余暇の青⑥
洞窟はなだらかであった。壁面はところどころ薄明るく光っており、そこには柔らかな苔が生えている。
最奥には地底湖が広がっていた。青く光り輝く植物が照らすその湖は、とても現実とは思えないほどに美しいものであった。
――以上が手記にあった洞窟に関する記述の一部である。未だ入口を少し過ぎた程度であるが、道中の様子はおおむね記載通りであった。
リリエリが杖で照らさずとも壁面はぼんやりと輝いており、そこには自ら光を放つ苔が生えている。表面はふわふわとして触り心地がよく、何かに傷つけられていることもない。リリエリの感覚では、この洞窟に脅威はないように思えた。
「魔物とかいそうですか?」
「気配は感じる。でも、希薄だ。危なくはないと思う」
二人は洞窟の奥へ奥へと向かっている。ヨシュアはリリエリを背負ったままであったが、それでも苦も無く通れる程度には広い洞窟であった。
道は少しずつ下っている。平坦とはとても言えなかったが、ヨシュアの体幹によるものか、ほとんど揺れもせず平野を歩くような調子で進んでいた。
「この光る苔は有用資源じゃないのか」
「この手の植物って、壁内ではあまり光らない傾向にあるんですよね」
そうか、とヨシュアは何気なく壁面に手を伸ばした。彼の手に触れた部分の苔の光がぱっと強さを増した。
その明かりはじわじわと波紋のように洞窟の壁を伝わっていく。つい先ほどが満月の下の夜空だとしたら、今は夜明け前の空だ。とても天然の洞窟とは思えないほどに明るい。
「いきなり明るくなったな。触れたことが原因だろうか」
「いえ、これは、……」
リリエリは答えに窮した。先ほど洞窟内を簡単に調査した際に、リリエリはこの苔に触れている。その時は光らなかった。触っただけで光るわけではないのだ、本来は。
リリエリの頭には一つの仮定があった。この苔は恐らく、周辺の魔力を吸って光へと変換する性質がある。その光の強度は周辺の魔力の増減に合わせて変化するのだろう。だとすれば今の状況は、これらの苔が極めて強い魔力を感じ取ったため一斉に輝きだした、と推測できる。
それはすなわち、膨大な魔力がこの場に――ヨシュアの内に、存在しているということだ。
「……リリエリ?」
「この苔は、魔力によって光るんです。触っただけで光るということは、ヨシュアさん自身に非常に強い魔力が流れている、のだと思います」
そうか、とだけヨシュアは応えた。先ほど苔に手を伸ばしたときと同じような、フラットな言葉であった。
人間は魔力の感知ができない。相当する感覚器を持っていないからだと言われている。
だからリリエリはわからない。しがみついているこの背に、一体どれほどの魔力があるというのだろう。
人間が溜め込める魔力には限度がある。この世界に魔法使いが少ないのは、人間と魔力の親和性が著しく悪いからだ。
だけどヨシュアは。
「……ヨシュアさんは、人間ですよ」
人に伝えるというよりは、自分に言い聞かせるための言葉に近かった。
ヨシュアは何も応えないまま、黙々と薄明りを進み続ける。下へ下へと続いている道の先を目指して。
■ □ ■
どれほど歩いただろうか。
数匹の小型の魔物に出くわした他に特筆すべき出来事はなく、いたって静かな進行であった。
なのでリリエリは驚いた。不意にヨシュアが足を止めたのだ。
周囲に奇妙な点はなく、リリエリの五感では特に不穏な気配はない。だがヨシュアは足を止めた。なんだかすごく嫌な予感がした。
「……気配が増えた」
「進行方向ですか。後ろですか」
「前方だ。さっきまではとても薄かったのに」
聴覚のみに集中するためか、ヨシュアは自分の目元を両手で覆い隠した。
「二、四、六、……増えている。少し危険かもしれない」
「そんな。もうすぐ地底湖に着くっていうのに」
いや、逆なのかもしれない。地底湖に近づいたからこそ起こった事態。
リリエリは手記の内容を頭の中で反復した。何度読み返してみても今の状況に該当する記述は見られない。むしろ比較的安全な洞窟だったという記述すらあったというのに。
何かイレギュラーが起きている?
「進むか、引き返すか。どうする?」
リリエリは決断を迫られていた。
このまま進んでいいものだろうか。広いとはいえ、洞窟は洞窟だ。逃げる場所も隠れる場所も限定的で、不測の事態にどこまで対応できるかはわからない。
ただ、目的地はもう目と鼻の先だ。せっかくのヨシュアの余暇を、彼の望みを、簡単に諦めたくはない。
「この先の状況を、分かる範囲で教えてください」
「急に魔物の気配が増えた。数がいる。水音も聞こえているから、きっと現場は地底湖だ」
「……ヨシュアさんなら、それら全てを倒せますか」
「倒せる。アンタに怪我はさせない。ただ、俺の無傷は保証できない」
そうだろうとも。リリエリは心の中で呟いた。
ヨシュアは己を顧みない。呪いによって与えられた死なない体の限界を試すかのような戦い方をする。
そういう戦い方に慣れているのだ。あまり怪我をしないでくださいなんて言葉は、その実ヨシュアにとっての枷にしかならない。
それでもリリエリはヨシュアに不要な傷を負ってほしくはなかった。だからリリエリは、折衷案を提示した。
「引き返して様子を見ましょう。もし気配が消えることがなければ、その時は――」
「リリエリ」
心中の迷いを咎めるかのような声、に聞こえた。リリエリの持つ後ろめたさがそのように受け取らせただけなのかもしれない。
「進もう。俺なら全部倒せる。目的の場所はもう、すぐそこだ」
「ヨシュアさんの力は疑っていません。それが最適解だとは、私だって。でも、」
少しだけ時間をください、とリリエリは言った。どうにか安全な方法で地底湖に辿り着く妙案はないかと、焼き切れそうなほどに頭を動かした。本当はリリエリだってわかっている。こうやって考える時間にどれほどの意味があるというのだろう。
ヨシュアは死なない。死んだって幾ばくもすれば蘇る。そんな彼の怪我を慮って引き返すのは、ここまでの苦労を全て無に帰す愚行だ。
だからといって。
死んででも自分を守れなんて、言えるわけがないのに。
きっと自分は卑怯者なのだろう、とリリエリは思った。ヨシュアの事を考えているふりをして、本当はただ自分が彼の死のトリガーになりたくないだけ。ただ足手まといに、なりたくないだけ。最低の人間だ。でも、最後の一歩がどうしたって踏み出せない。
「……アンタの考えはわかる、気がする。それは間違いだ」
「あてずっぽうを言わないでください」
「俺は自己犠牲だなんて思っちゃいない。人を守れる力があって、それが役立つ場面があるなら使いたいだけだ」
「だからといって、生き返るからいいって、死にに行くんですか!?」
「違う。死にに行くんじゃない。守るために、戦うんだ。……俺でも誰かを守れるというのは、とても嬉しい」
ヨシュアの顔は見えない。リリエリは彼に背負われているのだから、当然だ。
それでも分かった。ヨシュアの言葉が心からのものだと。
「……嬉しいって、なんですか。守られる方の気持ちも考えてください」
「それは、その、すまない」
「冗談です。それに、謝るのは私の方です。私は責任を負うことから逃げていました。でも、それももうやめます」
リリエリの表情だって、ヨシュアには見えていない。それは幸いだった。リリエリだって、自分がどんな顔をしているかわからないのだ。
守れるのが嬉しいとヨシュアは言った。それを取り上げる権利は、リリエリにはないだろう。
ヨシュアを止めない。その上で、けして忘れない。死も責任も役割も分け合う。だってあの日から、二人はパーティを組んでいるのだから。
「戦ってください、ヨシュアさん。貴方の怪我も、死も、すべて私によるものです」
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