開陽丸・無念の航路
寺 円周
第1話
黒い渦が身にまとわりついて、深みへ、深みへと誘い込まれていく。あんなにも普段は愛おしい海が、今はかなり機嫌を損ねているようだ。そんな心変わりの激しい海が少々機嫌を損ねたところで、揺りかごの揺れほどにしか堪えない大きな艦体が、この時ばかりは違っていた。北の海は、竜神の怒りと化したのであろうか。荒々しい北西の風が強く艦を煽り、海岸へと押しやる。激しいローリングとピッチング。碇はもぎ取られ、枯葉のように、大波にもてあそばれてしまった。そして、抵抗むなしく岩礁へと乗り上げたかと思えば、すかさずそこから海水が艦体を侵し始めた。乗組員たちも必至に何とかしようと頑張ってはくれたものの、浸水を止めることはできない。指揮官の榎本武揚も悩みに悩んだ末、本艦をあきらめ、全員に上陸を命じた。ここに、開陽は彼らの行く末を護持するためにも見捨てられることに甘んじることとなった。一方、彼らも嵐の中を上陸するのも容易ではないようだったが、それでも何とか全員無事に陸に上がることができたようだ。そしてそれを見計らって、本艦は気力を徐々に抜いていった。それと同時に、体は大きく傾いていく。東経140度7分、北緯41度52分、ここは北海道江差の湾内。時は、1868年、明治元年11月15日。幕府自慢の最新艦が沈んでいく。ゆっくりとゆっくりと。ここまで逃亡してきた幕府の残党どもが最後の望みも遂げられず、無念のままに終焉を迎えるこの地で。その儚い夢を引き込んでいくかのように。彼らの希望であり、象徴であり、自慢であった最前衛艦はもう過去のものとなってしまったのだ。
その後、軍艦開陽は、波風の影響を受けない穏やかな深海で悔しさと寂しさをかみしめて横たわることとなった。
「時が過ぎるとは、なんら変化のない海の底にあって、どんな意味があるのでしょう。このように朽ちた姿で、わが身の来し方を静かに見つめなおすしかすべは残っていないようでした。その体は、銅板の皮膚が捲れあがって、覆われていた木の梁や肋骨がむき出しになって痛々しく見えるのです。三本のマストは根元から折れてどこかに行ってしまいました。自慢の18門のクルップ砲は、艦体から引き千切られて、あちこちの砂地の中に安住の地を確保してしまったようです。廃船と化した身にとって、与えられたものは、短い生涯の思い出と、生き残った人たちを遠くから唯々見ているだけなのでしょうか」
オランダ生まれの最新鋭艦。それは、進水からわずか3年と2か月の命だった。その最後は、実に日本到着後、1年と8か月ほどのことだった。
幕府の命で、内田恒次郎を団長とし、以下、榎本武揚たち15名がヨーロッパに向け日本を発ったのが文久2年(1862年)。インド洋、アフリカの南喜望峰を経由して、およそ10か月を要して翌年の4月にオランダに到着した。そしてそこで前代未聞の大型造船契約を結んだ。
注文した艦が出来上がるのを待つ間、15名の日本のつわものたちは留学生となって、それぞれが西欧の船舶技術や軍艦の運用技術の習得に励むことになる。特に最新の大砲の砲撃技術や火薬の製造方法には熱心だったようだ。そして新造艦は、2年近くの歳月を経て、当時のオランダにおいても注目を浴びるほどの全長72.8メートル、最大幅13.04メートル、排水トン2,590トンという最大級の軍艦として誕生した。それは「開陽」と名付けられ、その後、350馬力、最大では1200馬力まで上がるという蒸気機関を搭載し、最新鋭のクルップ砲18門に通常砲8門を装備し、徳川幕府海軍の主力戦艦として大いに活躍が期待された。
オランダ造船技術の粋を集めた開陽は、建造開始から4年目にしてようやく艤装も完成。最後に、時速12マイル、最高速度18マイルの試験航海を無事済ますと、生まれ故郷のオランダを後にした。そして、およそ5か月の航海を経て初めて日本にやってきたのは、1867年4月のことだった。
もちろん、その帰路が榎本たち留学生の初の実践航海でもあったのだ。
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