ある推理作家の遺言
ゴットー・ノベタン
『ト リ あ え ず』
閑静な住宅街を走る、一台のセダン。
黒いトヨタ・クラウンの車内には、二人の男の姿があった。
スーツの男と、コートの男。彼らはそれぞれ、刑事と探偵である。
「被害者は
クラウンのハンドルを握りつつ、スーツの刑事が説明を続ける。
「昨日の昼頃、自宅の2階で階段の上から何者かに押され、うつ伏せに転落。その際に頭を強く打った事が原因で、間もなく死亡したと見られる。16時ごろにやって来たハウスキーパーが事件に気付き、110番通報。犯人は既に逃げた後で、被害者の家からは現金ほか、金目の物が何点か消えていた。だが……」
刑事はポケットから鍵を取り出すと、助手席に座るコートの探偵へと渡す。
探偵がグローブボックスを開けると、中から捜査資料の束が出て来た。
「流石は淀川散歩。自身の死に際にも、ダイイングメッセージを残していた」
一番上にクリップ留めされた写真には、被害者の右手と、その傍に血で書かれた文字が写っている。
『ト リ あ え ず』
探偵はその写真をしげしげと眺めてから、
「これが示す相手は、淀川先生にとってごく身近な人間だ」
そう断言した。
「……何故そう言い切れる?」
疑問を投げる刑事に、探偵はスラスラと推理を語り出す。
「ダイイングメッセージというのは死に際に書く都合上、かなり直球な内容になる物だ。小説とは違ってね。それにも関わらず暗号めいた文章を残したという事は、淀川先生にとってこれは温めていたネタなんだ。『この人物を指す暗号を作るならどんな物になるか?』というのを、普段から考えてらっしゃったんだろう。2階から突き落とされたという状況を見ても、犯人は侵入したのではなく、招き入れられていると見て良い。先生にご家族はいらっしゃらなかったはずだから、洗うべきは友人や、仕事絡みの相手。暗号も簡単なもの、例えばアナグラムだとして……
ヒュウ、と刑事は口笛を吹いた。
「ご名答。今朝方、
2枚目だ、という刑事の言葉に従って探偵が資料をめくると、そこには伊瀬が逮捕されるまでの顛末が書かれていた。
「お前の言う通り、被害者の胸ポケットからネタ帳が出て来てな。そこに『
「なんだ、僕の仕事を取らないでくれよ」
「まあ聞け。逮捕に至った経緯を聞き、伊瀬本人も容疑を認めた。『白血病の治療のために金が必要だった』そうだ。金の無心を断られ、つい魔が差した、と。実際、被害者の上着からも伊瀬の体液が検出された。突き落とす際に手汗が付いたと見られている。だが……っと、ここだ」
刑事は一軒の家の前で車を停める。
2階建ての家の表札には『淀川』と書かれており、入り口には立ち入り禁止のテープが貼られていた。
「『だが』……僕を呼んだって事は、何か気になる事があるんだろう?」
助手席から降りた探偵が、そう問いかける。
「ああ。真犯人が別にいる気がしてならない」
「根拠は?」
「刑事の勘だ」
論理性を欠いた刑事の言葉。しかし探偵は笑いながら、
「君の勘なら、乗る価値があるな」
そう告げつつ、テープの内側へと踏み込んだ。
「さて、と。指紋や足跡はもう調べたんだね?」
手袋を嵌めた探偵が、そう訊ねる。
「ああ。大部分は伊瀬が拭き取っていたが、いくらかは残っていた」
「ふむ……」
玄関を上がってすぐ目の前、右の壁沿いに階段があった。
階段の下には、うつ伏せに倒れる人型の白線と、その頭部付近に乾いた血だまりが残っている。
そして人型の右手付近には、『トリあえず』の血文字がハッキリと書かれていた。
「伊瀬という人物について知りたい。淀川先生の担当になって何年目なんだ?」
「もう30年ほどになるらしい。伊瀬自身は55歳で、大学を出てすぐの新人時代から担当を任されてきたそうだ」
「随分長い付き合いだな」
「それだけに、金目の物の在り処も詳しかったんだろう」
探偵はしばらく白線と血文字を観察した後、2階へと上がってゆく。
「伊瀬は現金以外に、何を盗んだんだ?」
「古銭や記念硬貨だ。被害者がコインのコレクターだったらしい」
「古銭か……そういえば先生のデビュー作も、古銭が鍵になっていたな」
懐かしそうに言いつつ、探偵は目に付いた扉を開ける。
「おお……ここが淀川散歩の書斎か」
「やっぱり、探偵からすると憧れの場所なのか?」
「誰だってベーカー街221Bに入れる機会があったら、わくわくするだろう?」
「なるほど」
頷く刑事をよそに、探偵は目を輝かせながら本棚を物色し始める。
「凄いな、初期の作品から最新作までズラリだ。手入れも行き届いている。この部屋もハウスキーパーが入ってるのか?」
「いや、書斎は基本的に立ち入り禁止だったらしい。伊瀬は打ち合わせなんかでちょくちょく入っていた様だが」
「羨ましい……」
探偵はそう呟きつつ、机の上のパソコンや万年筆、引き出しの奥の古いノートや、ゴミ箱の中身などを調べてゆく。
そして最後にぐるりと部屋を見渡し、ドアの上のある物に目を留めた。
「ハンガー掛け……?」
それは、ドア板に上から引っ掛けて設置するタイプの、真新しいシンプルなハンガー掛けだった。
「何か気になるのか?」
「雰囲気に合わない……いやそもそも、コート掛けなら隅にもあるんだよ」
探偵が指さした先には、太い支柱から枝が伸びた様な形のコート掛けが立っており、帽子やマフラー、上着などが掛けられていた。
「そのタイプだと、ハンガーごとは掛け辛いんじゃないか?」
「そのためにハンガー掛けを新しく付けたなら、そこにハンガーが掛かってないのはおかしいだろう?」
ドアの上のハンガー掛けは空の状態で、掛けるべきハンガーは書斎のどこにも見当たらない。
探偵は顎に手を当て、考え込む。
「君の勘は恐らく正しい。僕もこの事件、伊瀬が犯人だとは思えない」
「お前の勘では?」
「事故だ」
「じゃあとりあえず、それを前提に考えてみたらどうだ。お前の直感、外れた事が無いじゃないか」
「そうしたいんだが、伊瀬が容疑を認めてしまっている以上、それを覆す証拠を見つける必要がある。どこかにヒントはある気がするんだ、が……待て、さっきなんて言った?」
「?『お前の直感、外れた事が無いじゃないか』」
「その前!」
「『じゃあとりあえず、それを前提に考えてみたらどうだ』?」
「それだ!!」
言うが早いか、探偵は書斎を飛び出し、一階へと駆け下りてゆく。
刑事が後を追って降りると、探偵は血文字の前にしゃがみこんでいた。
「やっぱりこれは事件じゃない、事故だよ」
「証拠が見つかったのか?」
「ああ、この血文字が何よりの証拠だった」
満面の笑みでそう言われ、刑事は『トリあえず』の文字を凝視する。
「……分からん、どういう事だ?」
「順を追って説明しよう。その前に、こっちも聞きたい事があるんだ」
一転、真剣な顔になった探偵はこう尋ねた。
「淀川先生の死は、まだ公表されてなかったよな?」
「伊瀬太郎、出ろ」
留置場の鉄格子が重々しく開かれ、伊瀬と呼ばれた男はのんびりと体を起こした。
「はいはい、また取り調べですか……」
「違う。釈放だ」
きょとん、とした顔の伊瀬をよそに、担当官はつかつかと歩み去ってしまう。
代わりにやって来たのは、二人の男だった。
「どうも、淀川先生の担当さん。お会いできて光栄です」
「とりあえず、ここで長話するのもなんだ。場所を変えようか」
「どういう事ですか!? 私は先生を殺したのに、釈放だなんて!?」
トヨタ・クラウンの後部座席で、伊瀬がそう叫んだ。
「あなた方も見たでしょう、先生が残されたダイイングメッセージを! 『
容疑者が容疑を外されて憤慨する、という奇妙な状況を前に、隣に座る探偵はニコニコと笑いながら告げる。
「ええ、拝見しました。でもあれ、伊瀬さんが書いたでしょう?」
その言葉に、伊瀬はピタリと動きを止めた。
「偶然先生が足を滑らせ、階段から落ちた。慌てて駆け寄り、上着の上から揺すったが反応が無く、手遅れであることを悟った貴方はこう考えた。『淀川散歩の死が、こんなつまらない事故死であっていい筈がない』、と」
「な……んの、証拠があって……?」
「まず、筆跡が違いました」
探偵はそう言うと、2枚の写真を取り出す。
「これが現場に残された血文字。そしてこれが、先生のネタ帳に書かれた『
「……私には、同じに見えますがね」
「では、こちらはどうでしょう?」
探偵はそう言うと、一冊の古いノートを取り出した。
「書斎の机にあった、3年ほど前の淀川先生の日記です」
「!!」
再び固まる伊瀬をよそに、探偵はパラパラとページをめくってゆく。
「えー、と……あったあった。『新作を出す度に、伊瀬太郎くんが初めて来た時の事を思い出す。担当が変わるとの事で挨拶に来た彼は、まだ大卒の新人だというのに、私の著作を全て読んだと言っていた。始めは社交辞令かと思ったのだが、最初に読んだ本にサインが欲しいと渡され、疑った自分を恥じた。その文庫本は手垢で黒ずみ、表紙は破れかけ、しおり紐も殆どほつれてしまっていたのだ。どれだけ読み込めばこうなるのだろうか。私は私の作品を、彼の様な読者に手に取って貰えた事を、生涯誇りに思う』」
俯き、黙り込む伊瀬。その両膝に、ぽたりと雫が落ちる。
「ここの『伊瀬太郎』と、ネタ帳及びダイイングメッセージの『伊瀬太郎』は、明らかに筆跡が違います。淀川先生はうつ伏せに倒れていたので、胸ポケットにあったネタ帳は位置的に触り辛い。後から差し込んだなら痕跡がもっと残るでしょうし、事前に用意したなら突発的な犯行と食い違う。そこで私は考えました。『もしかして先生は、日常的に代筆を頼んでいたのではないか?』と」
「ち、違う……!」
伊瀬の否定を無視して、探偵は続ける。
「そう考えれば、色々と納得がいくんです。そういえば最近、サイン本を出さなくなっていたなあ、とか。で、追加で指紋を調べて貰いました」
探偵が追加で写真を出す。そこにはネタ帳と一緒に胸ポケットにあったペンと、書斎の万年筆の指紋鑑定結果が出ていた。
「胸ポケットのペンには、アンタの指紋とホトケさんの指紋があった。その内、筆記の為に持つ位置に付いていたのは、アンタの指紋だけだ」
ハンドルを握る刑事が、鑑定結果を告げる。
「書斎の万年筆の方は、そもそも指紋が出て来ませんでした。インク瓶の中身の乾き具合からして、少なくとも数か月以上は使われていません。机の中の原稿用紙も取り出した様子が無く、パソコンのキーボードの指紋すらかなり古い物だった。
伊瀬さん。淀川先生は、指が動かなくなっていたのでは?」
「違う……!」
「もっと言えば、血文字自体も綺麗に残り過ぎでしたね」
探偵は、右手で頭を押さえる仕草をする。
「血だまりが出来るほど頭に怪我をして、すぐダイイングメッセージを書き始める人はいません。必ず頭を押さえて、怪我の程度を確かめようとする。するとどうなるか? 手の平に血が付くんです、べったりと。その状態で文字を書こうとしたら、とても綺麗になんか書けません。そこら中に擦ったような跡が付く。ところが、あの血文字はハッキリと書かれていた。人差し指だけチョンと血に付けて書いたみたいに」
「……違う……」
「まあここまで見せただけでは、即釈放とはなりません。決め手となったのはこれ」
探偵は更に、一通の封筒を取り出した。
「淀川先生の遺書です」
「い、しょ……?」
「はい、遺書。先生が亡くなられたら警察に届ける様にと、弁護士に預けてあったそうで」
「そんな……先生はそんな事、一言も……」
「貴方に見せるわけにはいかない内容だったんですよ」
探偵は深呼吸し、内容を読み上げる。
『この遺書が警察に届けられたという事は、私は既に死んでいるのだろう。
単刀直入に書こう。もし、私の死に伊瀬太郎くんの関与が疑われているのならば、私の死は自殺である。
彼は私を心酔してくれている。私がつまらない死に方をした場合、『こんなのは淀川散歩の死に方ではない』などと考えて、殺人事件に仕立て上げようとするだろう。
現場に『トリあえず』などというメッセージが残っていなかっただろうか? 私の持つネタ帳にも書いてあるのだが、それは伊瀬太郎くんを表すアナグラムで、彼は自身を疑わせるため、あえてそれを書いたのだ。
だが、この遺書を呼んだ方ならお分かりだろう。私は2年ほど前から手が震え始め、まともに文字が書けなくなった。最近では、パソコンのキーボードを打つ事すら覚束ない。
伊瀬くんはそんな私に代筆を申し出てくれ、お陰でなんとか1冊書き上げる事が出来たが、そうしている内に彼は白血病に罹ってしまった。
もうこれ以上、私のために無理はさせられない。私は、私自身を殺す事にした。
私の亡き後、作品の権利は各出版社に譲る。そして私の家と財産は、伊瀬太郎くんに譲るものとする。趣味に散在し過ぎてあまり大層な額ではないのだが、どうか治療費の足しにして欲しい。
最後に伊瀬くんへ。君は私の作家人生で最高の読者だった。
君の様な読者に愛される作品をこの世に残せた事を、私は最期まで誇りに思う』
遺書の文字は大きく震えており、日記のそれとは似ても似つかない状態だった。
「書斎のドアに、あの部屋に似つかわしくない新品のハンガー掛けがありました。恐らくあそこにマフラーか何かを引っ掛けて、首を吊るおつもりだったんでしょう。本棚に資料ではなく既刊が揃えられ、万年筆まで丁寧に拭いてあった辺り、恐らくは近い内に」
「それを私が見付けたらどうするかまで……先生は全て、お見通しだったんですね……」
そう呟く伊瀬太郎の肩もまた、涙に震えている。
「結果的に事故死だったにせよ……私の事なんか考えずに、もっと生きようとして下されば……」
「それは先生も、同じ気持ちだったんでしょう。だから貴方に遺産を遺した」
「私はこれから、どうすれば……」
「着いたぞ」
そう刑事が告げると同時。クラウンが停まったのは、伊瀬が通う大型病院だった。
「伊瀬さん、まずは治療を受けましょう」
探偵はそう言うと、遺書の封筒を伊瀬に手渡す。
「どうすれば良いのか分からないなら、とりあえず生きてみて、それから考えれば良いじゃないですか」
「とりあえず……」
封筒を受け取った伊瀬は、ゆっくりとそれを抱きしめた。
「そうですね。とりあえず、とりあえず……」
ある推理作家の遺言 ゴットー・ノベタン @Seven_square
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