私を救ってくれた憧れのヒーローが世界の敵になったため、今度は私が彼女を助けにいこうと思います。
もこもこ毛玉カーニバル!
第1話
その日は、ハルノにとって人生で一番幸福な日になるはずだった。
それは彼女の六歳の誕生日、両親がずっと前から準備してくれたその日は、彼女がずっと行きたいと騒いでいたテーマパークに朝から家族で遊びに行く日だったのだ。
テレビでテーマパークのCMが流れるたびに乗りたい! なんてはしゃいだ声をあげていたアトラクションに乗り、大好きなチュロスを食べて、おいしい! と笑うハルノに両親も笑みを浮かべる。
さあ次はなにをしようか、なんて父親がハルノに話しかけ、お土産も買わなきゃね、と母親が時計を見た。
そんな、どこにでもある普通の幸せ。
──けれども、その幸せがいとも簡単に崩れてしまうものだと気づいたのは、誰の者かも知らない悲鳴がハルノの耳に響き渡った、その瞬間からのこと。
「いやああッ! 化け物ッ!」
女性が甲高い声をあげてそう叫び、ハルノのすぐ傍を駆け出していく。
途端、ばきばきばき、と硬い何かが折れる音があたりに響き渡った。
「逃げろっ! 逃げるんだっ」
「走れーッ!」
「怪物がでた! 入口まで早く! 行け!」
その瞬間、たくさんの人々が悲鳴を上げながら一目散に一斉に駆け出していく。
ハルノはそんな声をどこかぼんやりと聞きながら、上を見上げる。
人々が逃げ出す向こう側、それは現れていた。
まるでゴミの山をかき分けるようにテーマパークの中の大きなアトラクションをへし折りながら現れた怪物は、一見するとまるで昆虫のような姿をしていた。
外側はカナブンのような硬い殻に覆われ、それでいてカタツムリのようにぬるぬるとした身体を引きずる怪物は、その身体から飛び出た無数の長い触手でアトラクションの窓を、天井を、壁を、街灯を、まるで飴細工を折るかのように軽々と砕いていく。
ガシャンッ、観覧車の窓が落ちて、地面に叩きつけられる。
細かいガラスの破片が飛び散って辺りにばらまかれるけれど、逃げ惑う人々はそれを気にする暇もない。
自身の安全を確保することの方が重要だからだ。
「春乃ッ! 逃げてッ! やだ、まってっ! 春乃ッ!」
まるで牧羊犬に追い立てられた羊のように、我先にと走っていく群衆に飲み込まれて、ハルノの両親たちは瞬く間に向こうへと強引に連れ攫われる。
娘と強引に引き離された母親の絶叫を、ハルノ自身にはどこか遠くに聞いていた。
それよりも、幼い少女の目には、どこか興味深そうに一歩、また一歩と彼女に近づく未知なる生物の方が興味深く映ったのだ。
呆然と、そしてぼんやりとしながら、母親に買ってもらったテーマパーク限定の絵本をぎゅっと抱きしめながら佇むことしかできない小さな少女。
その頭の十数メートル上に、ジェットコースターを一振りで粉々にした太い触手が振り上げられたその時のことだった。
「──ああもう! やめなさいよ!」
苛立ったような、それでいて呆れたような声。
声と同時に振り下ろされた化け物の触手は、少女の身体をミンチにすることなく、ただ地面に大きな穴を空けただけであった。
それよりも一瞬だけ早く、幼い少女を抱きしめて救出したその腕の主は舌打ちをする。
そして、まるでそれが日常茶飯事であるかのように、腕の中の小さな命を大切に抱きかかえながら、化け物を見下ろす高さにある時計塔の屋上に大きく跳躍しながら乗り移ると、もう片方の手を腰に当てて群衆を、そして怪物を見下ろす。
「レディだ! レディが来てくれた! もう大丈夫だ!」
「ああ、やっと来てくれたのね!」
「助けてくれ! レディ・エリュテイア! あの怪物をなんとかしてくれえ!」
彼女の姿を見つけた群衆たちが期待と安堵を目に浮かべ、熱狂的な様子で口々に叫ぶ。
その群衆の言葉を耳にして、女は長いマントを風に翻しながら、口角を釣り上げた。
「もう大丈夫よ! アタシが全部やっつけちゃうからね!」
抱きかかえられた少女の真横で、豊かな金髪を風に遊ばせた英雄は獰猛に、そして強気に言ってみせる。
──顔の上半分を隠す分厚いゴーグルの下からでも、まるで青空みたいに蒼く澄んだ瞳がきらきらと水面に光る水面のように輝いていたのを、間近で見ていた幼き少女は今でもよく覚えている。
「ここで待ってて。動いちゃだめよ」
レディと呼ばれた女は抱き抱えていた少女を時計塔の屋上に優しく降ろす。
「う、うん」
ハルノがこくこくと何度も頷き、ぎゅっと絵本を抱きしめているのを見て、レディはにっこりと微笑みながら彼女の焦茶色の髪を優しく撫でた。
「いい子ね、それはママに買ってもらったの?」
動揺している少女の緊張をほぐすため、レディはハルノと視線を合わせるようにしゃがみ込む。
ハルノは恐る恐る赤い髪の少女が表紙に描かれた絵本をレディに見せた。
「うん、ずっとほしかったの……ファニーのおはなし、だいすきだから……でも、でも……」
幼い少女の声が少しずつ沈んでいく。
ガシャンッと再びどこかの窓ガラスが落ちる音、そして地鳴りが聞こえて、ハルノは俯く。
「ハルノのたんじょうび、なくなっちゃうのかな」
突然のことに驚いて、今までは感じていなかった恐怖と悲しみが一気に自身に襲いかかって、ハルノは涙ぐむ。
幼い彼女には何が起きているのかまだよくわかっていなかったけれど、自分の誕生日がめちゃくちゃになってしまった、というのだけは理解していた。
「……大丈夫、大丈夫」
そんな少女の姿をじっと見て、レディは少女をぎゅっと抱きしめた。そしてその耳元で、優しい声で囁く。
「あんなやつ、アタシがすぐにやっつけちゃうんだから」
「おねえさんが……?」
ハルノは目を丸くした。
目の前の金髪の女性があまりにも自信たっぷりにそんなことを言うものだから、その言葉が信じられなかったのだ。
「そうよ、お姉さんはすっごく強いの」
「ファニーよりも?」
「うん?」
首を傾げるレディに、ハルノは絵本をバッとレディの方に差し出して、早口で捲し立てる。
「ファニーはね、すごいんだよ。ぜんぶやっつけて、まけないの! きらきらしてて、かっこよくて、あきらめないの!」
目に涙を溜めながらも、興奮気味に話す少女の姿に、レディは驚いた顔をして絵本の表紙をじっと見る。
そこには幼い少女が憧れるヒーローの姿が描かれていた。
きっと何よりも輝いて、全てをなんとかしてくれる、彼女にとって救いともいえるそんな存在が。
「……うーん、正直、ファニーよりは下かもしれない」
期待と不安が入り混じった顔をする少女に向けて、少し迷ってから、レディは静かな声でそう言った。
「でも、アタシもそうなりたいなって思ってるの。本当に、もちろん! これからね!」
レディは立ち上がった。
砂埃が大きく舞う。
人々の悲鳴と、地鳴りと、日常が壊れる音を聞きながらレディは拳を握りしめる。
「だからね、大丈夫。心配しないで。あなたの誕生日はなくなったりなんてしない」
強く風が吹いて、少女はぎゅっと目を瞑った。
飛ばされてしまいそうなほどのそれに、少女はその場に座り込んでしまいそうになったのだ。
けれども、唐突にその風が止む。
「──アタシを、信じて」
ハルノは再び目を開くと、その風を遮るようにレディは少女に背を向けて、立っていた。
暖かな陽の光を浴びて悠然と立つ彼女の姿は、まるでハルノが夢見た絵本のヒーローのよう。
レディ・エリュテイアは振り返り、少女に向かってゴーグルの下から大きくウインクを一つすると、地面に手をついて勢いよく跳躍する。
彼女のトレードマークであるマントが一瞬で風の中に舞っていくのを少女が瞬きもせずに目を丸くして見つめている最中、ぐるんと一度宙返りして、そのまま勢いよく下降していく。
「ハアァァァッ!」
レディの攻撃に気づいた怪物はそれを受け止めようと無数の触手を伸ばす。
けれども、伸ばされた触手をまるで紙切れのように引き裂きながらレディは怪物の頭へと一直線に落ちていく。
さながらそれは金色の流星のよう。
それでもとびかかってくる数多の触手をレディは掴み取って、引きちぎる。
肌を裂いた一本がレディの頬を薄く裂くけれど、レディはそんなこと気にもしない。
むしろ、向かってきたその中の一本を強く引くと、怪物の大きな胴体が傾く。
怪物のうめき声のような鳴き声が周囲に響き渡る中、レディは息を大きく吸うと、動きが鈍くなった触手を足場に、再び跳躍し、勢いを殺さずに落ちていく。
「くたばりなさいッ!」
レディの鋭い蹴りが怪物の身体を引き裂いた。
飛び散った肉塊の合間を突き進むようにして、レディは怪物に向けて不敵な笑みを浮かべると、きらりと光が輝いて、怪物の身体が爆発するかのように真っ白な光線に包み込まれる。
一瞬の後、大きな轟とともにぼろぼろと黒い消し炭だけを残して消えた怪物を背に、レディはコツコツとヒールの音を響かせて髪の毛を整えた。
そして大きく息を吐いて、ビルの上をちらりと見る。
そこには、先ほどレディが助けた小さな女の子が目を見開いて、彼女を食い入るようにじっと見ているのがわかる。
それに気づいたレディはマントを翻し、ビルの屋上にいる少女に向かって右手を伸ばして、ぐっと親指を上げて見せた。
口角を上げ、無邪気な笑みを浮かべて、空の色の瞳がきらきらと光っている。
周りの人々が彼女をほめたたえる歓声の中、その姿だけが色鮮やかに光り輝いていた。
その日から、ハルノ・アヤムラの世界は、スーパーヒーローである彼女、レディ・エリュテイアのものになったのだ。
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