サムライヌ

@3monbun4

第1話天を駈ける侍犬

 河原には見渡す限り、背丈の高い草が生い茂っていた。その為に殆ど見通しも利かず、誰がいるかも分からなかった。だが突如として辺り一面の草々を悉く薙ぎ払ってしまいそうな怒声が轟いた。

「このド畜生共め!」

 声の主は少女であった。ヒューヌ族の少女である。俗にヒト型とも称される知的生命体である。このワグゥと云う国には様々な種族が暮らしているが、その内でも特にヒューヌ族は、かなりの割合を占めていた。

 少女は長い髪を後ろで束ねて着物を纏っている。着物はワグゥで最もポピュラーな着衣である。彼女の着物は町人が着る一般的な着物と大差ないが、その立ち居振る舞いから、一見して武家の出の娘と分かる。

 数人の男達が彼女の前にいた。

「お嬢さん、アッシらは別に事件の事は知りませんよ」

「そうですよ。確かにアッシらは嘗てお嬢さんの御家で中間として奉公させて戴きましたがね。もう昔の話だ」

「全くでさぁ。お嬢さんの御父上様をお殿様と呼んでお仕えしておりましたが、そのお殿様もお亡くなりに成り、御家も御取り潰しに成った。もうアッシらとお嬢さんは何ら関わりもありゃあせんや」

 口々に抗弁している数人の男達はワンクゥオと総称される種族である。犬型の獣人に分類され、ヒューヌ族に仕える事が多かった。

 頭部が犬で全身が毛皮で覆われており、基本的に二足歩行する。人語を解し、手も物を摑める様に成っている。纏っている着物の後部は尻尾を出せる様に成っている。彼らは正に獣人と呼ぶに相応しい外見であった。

「この恩知らずのワンクゥオ共め!」

 怒りの声を発した少女は石動静芽。先頃、改易に処された石動家の娘である。突然の父の死に不審の念を抱いた彼女は、真相を探るべく、旧臣達から情報を得ようとしたのだが、上手く協力を得られずにいた。

 旧主の娘たる己が一言掛ければ、何かしら得られるものが有る、と期待していた。だが当てが外れた。思いの儘に成らぬ事態に陥り、彼女は苛立ちをぶちまけた。而して、そんな彼女の言い様は、旧臣達を逆上させるに充分過ぎた。

「巫山戯るな!多少は恩義に報いようと思って居ればこそ、こうして呼び出しに応じて、律義にこんな草っ原迄やって来たってゆーのによぉ!」

「そうですよ。もう主従でも何でも無いってのによぉ!」

「全くでさぁ。さっきから聞いてりゃあ、ド畜生だの恩知らずだの、散々な言われ様だ!」

「未だにお嬢様気分でいやがって!こちとら昔っから其の高飛車な態度にムカついてたんだ!」

 旧臣達からの反撃に静芽は涙目に成った。だが彼女は諦めない。若干、声は弱々しく成ったが、それでも彼女は鋭く怒気を放った。

「おのれ、下郎・・・めっ!」

「今度ぁ下郎と来やがったぜ」

 半ば呆れてきた旧臣のワンクゥオの内の一人は、諭す様に語り掛けた。

「御家の御取り潰しは、もう幕府の沙汰が下ったんです。どうにも成りませんよ」

 ワグゥと云う国は幕藩体制である。幕府のトップには征夷大将軍が君臨しており、将軍の許に大小様々な種族の武士階級の者達が仕えている。

「孤立無援なんですよ、お嬢さん」

「それとも何かい?たった一人で幕府の裁定を覆そうっての?」

「はん?幕府に立ち向かおうっての?そんな覚悟あんの?」

「全くでさぁ。幕府の御沙汰に逆らうって事ぁ、場合によっちゃあ御家再興処じゃあねぇ、生命を捨てる覚悟さえ必要ってもんよ。其処迄の覚悟が有るってんの?」

「か・・・覚悟・・・だと?」

 暫し俯いていた静芽は、カッと目を見開き、昂然と顔を上げた。

「そんなに見たけりゃ見せてやるよ!アタシの覚悟ってのをさぁ!」

 帯に手を掛けた彼女は、スルリと解いた。はだけた着物の間から素肌が眩しく輝いた。

「何もかも捨てようとするアタシの覚悟を、とっくりと拝みやがれ!」

 一大決心を表明した彼女は更に全てを脱ぎ捨てようと、着物の衿をガッシと掴んだ。だが其の様子を見守るワンクゥオ達は冷静さを失っていなかった。

「お待ち下さい。お嬢さん。御覚悟の程は確かに伝わりました。ですが、アッシらは何も知らないのです」

「そうですよ。改易の事ぁ、アッシらにとっても寝耳に水の御話だったですよ」

「全くでさぁ。抑々アッシら中間風情が御家の大事を存じておる筈は御座いやせぬ」

「そーだそーだ。大体よう、そんな洗濯板みてぇーなもんを見せ付けられた処で、別に色仕掛けにも成りゃしねぇーぜ」

 協力を得られ無かった事よりも最後の余計な一言の方が、静芽にとってダメージが強烈だったかも知れない。

「ぐっ・・・ぐにゅにゅぅ・・・せ・・・せんた・・・きゅう・・・ひぃ・・・た」

 主筋としての優越感や女としてのプライド等、様々なものを打ち砕かれた静芽に対して、それでも猶、ワンクゥオ達は一礼した。

「お役に立てず相済みませぬ」

「無念乍ら、これ迄とさせて戴きたく存じます」

「全くでさぁ。もう町で出会っても声なんざぁ御掛け下さるな」

「では、これにて御免仕る・・・どうか御息災に・・・」

 随分な言い争いに成ったにも拘わらず、去り際にワンクゥオ達は彼女に対する気遣いを示した上で立ち去って往った。そうした気遣いが却って彼女の胸を突き刺した。彼らの申す処の、平たい胸ではあったが・・・

「うぅ、犬っころの分際で、アタシを憐れむなんて・・・」

 悔しさに無力感がトッピングされて、彼女は其の場に膝を付いて崩れ落ちた。

「うわーんっ何なのよ、もう!」

 薄々は彼女も気付いていた。彼ら中間が事件の真相を知り得る立場になんて無い事を・・・それでも何ら手掛かりを摑めぬ状況では正に藁にも縋る思いで一縷の望みに賭けたのだ。

 同時に、もう一つの事にも思い至っていた。己の高慢な態度である。武家の娘としての誇り、と云えば聞こえは良いかも知れないが、所詮は我儘なお嬢様気質に過ぎない。

 昔はそれで通った。その様に育てられたのだ。だが其の拠り所と成る『御家』は今や取り潰されている。こんな状況で誰かの支援を受けたいので在れば、改めるべき姿勢である。しかし出来無かった。従来通りに主君面して相手を見下して仕舞った。上から目線で怒鳴り付けて仕舞った。

 改めねば、と思いつつも、容易くは行えぬ己が居た。

「何でよぉ!何で皆、言う通りにしてくれないのよォ!どうすれば良かったのよォ!家が潰されても知らん顔してれば良かったってゆーのォ!」

 泣き乍ら彼女は叫んだ。嗚呼、構うもんか。泣き声を聞いて居るのは河原の草だけだ。だったら遠慮なく泣き叫べば良い。

 そう、その筈だった。

「気丈そうに見えても、脆い処も有るって処か・・・」

 不意に横から声が掛かった。

「へっ?な、何奴?」

 声のした方向に顔を向けると、其処には一人のワンクゥオがしゃがみ込んでいた。泣き顔を見られた事を恥ずかしく感じた静芽ではあったが、己の着物がはだけた儘なのは気にして無い様だ。

 別に羞恥心が欠落している訳でも無かった。唯、ヒューヌ族の大半は他種族を見下しており、そうした或る種の特権意識が、下々の者に見られても平気、と云う心理を醸成しているのであった。これは殆どヒューヌ族の共通認識と云っても決して過言では無かった。

「き、貴様は一体?」

 旧臣達とは全く別のワンクゥオである。先程のワンクゥオ達は頭部が犬面ではあるが、背丈はヒューヌ族と大差ない種族である。しかし今、目前に現れたワンクゥオは子供位の体格である。だが成年に達していない訳では無く、所謂小型犬種に属する種族の様だった。

 粗末な着物から一見して牢人者と分かるが、腰に差した大小二本はなかなかの業物の様だった。

「突然で驚かせちまったかな。別に怪しいもんじゃ無ぇよ」

 ソイツは、にっこりと笑った。警戒心を持つのが馬鹿馬鹿しく成る程に、邪気の窺えぬ笑顔だった。

「ちょいと、其の辺に寝転んでいただけのもんさ」

 河原は辺り一面が長い草で覆われている。唯でさえ、視界が利き難いのに、寝転んだ相手は尚更、目に入らないだろう。

「こ、こんな草っ原に寝ておったじゃと?な、何故?」

「これ程に寝心地の良い所で寝ないで、どうするってんだい?」

「うぐっ」

 サラリと、そいつは静芽の問いに答えた。自然な口調には妙な説得力が有った。唐突に静芽の胸中に、アタシも寝転んでみたい、と云う衝動が走った。

「川の潺が子守唄代わりさ」

 耳をピクリとさせ乍ら、ソイツが告げた。すぐ横には小川が流れている。川面を渡る風も穏やかで眠りを誘っている。いつしか静芽は目を閉じて、川の流れる音に耳を傾けていた。

「ああ・・・とても安らぐ音色だ。何だか懐かしい気もする。いつか何処かで聴いた事があったんだろうか?」

「そりゃあ、おっかさんの胎ん中で聴いたんだろうさ」

 突拍子もなく、ソイツは語ったが、静芽は逆らう事も無く、素直に受け入れた。

「そうか・・・母上の御胎の中だったか・・・」

 暫しの間、静芽は黙って、川の流れる音を楽しんでいだ。すると微風が優しく彼女の頬を撫でる様に吹いた。まるで涙の痕をそっと拭ってくれているみたいだった。

 風の吹く儘に静芽は身を委ねていた。ほんの僅かな瞬刻とも云える時間だったが、彼女にとっては永劫の時にも似ていた。しかし突如として其の安息の時間は破られた。ソイツは表情を一変させて告げた。

「先程、聞くともなしに耳に入って来た、お前さんの親父さんの話だが・・・どうやら真にヤバい様だな・・・」

「何よ?藪から棒に」

 これ迄に情報収集の為、町中で散々聞き込みをして来たが、誰も真面に相手をしてくれなかった。尤も、町人達に聞き回った処で、どうにも成る筈は無いのだが、それでも何かせずにはいられなかったのだ。

 苦い記憶が蘇ると共に、見ず知らずの男とは云え、興味を持ってくれた事に嬉しさ半分、戸惑い半分な静芽だった。処が、ソイツの次の言葉は、彼女の何処か甘っちょろい気持ちに冷や水を浴びせた。

「近寄って来る奴等がいる。凄ぇ殺気だ。やべぇぜ」

「なっ?」

 ワンクゥオ族特有の鋭い感覚が、迫り来る者達の存在を察知したのだった。

「殺気を隠す気も無いらしい。じりじりと包囲の輪を狭めてやがる」

「ど、どうして?」

 答えようも無い疑問だったが、そいつは事もなげに応えた。

「もしかしてお前さん、誰かの尻尾でも踏んづけちまったのかい?それを恨みに思った野郎が仕返しに来たとかさぁ?」

「んな訳あるかぁー!戯けた事を申すで無いわぁ!」

「だってんなら、矢っ張り何かと嗅ぎ回ってるお前さんを邪魔に思ってる奴が居るって事だろうさ」

 顎に自分の指を当てたソイツは、瞬間的に思案を巡らせた様だった。

「どうやらお前さんの親父さんは何かとんでもねぇヤマに首を突っ込んじまったじゃねーか?」

「そ・・・そんな?」

 余りにも手掛かりが掴めないので、父の急死に不審の念を抱いているのは自分だけでは無かろうか、と静芽は徐々に思い始めていた。そして父の死は単なる事故だったのでは無かろうか、と半ば諦め掛けていた、その矢先の出来事である。

 謎の襲撃者の存在を知らされた彼女は、疑惑を確信へと推移させていた。クワッと目を見開いた静芽は、勢い良く顔を上げた。

「そっか!矢っ張り何か裏が有ったんだな!」

 ふと静芽は何気なく、ソイツの尻尾に視線を送った。

「フッ、尻尾か。尻尾ってのは踏んだりするもんじゃ無い。掴むもんだよ。掴んでやる、奴等の尻尾を!」

「何だよ、お前さん、何、笑ってんだ?」

 指摘される迄、気付かなかったが、どうやら静芽の口辺は歪んでいた様だ。余り良い笑顔じゃ無いんだろうな、と彼女は自嘲した。それでも嬉しそうに告げた。

「フフッ、だってさ、漸く来てくれたんだよ。手掛かりってヤツがさァ。しかも向こうからね!」

「ほぉ、そんな貌するんだな」

「まあね」

「でも、どーすんだ?かなりの数に囲まれてんだぜ?」

 素早く着物の乱れを整えた静芽は帯を締め直した。身繕いした彼女は挑戦的に、ソイツを見た。

「てかさぁ、何だい?その腰にぶら下げてんのは竹光かい?」

「無論、伝家の宝刀さ」

 チョコンと、そいつは刀の束を指で弾いた。

「なら、見せてよ。自慢の一振りってのをさぁ」

「ほぉ、ってこたぁ、俺っちに護れってのかい?お前さんを。然れど偶然居合わせただけの俺っちに、其処迄する義理は流石に無ぇわなぁ」

 周囲の気配を窺うと、まだ包囲網は完成している訳では無かった。ソイツのスピードなら、包囲の一角を突き崩して逃げ果せられる可能性は高い。だが女連れとなると話は別だ。

「俺っちは一足先にドロンさせて貰うよ。悪く思うなよ。世の中にゃあ義理人情だけじゃあ、どうしようも成らねぇ事だって有るのさ」

「義理とかじゃ無くてさ、ちゃんと取引しようよ?欲しい物、上げるからさぁ、力を貸してよ」

 不敵な視線を彼女は送って来た。

「取引だと?没落したお前さんの家に何か代価が払えるのか?家宝の掛け軸とか茶器でも有るってんのかい?」

「無いよ。大体、そんなの欲しくも無いでしょ?貴様が欲しいのはぁ・・・」

 ファサッと静芽は裾を捲り上げた。其の侭、草履を脱ぐと足袋も脱いだ。乱れを整えた直後だったが、再びスラリと伸びた脚が太腿まで剥き出しに成った。

「これでしょ?」

「脚なら先刻も見せて貰ったぜ」

 冷たく突き放す様に、ソイツは告げた。

「見ただけでしょ?それに見せるだけじゃ取引に成んない・・・でしょ?」

「そんで?俺っちは別にヒューヌ族と馴れ合う気は無いぜ」

「解ってるよ。でもさ、当家にもワンクゥオ族がいたからさ。少しは知ってんだよね。ワンクゥオの好物ってのをさ」

 懐に忍ばせておいた巾着袋を取り出した静芽は、手を挿し込んでゴソゴソと袋の中を探った。すると手の平サイズの薩摩芋が出現した。

「焼き芋屋の親父が小さいのをさ、売り物に成んないからって、オマケに呉れたんだよ。弁当代わりに持ってたんだけどさ・・・」

「オイ、そんな物で俺っちを意の儘に動かせると思ってんのか?」

「でも好きなんでしょ?」

 悪戯っぽく静芽は微笑んだ。

「以前に当家に中間として仕えていたワンクゥオ共も此れに目がなくってさぁ。連中が言うには、ワンクゥオに言う事を聞かせる秘術なんだってさ」

「うぐっ」

「まあ、試した事は無かったんだけどね。そんなの使わなくても主君の娘だからってんでアイツら命令に従ったしさ」

 語り乍ら、静芽は薩摩芋を握り締めた。

「今にして思うと、御褒美も無しに扱き使ってたのが不満だったんだろうね・・・」

 パキッと静芽は薩摩芋を二つに割った。断面から黄色い実の部分が覗いた。焼いた芋は、とっくに冷めていたが、それでも辺りにはファア~と薩摩芋特有の甘い匂いが漂ってきた。

「小振りだけど、とっても甘そうね」

「むぐっ・・・」

「ワンクゥオ共の好物を使った秘術が、我が石動家には伝わっているんだよ」

 割った断面を静芽は右の爪先に擦り付けた。其処から足の甲や脹脛、更には膝から太腿に至る迄、満遍なく芋を塗り付けた。粘土状に成った芋は薄くではあったが、彼女の肌を覆った。

「さあ、ペロペロして良いよ?」

 芋を塗り込めた右足を静芽は彼の目前に差し出した。するとソイツは狼狽えつつも、彼女の脚に釘付けに成った。

「ぬぅっ」

「ほら、本能には逆らえないんでしょ?」

 犬は肉食が多いと思われがちだが、野菜や果物も能く食べる。特に甘い匂いに引き付けられる習性を持っており、薩摩芋や林檎は大好物である。その点は獣人であっても変わらないのだ。ソイツもワンクゥオ族であるからには例外では無かった。

 勝ち誇った様に、静芽は唱えた。

「穢れ無き乙女にのみ許されし秘伝!ワンチャンマッシグラの術!」

 薩摩芋を媒介として肌に込めた魔力を相手に送り込む秘術である。術者が晒す肌面積が広ければ広い程に、より多くの魔力が込められる。また相手との密着度の深さも大きく作用するのだ。

 魔力を注ぎ込まれた相手は、時間限定だが術者の指示には逆らえない。そして効力が保持されている間、身体能力がアップする。パワーもスピードも跳ね上がるのだ。

 誰にでも詠唱可能な術では無い。石動家は武家とは云え、神官の一族の血を引いていた。その直系たる石動静芽にして、初めて成し得る秘術である。

「オイっ!これは対等の取引なんかじゃねぇ!命令して従わせてんじゃん!ワンクゥオの本能を利用してなぁ!」

「何よっ!さっきだってアタシのオッパイよりも脚の方をガン見してたでしょ?寧ろ本望でしょ?」

 本能に従う事が本望だとしたら、其処には抗い切れぬ悲哀が垣間見えているとも云えた。遂に、ソイツは彼女の軍門に降り、その瑞々しい脚に舌を這わせるに至った。

「あんっ」

 爪先に触れた途端、思わず声が出た。

「何だよ、お前さんから誘っといて、そんな声を上げるのかよ?」

「だって、しょうがないじゃない。アタシだって初めてなんだし」

「そっか、穢れ無き乙女だもんな?」

「そゆ事・・・うぅんっ」

 芋を舐め取り乍ら、ソイツの目的地は足の甲から脹脛へと移って往った。

「勘違いするなよな。俺っちは芋が好きなだけだかんな」

「重々承知してる・・・んあっ」

「それに術の効果も一時的だ。永遠に従属する訳じゃ無い」

「解ってるってば・・・あぁんっ」

 やがて脹脛を攻略したソイツは、膝をなぞった舌先を膝裏へと向かわせた。予想外のポイントを攻められて、静芽は気が動転した。

「ちょっ、膝の裏には塗って無い筈でしょ?」

「少し零れた分が引っ付いてたんだよ」

「そっか、なら、しょうがないね・・・ぬぇんっ」

「そうだよ、しょうがないんだ・・・ったく妙な術、使いやがって」

 不貞腐れ乍らも、ソイツは膝裏から太腿方面の攻略に取り掛かった。

「んあぁんっ」

「だからよォ、俺っちのお目当ては芋なんだからよォ、くれぐれも異なった解釈は御無用に願いたい」

「解ってる、解ってるてばさぁ・・・ああぁんっ」

 一頻り薩摩芋を味わったソイツは奇妙な充実感を得ていた。抗えないのなら、いっそ味わい尽くせば良いのだ。

 己から仕掛けた事乍ら、頬を火照らせて、妙に満ち足りた想いに耽っていたのは、静芽も同様であった。

 暫し、まったりとした時間が流れた。この侭、時が止まってしまっても文句の一つとて出そうに無かったが、突然、ソイツは起き上がった。

 もう少し、のんびりしたかった静芽は面倒臭そうに尋ねた。

「どしたん?」

「やべぇ!」

 血相変えたソイツは、鼻をピクピクさせた。

「なぁに、鼻の先っちょ、ひくつかせてんの?」

「匂って来た。凄ぇ匂いが漂って来たぜ」

 何気なく静芽は、ソイツの鼻の動きを見ていた。ひくついた鼻を愉快だ、と思っていたのだが、不意にガバッと身を起こして、ソイツに詰め寄った。

「ちょっと貴様!匂いって何よ?まさか、アタシの足が臭かったとか言う気じゃないでしょうね?」

「ちげーよ。奴等の匂いだ!」

 否定された事で、多少は安心感を覚えた静芽だったが、とてもじゃないが安心出来る状況ではなかった。

「ったく、それ処じゃねぇ!囲まれちまった。芋食ってる間に、すっかり包囲された!」

「ぬぁ?マジか?」

 首を絞めんばかりの勢いで、静芽はソイツに顔を近付けた。

「ちょっ、貴様がトロトロと、いつ迄もアタシの足を舐め回してるからぁ!」

「美味かったんだから、しょーがねぇだろ!ってか芋な!」

「言ってる場合か!ちゃんと周りに探り入れときなさいよ!アタシよりも滅法、鼻が利くんだからさ!何か気配を感じたら直ぐ止めなさいよね!」

「無茶言うなよ!大体、お前さんだって、あんな可愛い声上げてよぉ・・・」

 瞬間的に静芽は鼓動が速まった気がした。

「うっ・・・可愛い・・・とか?」

「止められる訳、無いだろ・・・」

「・・・むぅ、盛りの附いた犬めっ?」

 顔を見合わせていた二人は殆ど同時に俯いた。短い沈黙の後、ソイツの耳がピクリと動いた。謎の一団が更に接近して来たのだ。

「・・・って、んな事してる場合じゃねぇよな」

 我に返ったソイツは彼女が脱ぎ捨てた草履と足袋を拾って、手渡した。まだ足はネトついていたが、我慢して静芽は足袋を履いた。

「もう、何かネバネバしてるよ」

「っせーな」

「まあ良いわ。少し前向きに考えてみるわ」

「ほぉ?」

「武家娘の滲み付き足袋とか売れそうね?」

 げんなりして、ソイツは肩を落とした。

「誰が買うんだよ?嗅覚の鋭い獣人には、直ぐに別物だってバレちまうぜ」

「あちゃ~御家再興の足しに成んないかぁ」

「生憎だったな。ってか、戯けた話してる間に増々間合いが詰められちまったぜ。気配から察するに20体は居るな?」

「そうみたいだね?アタシにも段々分かって来たよ。ビンビンに匂いを感じちゃう。獣臭いニオイってのをさぁ!」

「・・・の割に焦ってもいねぇようだな」

 腕を組んで彼女は語った。

「別に全員倒す必要も無いからね。突破口を開くだけで良い」

「ったく、簡単に言ってくれちゃってさぁ。やるのは俺っちなんだぜ」

「へぇ、渋ってた割には、すっかりヤル気に成ったか。アタシの足にメロメロって事だね」

「だから芋の御蔭だっての。ってか、寧ろ芋を呉れた焼き芋屋の親父に感謝しとけや」

「そだね」

 逆らわずに静芽は胸の前で、軽く手を合わせた。それを眺め乍ら、ソイツは妙に清々しい表情を浮かべた。

「まあ良いさ。いざと成ったら、奥の手を遣うさ」

「へぇ、そんなの有んだ?」

「まあな。お前さんに秘術が有る様に、俺っちにも秘剣が有るのさ」

 自信に満ちた笑顔を、ソイツは見せた。術を掛けられたので、身体能力は向上している。しかし、それに頼らずとも、かなり剣術を究めている様だった。

 いずれにせよ、術者たる静芽の言う事を聞くしかないのだが、まるで術の効果とは関係なさそうに、彼女を守る覚悟を固めた様だった。

 もしかしたら口では何と言おうとも、いざと云う時は術の有無に拘わらず、守ってくれていたんじゃなかろうか、と静芽は思った。確信が有る訳ではない。しかし何故だか然う思えて来た。

 小型犬タイプの種族であるソイツは、ヒューヌ族の子供位の背丈しかない。だが、にも拘わらず、今の静芽には何だか矢鱈と、ソイツが大きく見えて仕方がなかった。

「そう云えば、まだ、きちんと名乗って無かったね?アタシは石動静芽。そっちは何ての?」

「俺っちかい。俺っちは泰平之介。天下泰平之介と申す」

「何?本名なの?ちっこいナリして、随分と名前だけデッカい感じだけどさ?」

「魂の名乗り、だからな」

「何なのよ、それ?」

 呆れ半分な心地の静芽だったが、もう半分は不思議と、ソイツが其の名の通りに天下を泰平へと導くんじゃないか、と思えて成らなかった。

 心の内側でソイツ、天下泰平之介の存在が、どんどんと巨大化して来た。やがて見上げる位に大きく成った泰平之介の幻像が、今にも天へ駈けて征きそうだった。

「俺っちにしがみ付け、静芽殿」

「はい・・・」

 初めて名を呼ばれ、静芽は素直に彼の背を摑んだ。自分よりも小さい筈の泰平之介の背に、妙にホッとした。

「放すんじゃねぇぞ。しっかり掴まってな」

「はい、泰平之介殿」

 さっき迄、貴様とかそっちとか呼んでいた静芽も彼の名を口にした。

「征くぜ!」

 ギラりと泰平之介の眼が光を放った。小さな背に静芽を背負って、彼は駈け出した。その脚力は途轍もなく強靭だった。

 紛れもなく、今、天下泰平之介は天を駈ける侍犬であった。

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