【KAC20246】催眠アプリが効いたのに先輩は堕ちてくれない

鈴木空論

催眠アプリが効いたのに先輩は堕ちてくれない(上)

「え、うそ。本当に効いた……?」


 R高校文学同好会の活動部屋である、図書室の横の狭い書庫の中。

 七瀬佳奈は携帯電話をかざしながら目を丸くした。


 携帯を向けた先にいるのは、四角い顔に眼鏡をかけた大柄な男だった。

 佳奈の一学年上の先輩であり、二人しかいない文学同好会の片割れでもある柳川吾郎である。


 だが現在の吾郎は椅子の背もたれにだらしなく寄りかかり、口を半開きにしたまま虚空を見つめていた。

 普段のの几帳面が服を着ているようなキッチリした姿勢の良さからは考えられない光景だ。


 吾郎がこんな状態になった原因は、どう考えても佳奈が手にしている携帯の画面だった。

 佳奈は半信半疑で呟いた。


「――この催眠アプリ、本物だったの……?」




 催眠アプリ。

 アプリを起動した携帯の画面を見せるだけで催眠術をかけて相手を意のままに操ることができるという、エッチな漫画なんかでたまに出てくるあれである。

 そのアプリによって佳奈は吾郎に催眠をかけてしまったようなのだ。


 この催眠アプリは佳奈と同じクラスの生物部の子が作ったものだった。

 つい最近催眠術という存在を知り、興味本位で試しに作ってみたらしい。


 それを聞いた佳奈は吾郎との話のタネに使えそうだと思い、自分の携帯にもそのアプリを入れてもらった。

 もちろん本気でこれが催眠アプリだなどと信じていたわけではない。

 催眠など本当にあるはずがないし、あくまでも冗談だと思っていた。


 ところが、である。

 吾郎への説明のためにアプリを起動して画面を見せたところ、途端に吾郎が見ての通りの抜け殻みたいな状態になってしまったのだ。


 佳奈は恐る恐る吾郎に近づくと顔の前で手を振ってみた。

 しかし吾郎はまるで反応しない。まるで目を開けたまま眠っているようだった。


「これやっぱり、催眠かかってるよね……」


 吾郎はドが付くほどの真面目な性格で、およそこういう類の冗談をするタイプではない。

 佳奈をからかっているとかではなく本当に催眠状態になってしまっていると見て間違いなかった。

 そういえば素直な人は催眠にかかりやすいという話を聞いたことがあるような気がする。


 大変だわ、早く正気に戻さなきゃ!

 佳奈は慌ててそう思った。

 だが、ふとすぐに別の考えが頭に浮かんだ。


 ――この状況、使えるのでは?




 佳奈は吾郎に密かに思いを寄せていた。

 文学同好会に入った動機だって小説を読んだり書いたりするのが好きだったからというのは本当だが、本音を言えば吾郎と親しくなりたかったからというのもあったのだ。

 割合で言うと七割……いや、九割八分くらい。


 だが、この一年近くを二人きりで活動していたというのに佳奈と吾郎の関係は何も進展していなかった。

 仲が悪いわけではない。むしろ同好会の仲間としてはかなり良好だっただろう。


 しかし、吾郎は佳奈に対してとても親切にしてくれるのだが、それはあくまで先輩後輩としてのみ。

 几帳面かつ真面目な性格が災いしてか一定以上のラインは決して超えないように気を付けているようのが感じられた。


 恐らくは昨今の何かあればすぐにハラスメントだと叫ばれる世相のせいだろう。

 吾郎としてはせっかく入ってきた部員を減らしたくないのかもしれない。


 そして、佳奈のほうは佳奈のほうで何とか自分を異性として意識してもらうためにアプローチを試みようと考えたりもしたのだが、考えてみるだけで勇気が無く結局何も行動できずじまい。

 そんなわけで男女の関係としては何も始まってすらいない、という状態だったのだ。


 そこへ突然転がり込んできた、この吾郎の洗脳状態である。


 上手く使えば先輩との関係を一歩前進させられるかもしれない、と佳奈は思った。

 いや一歩どころか、ひょっとしたら既成事実を作って一気にゴールイン、なんてこともあるいは……。


 佳奈はゴクリを唾を飲んだ。

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