躁躁行進曲
小狸
短編
時々、執筆においてハイになることがある。
人は時にそれを「ゾーンに入る」などと格好良い表現をするけれど、そういう類のものとは違うように思う。
集中力の偏向。
過集中。
もっと単純に言うのなら、小説を書きたいという欲が溢れて、抑えきれなくなるのである。
これが困ったことなのだ。
何が困るのかというと、別段「書きたい欲」がいくらあるからといって、書きたい物語が――書いた原稿の送り先がないのである。
書いて誰かがそれを受け入れてくれる場所などないのである。
それは、「書きたい欲」が先行し過ぎて、書く物に対する責任感や読者が読むという想定が欠落しているということに等しい。
そんな小説、誰も読まない。
それに、小説家として生計を立てている訳でもない、新人賞にも微塵も引っ掛からないような私の小説なんて、どこにも需要がないのかもしれない。
誰も、読まない。
いや、「小説は小説としてそこに存在することが重要で、作者が生み出すという行為そのものに意味があり、読者など二の次なのだ」とする見識はあり、そういう意見を持った人を、主にネット上で見たことはある。
しかしどうだろう。
小説を小説たらしめているものは、物語を物語たらしめているものは、読者なのではないだろうか。
無論、読者が読み、何か感想を抱けば、それは作品がもたらしたものではなく、読者の中から湧き上がったものである。それはとても貴重で大切な原石であり、各々が大切にしてほしい。
ただ、何もない状態から、感想が湧き上がって来ることは無い。
その何かを、世の中にぽんと置くこと。
それこそが、我々創作者の使命なのではないかと思う。
いずれにせよ、読み物として、読まれるために作られた――創られたものであることに違いはない。
そうであるのなら、読者がいない小説など、小説とは呼ぶことはできないのではないか――と思うのである。
ネットで短編作品を公開して、もう百作品を超え、二百に届こうとしているけれど、閲覧数は一向に伸びない。
そんな現実を目の当たりにする度、躁ではなく鬱の時、私はこう思ってしまう。
私の作品を、果たして小説と呼ぶことができるだろうか。
誰にも読まれなければ、傑作とは呼ばれない。
誰にも読まれなければ、凡作にもなれない。
誰にも読まれなければ、駄作とも誹りを受けない。
文字通り、虚無なのである。
書くことを辞めてしまおうか、と時折考えることがある。
それは自由で、とても簡単である。
辞めますと言えば良い。言わなくとも、所詮小説家志望の、ネットでちびちびと作品を投稿する一登録者に過ぎない。その更新を止めるだけで良いのだ。
今の私に価値なんてないことは、私が一番分かっている。
しかし――時折来るハイになった時に、私はどうしても、小説を書きたくなってしまうのだ。筆が進んでしまうのだ。書こうと思ってしまうのだ。気付けばMicrosoft Wordの新規文書を作成し、つらつらと手癖で文章を連ねているのだ。何をしているのだろうと、自分でも思う。応募した新人賞にも何も返ってこないのに、私の文章に、意味なんてないのに。
それでも、書いてしまうのだ。
書いてしまえば、発表するしかない。
書いて、書いて、溜めていた時期もあったけれど、やはり誰かの眼に見せたいという欲求が、私にはあるらしい。
ハイな状態の時に、その辺りは一気にやってしまう。
こうして文章を
打鍵する手は留まる所を知らず、ただ良く分からない文章を脳髄から生成している。
誰か止めて欲しいが、動き出した軍隊の行進曲が如く、歩みを止める者はいない。
そんなこんなで。
そんな風に。
死にたいという気持ちを、執筆で塗りつぶしながら。
私は、小説を書く。
(「躁躁行進曲」――了)
躁躁行進曲 小狸 @segen_gen
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます