余暇の青⑧
無数のクラゲは地底湖上空を中心に浮遊していた。洞窟の壁際を沿うことで、クラゲに見つかることなく容易に移動することができた。
ものの数秒で目的のポイントに辿り着いたヨシュアは、ぽんとリリエリを置き、彼女を隠すようにしてバックパックで蓋をした。そうして、アダマンチア製の剣一振りのみを手に持って、
「行ってくる」
と、極めて軽い調子で飛び出した。
浮遊するクラゲはピカピカと眩く発光し、地下空間全体を明るく照らし上げている。ある程度の広さこそあるものの、限りのある空間だ。ごろごろと岩の転がる陸地の端っこにいても、ヨシュアの様子は手に取るようにわかった。
最も近くにいた一匹の傘に向かって、ヨシュアが剣を振り下ろす。それが開戦の合図となった。水分を多く含んだ破裂音と共に、人の横幅ほどの大きさを持つクラゲが真っ二つに両断された。
ヨシュアの持つ剣には刃がない。言ってしまえば剣の形をしているだけの金属塊だ。本来ならば、物を切れるような代物ではない。それでもその切っ先が物を分かつのは、ただひとえにヨシュアの膂力によるものであった。
切るというより、潰す。
返す刀でアダマンチアを打ち付けられた二匹目のクラゲも、果実を叩きつけたような音と共に即座に絶命した。噴き出した青く光る体液が自身の顔や身体に降りかかっても、ヨシュアは気に留める素振りを一切見せなかった。あるいはそんな些事、気がついてすらいないのかもしれない。
三匹目が打ち取られたあたりで、周囲のクラゲに異常事態が伝搬したようであった。引き千切れた仲間の死体に触れたクラゲの触手が、意思を持ったように蠢きだして侵略者を捉え始める。
一本の触手がヨシュアを掠め、背後の岩を砕いた。ヨシュアは振り向きもせずに砕けた破片を手に取って、上空目掛けて浮遊しているクラゲに向けて投擲した。その間にも別の個体の触手が幾本もヨシュアに襲い来る。
一本目は避けた。二本目は切り捨てた。しかし三本目は彼の腹部を思い切り撃ち抜いた。
リリエリは咄嗟に身を乗り出して、ヨシュアの名を叫びそうになった。それをしないで済んだのは、ヨシュアがすぐに次の行動をとったためであった。
右わき腹を削り取るような勢いで突き出された触手を、ヨシュアは即座に掴み取った。少しでも自分の身体に愛着があるのなら、いくつもの棘が生えた触手を力いっぱい握ろうだなんて思いもしないだろう。哀れなクラゲは瞬きの内に地面の染みとなった。
「リリエリ」
「はい!」
急に名を呼ばれ背筋を正したリリエリの真横の壁に、べたんと何かが打ち付けられた。先ほど千切り取られたばかりの、新鮮なクラゲの触手であった。
「毒が無いか見て欲しい」
そういうのは攻撃を喰らう前に言ってほしい。が、流石に突っ込んでいる余裕はない。
リリエリはさっとクラゲの触手に目をやった。クラゲ、それも淡水に生息するような種はリリエリの知識の外である。それでもできる限りのことをする。それがリリエリの役割だからだ。
まず観察。いずれも同じ形状をした鋭い棘が規則的に並んでいる。奇妙な臭いはない。粘液に塗れているが、体表にあるものと変わらないように見える。
リリエリは手帳を取り出し、その表紙を棘の先端で傷をつけた。表紙は革で出来ている。強い毒であれば変色するなり融けるなりといった変化が見られるだろうと期待しての行動であった。幸いにして、目に見える変化が生じることはなかった。
顔を上げた先、この触手を喰らったヨシュアは現在も大立ち回りを続けている。いつの間にか空洞内は薄暗くなっていた。光源であるクラゲが数を減らしているためだ。
毒は人並みに効くと、かつてヨシュアは言っていた。彼が今も動けているのは、このクラゲに致命的な毒がない証左だ。
このクラゲは、恐らく無毒。
最終確認のため、リリエリは適当な布を使って右足首を強くしばりつけた。そして、一つ深呼吸をして、踝辺りを目掛けてクラゲの棘を突き刺した。
物理的な痛みだけだ。焼けるような痛みがあるわけでもなく、痒みや赤みも見られない。
「毒はない、はずです!」
ヨシュアからの返事はなかった。
少し目を離した隙に戦況は大きく変わっていた。先ほどまでは数えるのも億劫なほどに飛んでいたクラゲは、今や数匹を数える程度。無数の屍と引き換えたかのように、ヨシュアの身体にはいくつかの目立つ傷がついている。
まず腹部。それから右腕。頭部からも血が流れているようだが、詳細は分からない。
状況を確認するべくヨシュアを見ていたリリエリは、気がついた。彼は意図的に顔をこちらに向けないように立ち振る舞っている。
がんと硬いもの同士がぶつかり合う音がした。ヨシュアが触手の刺突を剣で受け止めた音だった。
そのまま血だらけの右腕でクラゲを引き寄せ、左手の剣で潰す。一度攻撃を受けてから反撃する手法をとっているのは、恐らくは彼が現在視力を失っているためなのだろう。
じりじりと身を削りながら戦うヨシュアに対し、リリエリが出来ることはない。
だから見ていた。目を離すことなく、彼の一挙手一投足を、けして忘れることのないように。
振り抜かれた触手がヨシュアの側頭部を打ち据えた。それが最後の一匹だ。
逃がさないとばかりに掴まれた触手のその先目掛けて、ヨシュアが剣を振り下ろす。
ぐちゃりと水の音がした。それきり、洞窟の中が暗闇に落ちた。終戦の合図であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます