の所属している一年五組では、自由を享受したクラスメイトの一同がそれぞれ自由に動き始めた。部活に繰り出す人、下校中にショッピングモールへ寄る約束をする人、教室後方のロッカーからほうきを取り出して掃除に励む班の人、様々だ。私にも、私の予定がある。机に手をついて席を立つと、友達に話しかけられた。
「や、
いつも休み時間に遊んでいる友達たちだった。昨日だったらついていっただろうけど(雨が降っていたからさ)、残念ながら今回は見送りだ。私は頭を振って、
「ううん、ごめん、今日はいけないんだ。用事があって」
すると私の友達は窓の外から見える空を見て理由を察したらしく、「なるほどね」と呟いた。入学式から続くけして短くない付き合いの中で、私の仏頂面と習性は友達の間に知れ渡っている。中学生の頃はなかなか理解されなかったので、やりやすくて助かる。
「うん。だから遊ぶのはまた明日で」
「おっけー、それじゃまたね」
「またね」
校舎を出た。学校の敷地内に設置されている停留所で下校する生徒を待っていたスクールバスをスルーする。そして私は徒歩で校舎を抜け出し(私の学校は基本バス通学なので、これはちょっとしたリスクだ。偏屈な教師に見つかったりしたら面倒だが、そのスリルがちょっと楽しい)、人のいない小さな道を選んで歩く。視線を斜め下に落としつつ。
この季節であれば、ハルシャギク辺りだろうか。そう思いながら道端に生えている草を目で追いつつ歩いていると、お目当てのハルシャギクを発見した。空き地や道端に生える一年草。キク科、ハルシャギク属。花の中心の濃い紅色を囲うように周縁に黄色が配置されている、美しい花だった。
しかし雑草である。
しかしそもそも雑草という言葉自体が人間の恣意にまみれた言葉であって、植物には雑も丁寧もない。人々がありがたがるようなお高くとまった花もおいしく育つ野菜も、雑草とは違って放っておけばすぐに枯れるし、すぐに食われてしまう。そういった状況の中で健やかに育つことのできる植物たちに対して「雑草」とは、全く、何の思慮も考慮も遠慮もない短絡的な命名だとは思わないのだろうか。
早口で語りすぎた。文字数が増えるだけなので割愛する。ただでさえこれは長い話になるのに。
要するに、下校中に道端でお目当ての植物を見つけたということだ。そして私は、持参していたバッグから一眼レフカメラを取り出した。
植物に向ける。
上から撮るのは楽でいいが、印象の薄いぼんやりとした一枚になってしまう。構図による遠近感や被写界深度の深さなどを考慮すると……もっと下から撮った方がいい写真になりそう!
とある放課後の、人っ気のない初夏の道。そこにはたった一人で制服を着たまましゃがみこんで手のひらよりも小さい花を下から撮る女子高校生がいた。
私だった。
撮りたかった写真を撮れて満足していた私は、最寄りの駅に向けて歩いていた。一眼レフは手に持ったままだ。いつ何が目の前に現れるかわからないから。しかし目ぼしいものがあるわけでもなく、私はいつものようにこの町で一番大きな公園に差し掛かった。そこそこの規模の公園だ。噴水だってある。犬を散歩させるおばさんやボールを蹴る子供たちの横の道を通り、私は駅までの道を進んでいた。この公園を抜ければ、すぐに駅に着く。
特に、珍しいものは無かったな。
そう思って、バッグに一眼レフをしまった、そのとき。
目が合った。
「……!!」
しかし彼(彼女?)は、そそくさと歩いてその場を離れていく。
「ちょっと、待って! 写真撮らせて……!」
そんな私の懇願も空しく、空間を切り取ったかのようにある黒いからだに宝石のような目を光らせる美しい黒猫は、私の前から去って公園を出ようとしている。
逃げちゃう!
私の判断は早かった——猫が去る前にバッグからカメラを取り出して撮影するのは不可能。今私が取るべき行動は、この可愛い猫の追跡。そして私は、歩き出した猫の後をつけていった。黒猫は何度か後ろを振り返って私を見たが、走って逃げることは無かった。
黒猫は、公園を出ると住宅街に入った。道行く人々に挨拶をしつつ、しかしじゃれついてくる子供たちは華麗に避ける。なかなか隙が無く、バッグからカメラを取り出す暇もないまま、ついに黒猫は住宅街を抜けてビル型の建物が車道沿いに立ち並ぶ駅周りの区域に入った。そして、ついに黒猫が……姿を消した。
どこに行っちゃったの!?
そう思って焦ったが、果たして黒猫はすぐそこにいた——ビルとビルの間に挟まれた小さな道、路地裏とも言えないような道を、細く柔らかい体でするすると奥へと進んでいく後ろ姿を視界に捉えた。ここまで来たら、もう引けない。私も黒猫の後を追い、これまでに入ったこともない空間へ足を踏み入れた。
本当に狭い空間に入ると、呼吸が浅くなるということを学んだ。黒猫がすいすい進むその裏で、私はと言えば換気扇からの汚い排気を顔いっぱいに受けたり、室外機の上で足を滑らせて名前も知らない虫の死骸に膝をついてしまったり、崩れかけの階段の細い手すりを通り抜けたり。およそ女子高生とは言えない風貌になりつつも、黒猫を追い続けた。ここまで来るとただの意地だ。
そしてその意地が、実を結んだ。黒猫がついに立ち止まったのだ。
もはやどこなのかもわからない、町の裏の裏——路地裏のさらに裏。数えきれないほどの室外機や階段やドアやパイプが周囲に見える。いくつもの高いビルに囲まれ、昼なのに薄暗く、首が痛くなるまで顔を上げないと空を拝むこともできない空間。普段だったら絶対に来ない空間だけどでも可愛い黒猫の写真取れるからいいか!
「ごめんね、こっちを見てくれる? 大丈夫、ちょっと撮るだけだから!」
すると黒猫がこっちを見てくれた。その瞳は、まるで私に何かを誘っているかのようなミステリアスさを含んでいて、私はバッグからついにカメラを取り出して、ついに写真を——。
「おお、お帰りコユキ。……ん? 君はお客さんかな? 珍しい」
撮ろうと思ったのだが、その瞬間に私と黒猫の目の前にあったドアがギイギイと音を立てて開いたので私は反射的にカメラを下ろし、そして、その人と目が合った。
ドアから顔を出した人は、ぼさぼさの髪に黒縁の眼鏡をかけ、眠たそうな目で私を見ていた。そして、薄い緑色の袴を着ていた。そして、これが一番大事な情報なのだが、その人は足の部分が透けていた。
足の部分が透けていた。
まるで、幽霊のように。
その人は私を見ると、ニッコリと笑って、こう呟いた。
「君は、コユキに誘われてきたのかな? ようこそ、故人書店へ」
「個人書店?」
思わず聞き返した私に、その人は、「いいや、個人書店じゃない。故人書店だよ」と改めて言った。そして、ドアの上にあった看板を指さした。
そこには確かに、『故人書店』と書いてあった。
「私は、この書店の店主だ——幽霊をしながら、ぼちぼちこの店を営業している」
「……は、はあ」
困惑していると、そんな私を横目に見ながら黒猫(「コユキ」という名前らしい)がドアを通って故人書店へと入っていった。……ちょっと。
「写真、まだ撮ってないんだけど……」
引き留める私の手も虚しく、コユキは中に入ってしまった。この、怪しい店の中に。そんな私を見た店主は、あごに指を置いた。
「見るに、君はコユキの写真を撮りたいみたいだね?」
「……あ、は、はい。そう思ってました」
でももうあきらめて帰ります。そう言おうとした私の手を、故人書店の店主は強く握って、私を店の中へと引きずり込んだ。
「じゃあちょうどいい。コユキはこの店が好きであまり外に出ることはないから、写真が撮りやすいだろう。君に見せたいものもあることだし、中に入ってくれたまえ」
「は? は? は?」
状況が掴めずにハ行の一段目しか喋れなくなってしまった私に構わず、店主は無理矢理私を暗い店内へと招き入れた。
こうして随分と数奇な展開を辿った結果、私は、駅前のビルが立ち並ぶ区域の、奥の奥の奥、そしてさらに少し奥にある、誰もいない個人書店——おんぼろビルにある書店。生きているもののいない書店。本の未練を果たす書店。幽霊が店主を務める、その名も「故人書店」に出会ったのだ。
「お邪魔します……」
「邪魔なんかじゃないよ。ようこそ来てくれたね」
薄暗い店内に入り、辺りを見回した。しかし何も見えない。後ろの開いたドアから入ってくる光で、なんとか足元だけは見えるという状態だった。しかし店主によってそのドアも閉められ、完全に何も見えない暗闇になってしまった。帰りたい。本当に何も知らない場所で真っ暗闇に包まれると、人はここまで恐ろしさを感じるのか。もう隙を伺って後ろのドアから逃げようか?
そう思っていたが、しかしこれを実行することはなかった。店主が照明を起動したからだ。
「……!」
そして光によって景色が切り開かれた私の視界に飛び込んできたのは、特徴的な故人書店の内装だった。
床から天井まで木造で作られていて、この素材によって年季を持ちつつも温かさを感じる空間が準備されている。私は入り口のドアから数歩進んだ場所に立っていて、丁度円の形をしていた空間の中心にいた。円の左右の端に丸い形をした窓がそれぞれ一つずつあり(店主がカーテンを開けると、太陽の光がちゃんと入ってきた)、そして私から見て右斜め後ろには店主のデスクがあった。デスクの他には雑多な物品が床に散乱しており、日本刀やスーツケースなどが見える。デスクには様々な、本当に様々な本が無造作に置かれていた。昭和の時代のファッション誌から最近流行りのスマホゲームの攻略本まであった。デスクの隣には大きな鳥かごが設置されていたが、その中には何も入っていなかった。そして、この空間を照らす頭上の照明には木造のシャンデリアが使われていた。光源となるライトを、木材で作られた輪が何本も取り囲んでいる構造だった。設計上シャンデリアとしては暗いが、床に埋め込まれた小さな照明がその暗さを打ち消していた。そして、これがこの空間の一番の特徴なのだが、私のいる円形の空間には二つの回り階段があり、その上に大きな本棚が頭上に続いているのが見えた。階段の先にあるのは木造の床に木造の本棚が設置された構造で、採光性を意識しているらしく窮屈に見える空間でありながら爽やかさをも感じさせる空間づくりがされている。そこでは照明としてシャンデリアでもなく床の照明でもなく、本棚に取り付けられた行燈がその役割を果たしていた。本棚が立ち並ぶそのスペースには、私のいる空間と同じような階段が取り付けられていて、どんどん上へと続く設計になっていた。終わりが無いのではないかと思ってしまう程に際限が無い。首が痛くなるほど視界を持ち上げても、天井が見えなかった。見上げていると、ぽつんと一つだけ、小さな窓が開け放たれていることに気づいた。
そして、肝心の黒猫(コユキさん)だが。
いた。
私が今いる空間を一階として、二階にあたる本棚の行燈の上に座り、じいっと私を見下ろしていた。熱くないのかな?
一通り店内を見終えると、デスクに座った店主が、「どうだい」と声をかけてきた。
「この内装は、僕のお気に入りなんだよ。少し無理を言って作ってもらった」
「そうですね」
少し無理を言っただけでこんな空間が出来上がるのか? 本棚に行燈を付けても火事にならないようだし、そもそもこの故人書店は明らかに入居しているビルよりも天井が高いのだけれど。
私の頭が混乱したまま、店主はさっき座ったばかりのデスクの席から立ち上がった。
「ルームツアーでもしようか。君みたいな普通の人間にとってはなかなか見ない空間だろうから」
そう言って、私の返事も効かずにすたすたと階段を昇って行ってしまった。
今なら逃げられる。さっきまではすぐそこに店主がいたが、今の私には退店を引き留める者はいない。でも、なんだか。
それはもったいない、と思った。この空間の持つ不気味さと温かさに、心を奪われている自分がいた。
今思うと、この時点でもう、私と故人書店との縁は切っても切れないものになっていたのかもしれない。
店主に続いて私も回り階段を上った。店主は私を振り返って笑うと、コユキの座っている行燈の元へ歩いた。私も続いた。本棚の横を歩きつつ、店長は私にこの書店について教えてくれた。
「ここの書店の本は、少し特殊でね」
「はあ」
「人間の書店と違って、新品じゃないんだ」
「古本屋、ということですか?」
言われてみれば、本棚に並んでいる本は全体的に古く見えた——黄ばんだ文庫本や、少し表紙の切れた写真集などが見える。しかしこの解釈は違ったらしく、
「ふふふ」と店主は笑った。
「確かに似ているけど、違う部分もあるんだ」
「はあ」
「『故人書店』の由来の一つでもある。店主の僕が幽霊であるということが勿論一番の由来なんだけどね。これらの本棚にある本は、全部、」
——持ち主を失った本たちだ。
「……」
持ち主を失った本?
「そう。でも別に、持ち主が私みたいに死んでしまったって話ではないよ。勿論そういう本もここにはいるけど、少数派だね。ここにある本の大体は、大切に扱われてはいたけど時間の流れによって持ち主に置いていかれたり存在を忘れられたりしてしまった本だ。言い換えると、持ち主に読まれなくなってしまった本」
言われてから、再び本棚を見た。よく見ると、以前は人によって大事に使われていたのだということが伝わってくる本たちだった。付箋が大量に貼られていたり、表紙の隅にクラスの番号と名前が書かれたりしている。これらの本が、持ち主と繋がっていた証。
本棚を見つつも歩いていると、コユキの元へたどり着いた。
「ふにゃあ」
今まで鳴き声を拝聴していなかったので知らなかったが、どうやら彼女は眠そうな声で鳴くらしい。らんらんと目を光らせつつ、覇気のない声で無く黒猫。
「どうやら、コユキは君が気に入ったみたいだよ」
店主が突然そう言いだすので、私は「そうなんですか?」と聞き返す。
「私は幽霊だから、彼女の言っていることは大体わかる。コユキはね、『この書店までついてきてくれた子供はお前が初めてだ』と嬉しそうに語っているよ」
そうなのか。あの「ふにゃあ」に、そこまでの内容が隠されていたのか。
「……いや、でもそれって、店主が代弁してるだけですよね? コユキさんはそんなこと考えてないんじゃないですか?」
ふと我に帰った私がそう言うと、店主は首を振った。
「ううん、彼女は化け猫だからね。幽霊とは近い存在だから、結構言葉が伝わるよ」
「……化け猫だったんですか、コユキさんって」
「うん。僕より年上だ」
コユキさんの写真を余すことなく撮っていると、店主に「君は写真が好きなんだね」と言われた。
「はい、好きですよ。店主も撮りましょうか?」
「いいや、遠慮する。心霊写真は人間にとっては珍しいかもしれないけど、僕からしたらただのセルフィーだからね。逆に、僕が君を取ってあげようか?」
「はは、いいですよ」
「どうしてだい?」
「私、自分が撮られるのは嫌なんです。表情筋が固いので……」
「ふうん。そうなんだ。写真を始めたきっかけは何だい?」
「きっかけ……」
私が写真を始めたきっかけ。何だろう。思い出そうとしたが、何も出てこない……。
答えられずにいる私を見て、店主は、
「まあ、自分の習慣や趣味を始めたきっかけなんて、意外と曖昧だったりするものだからね。忘れてても無理はない。……まあ、」
すぐに思い出すと思うけどね。
「? どういうことですか?」
店主の言葉の真意がくみ取れず、私はそれを尋ねた。しかし、「それは秘密」とはぐらかされてしまった。
なんてことをしていると、コユキが「ふにゃあ」と鳴いて行燈を降りた。そして、本棚と本棚の間へ進んでいった。え、もう撮影会は終わり?
「彼女は『ついてこい』って言っているよ」
「そうなんですか?」
店主がコユキの方を指さすと、コユキは立ち止まって、ライトのように光る目を私に向けていた。
「行ってきなさい。きっと、何かに出会えるから」
そんな店主の言葉を背中に受けつつ、私は歩き出した。しかし、「君」と、呼び止められた。
「持ち主に忘れられた本に価値はあると思うかい?」
突然の質問に、私は答えに窮した。忘れられていても、使われていた本なのだから価値があるに決まっている。……いや、果たしてそうなのだろうか? 本当にそう言えるか?
だって。
本当に大切なら、そもそも忘れるはずがないじゃないか。
店主はどう思うんですかと聞こうと思ったが、気づいた時にはその姿は消えていた。仕方なく、私はコユキの元へ向かった。
本棚と本棚の間に挟まれた空間を歩く。図書室みたいだったが、大きな違いがある。長い。図書室の本棚なんて数分もあれば見て回るのには十分だが、この故人書店においてそれは参考にならない。あんなに高く続く本棚たちは、横もこんなに長いのか。無限に続くのではないかと疑ってしまう。でもたしか、全ての本を所蔵する本棚というのは論理的に存在しえないのだっけ? 詳しくないから知らないけれど。そんなことを考えつつ、行燈の淡い光の中を進みながら、私はコユキを追っていた。
数分進んで、ようやくコユキが立ち止まった。私も止まると、コユキは私の顔を見上げて、
「ふにゃあ」
と鳴いた。
「……ここの本を取ってほしいの?」
「ふにゃあ」
意図を聞いてみるも、さっきまでと何も変わらないトーンで鳴くばかりで反応に困る。私は店主とは違い、コユキの言っていることまではわからない。でも、とりあえず本棚の方をコユキが見ているので、本棚に用事があるのは間違いないと思う。
そう思い、私もコユキの見ていた場所に目をやった。すると、コユキが目の前の本にちょこんと肉球を触れて、再び「ふにゃあ」。
「……この本が欲しいの?」
コユキが黙ったのを是認と捉え、私はしゃがんで本棚の一番下の段にあったその本を取り出した——大きな植物図鑑だった。
「へえ、コユキ、こういうのが好きなの? だからあの公園にいたのかな?」
「ふにゃあ」
私はその本を開いた。そして、ついに気づいた。
この本を求めていたのは、コユキではなく私だったということに。
この植物図鑑の表紙に、太いマーカーでこう書かれていた。
「せつな」
……これ、私の名前だ。私の文字だ。つまりこれは、私の本だった、ということになる。
ここは故人書店。持ち主との絆が切れた本が集まる場所。
私にも、そんな本があったのだ。忘れていたけれど。
店主が尋ねてきた、「忘れられた本に価値はあるのか」という問いを思い出す。さっきは、答えがうやむやになってしまったけど。
私はこの本を通じて、その問いに向き合わざるを得なくなってしまった。
植物図鑑を持ちつつ、コユキの後を追って私は本棚を抜け、店主の座るデスクまで戻ってきた。店主は私たちを見ると、軽く微笑んで私たちを手招きした。私は手にした植物図鑑を店主のデスクの上に置いた。
「私の本が、ありました」
店主は私を見て、
「うん、知ってた」
と答えた。
「ここはあらゆる人との関係を失った本を受け入れる故人書店だからね、君と関わりのあった本だって所蔵されているよ。それに」
「それに」
「その本と君との思い出だって知っているよ」
「……思い出、ですか?」
私は、デスクの上に置かれた植物図鑑の表紙に目をやった。しかし、私には何の記憶も湧いてこなかった。ただ、昔はこの図鑑を使っていたなあ、という漠然とした記憶があるだけだ。
「開いてごらん」
「……開く」
「その本は元々君のものだったんだから、その権利があるはずだよ。そうすれば君は、きっとこの本にまつわることを思い出せるだろうね」
そして私は、その本の最初のページを開いた。するとそこには綺麗なボールペンの字で、こう記されていた。
「せつなちゃんへ たのしかったよ! 木よう日のおひるにまたあおうね みのり」
その瞬間、私の中に、忘れていた「記憶」があふれ出した。なんで忘れていたんだろう。どうして思い出せなかったんだろう。
その記憶を思い出した途端、本が重くなった——急に。忘れていた思い出の分まで重量が増したのだ。
私はその本を閉じてから、胸に抱えた。本の表紙は冷たかったが、それすらも温かく思えた。
私は思い出した。
この本が無かったら、私は今の私ではなかったということを。
「写真を撮ってみたらどうだい? 君は写真が好きなんだろう?」
店主がそう切り出したのは、私が植物図鑑をデスクに戻したときだった。
「写真?」
突然の提案に思わず聞き返すと、店主は「そうそう」と私のバッグを指さした。
「だって君、一眼レフを持ってるだろう」
そういえば、店主は帰ってきたコユキへドアを開けたとき、コユキの姿を撮影しようとした私を見ていた。そのときに一眼レフを構えていたのだった。
「コユキが言っていたよ。地面にしゃがんで小さな花を撮ってる所を見たって」
「……コユキ、そのときから私のことを見てたの?」
私は店主の代わりに椅子に座っているコユキを見るが、彼女は丸くなって知らん顔で寝ていた。ため息をつきつつバッグから一眼レフを取り出して、デスクの上の図鑑を撮ろうとした。……けど。
「なーんか、違うなあ……」
——しっくりこない。私はわりとすぐに構図を決めて撮ってしまうタイプの人間だけれど、どうにもこのまま撮ってしまうことに抵抗があった。しかし、違和感の原因がわからない。すると店主が、口を開いた。
「それは君の本だろう? だったら、君が持つべきなんじゃないかい」
「え?」
予想外の提案に、返答がまごついた——私が持つ? 要するに、図鑑を抱える私の写真を撮るってこと?
私は、私を撮るのが好きではない。どんな表情で撮られればいいのかが未だに分からない体。だから、撮るものと言えば専ら生き物だった。特に植物。自分を被写体にするなんて、いつもなら絶対にしないことだけど……でも。
「店主さん、お願いします。シャッターを切ってくれませんか?」
「うん、任された」
店主がカメラを持ち(幽霊でも扱えるんだね)、私はデスクから植物図鑑を取り出す。それを両腕で抱くようにして胸に抱えた。
「それじゃー撮るよ。さん、に、いち……」
あんまり撮られるのは得意じゃない。撮られるときにどういう風に笑えばいいのかなんて、検討もつかない。いざ撮られる瞬間になって、どんな顔をすればいいのかわからなくなった時、私はふと、植物図鑑へ視線をやった。
思い出せてよかった。
ありがとう。
気づいた頃には、もうシャッターが切られていた。店主が「よく撮れてるかな?」と私に見せてくれた写真を覗き込んだ。
なんだ、私、上手く笑えるじゃん。
「じゃあね、コユキ。さようなら」
彼女の頭を撫でる。頭上の空は、橙色と藍色の混じった繊細なグラデーションを広げている。マジックアワー、というには少し遅い時間。「故人書店」と書かれたくすんだ看板が、私を見下ろす。
「またね、節菜さん」
手を振る店主に私は頷いた。そして、数えきれないほどの室外機や階段やドアやパイプがある周囲を見回した。この道を帰ることはできても、その後に戻ることはできないだろう。私は立ちあがって店主とコユキにお辞儀をし、踵を返した。
さようなら、故人書店。
——しかし、店主の声が私の背中に飛んできた。
「そういえば、君の答えをまだ聞いていなかったね。『忘れられた物に価値はあるかどうか』」
君はどう思う?
店主の問いかけに私は振り返った。
「忘れられたものにも価値はあります。当たり前じゃないですか」
すると店主はいたずらをする子供のような目をした。
「忘れているのに、かい? 価値があるのなら、そもそも忘れることは無いんじゃないのかな」
「それは逆です。もう十分にお世話になったから、忘れるんじゃないかって思います」
「ほう。どういうことだい?」
「私はこの植物図鑑に助けられて生きてきました。この本が無ければ今の私にはなっていなかったと断言できるぐらいに。……変な話をしていいですか?」
「うん、いいよ。僕は変な話が好きだ」
「私が植物図鑑の事を忘れてしまったんじゃなくて、植物図鑑が私に忘れさせてくれたんじゃないかなって思うんです。……同じように聞こえるんですけど、私にとってはかなり違っていて——」
私は、深く息つぎをした。
「——まるで、植物図鑑が私の成長を見守って、そして認めてくれたかのような。そのうえで、立つ鳥が後を濁さないように、私の中からゆっくりと消えていったかのような」
目を瞑る。すると、植物図鑑の感触を思い出した。
「祈りだと思ったんです。あの本が持っていた、私への祈り。それを感じたから、私はあの記憶の事を思い出せたんじゃないかな」
「おばあちゃんのことや、初めて写真を撮ったときのこと、そして『みのり』さんのこと……かい?」
「そうです。なので、私の答えは」
私は店主の目を見て、断言した。
「忘れられたものは、不要だったからこそ忘れられたんじゃないです。それらは確かに渡したちに必要とされていて、そしてしっかりとその役目を果たしきった。その結果、天命を終えた人が隠居するように、私たちの記憶の中からゆっくりと姿を消しただけなんです。だから、」
忘れられたものにだって、価値があります。
「——僕も同じ意見だよ、節菜さん」
すると店主は、私に手を伸ばして、こう言った。
「君になら任せられる」
その意味がわからなくて立ち尽くす私の手を、店主が掴んだ。幽霊だから何の感覚も感じなかったけれど、少しだけ暖かかった。
「実は、故人書店では新しい事業を展開しようとしていてね。しかし、人手が足りなかったんだ。でも今日、まさにそれにピッタリな人材を見つけた」
「——何の仕事ですか?」
「故人書店の本を、然るべき人に返す仕事だ……やってくれるかい?」
答える前に、私は考えた。その仕事は、今日の私が経験したようなことを他の人たちにも感じてもらえる仕事になるだろう。役目を終えた本たちの、「その後」の断片を見守ることのできる仕事。
答えなんて、考える前から決まってる。
「やります」
店主が微笑んだ。コユキも、「ふにゃあ」と眠そうな声をあげる。何と言っているのかは店主じゃないからわからないけれど、きっと悪い返事ではなさそうだ。
「決まりだね。節菜さん、故人書店へようこそ」
「……はい。コユキ、また今度ね」
店主とコユキが故人書店の中に戻るのを見送りながら、私は手を振っていた。ドアが閉まり、帰り道を振り返って、困った。周囲を見渡す。あれ?
「帰り道ってどれだっけ……」
いい感じで終わったところごめん、コユキ。残業お願い。
私を駅までエスコートして!
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