余暇の青②

「なにかしたいことはないですか? 依頼と依頼の間にヨシュアさんがしていることを、ただ延長するだけでもいいんですよ」

「俺が、していること……」


 ヨシュアは困り切ったような声を出し、逃げるように自室の壁に視線を向けた。壁飾りもなにもない、シンプルな白い壁だ。その姿に、リリエリは先ほどの益体もない妄想を思い出した。暇なときはずっと壁を見ているとか言い出されたらどうしよう。いや、そこまで突拍子もない人間だとはリリエリも思っちゃいないが。一応。


「……なにしてます?」

「…………寝る、とか」


 リリエリはちょっと安心した。暇なときに寝るのは大変人間らしい行いである。ヨシュアに対する人間のハードルが恐ろしく下がっていることに、リリエリはまだ気がついていない。


「ちなみにアンタはなにをしているんだ」

「私ですか? 私は薬草を干したりとか、保存食を仕込んだりとか、装備を点検したりとか。色々やってますよ」


 そうか、とヨシュアは学びを得たとでも言いたげに頷いた。リリエリの過ごし方も余暇というよりは仕事の範疇であるが、それを指摘できる人間はこの場にはいなかった。


「じゃあ俺も、その、そういったことをしようと思うんだが」

「……それ、本当にやりたいことですか? もしそうなら私も全力でサポートしますが、ただ単に暇な時間を埋めたいというだけなら賛同できません」

「いや、……その、」


 ヨシュアは再び壁を見た。先ほどより若干視線が低いような気がする。リリエリは言葉を差し挟まずに、ヨシュア自身の次を待っていた。そうして、コップ一杯の水を丁寧に飲み干す程度の時間をかけてから、


「……実は、そんなに興味がない」

「ですよね」


 自分のライフワークと言ってもよい作業を否定された形になったが、リリエリの心は波立たなかった。むしろ興味のないことを正直に話してくれたことに安心感を覚えた。正直に言ってヨシュアはそんなに細かい作業を好むようには思えなかったし、暇だからと言って好まないことをやらせるのは本末転倒というものだろう。

 ヨシュアは自ら何かを決めるのが苦手だ。それをよくよく承知したうえで、リリエリは、それでもヨシュアが本当にやりたいことを聞きたいと思った。いつか終わりが来ようとも、後悔だけはしないように。


「なんでもいいんですよ。時間をかけてもかまいませんから、少し考えてみませんか。美味しいものが食べたいとか、人気の興行を見に行くとか。ああ、そういえば、今エルナトに王都から楽団が来ているそうですよ」

「うん」

「リデルさんに教わって彫刻をしてみるのも面白いかもしれないですね。それから、本を読むとか。マドは沢山本を読んでいるから、きっと彼女ならヨシュアさんが好みそうな本を見つけてくれます」

「うん」

「都市ナナイにはテレジア教の立派な協会があるんですよ。近場なので転移のお金もそんなにかからないし、気軽に観光するにはいいところかもしれません」

「うん」

「あの、……私が話し過ぎているようなら、止めていただいて」


 なんだか自分ばかりが話しているように感じられ、リリエリはちょっと恥ずかしくなった。先ほどからずっとヨシュアは淡々と相槌を打つにとどまっている。どこぞの賑やかな宮廷魔術師のお喋りが移ってしまったのかもしれない。彼のお喋りを聞き続けていたあの帰路は、未だ記憶に新しい。

 リリエリの言葉に、ヨシュアは小さく首を振った。


「気にしないでほしい。人の話を聞くのは、実は結構好きなんだ。俺が気の利いた返事をできないばかりに、気を使わせてしまってすまない」

「……そういうことなら、遠慮しないですが。ヨシュアさんも、返事とか、気を使わなくていいんですからね」


 思い返せば、レダとの帰路でもヨシュアはずっと聞く側に回っていた。この言葉は本心なのだろう。……人の話を聞くのが好きだというのは、今日この時初めて聞いたことだった。

 リリエリはヨシュアについて、ある程度は知っている仲だと自負している。けれどそれと同じくらいに、ヨシュアのことを何も知らないとも思う。

 邪龍憑きだとか呪いとか、そういう大きな問題に対してリリエリはあまりにも無力だ。どうすればいいかも知らないし、どうしたらいいかもわからない。力も魔法もない、できることだって多くない。

 ただ、このままヨシュアという人間のことを何も知らないまま終わりにしてしまうのは嫌だった。"人間"のヨシュアを覚えている人間は、なるべく多くいたほうがいいに決まっている。ついさっき見つけたヨシュアの一面を、リリエリは胸中のノートに書き留めた。これが自分にできる最良だと、リリエリはそう信じている。


「じゃあ、頭に浮かんだことを適当に話します。ヨシュアさんのやりたいことを探してもいいし、探さないでただ聞いてくれるだけでも構いません。きっと時間は、ありますから」


 新しく開発された紋章魔術のニュース、最近エルナト周辺で目撃されている見慣れない魔物に対する注意喚起、人気の飲食店の噂。

 リリエリは話した。流行に詳しいつもりはなかったが、案外引き出しには物が入っていたようだ。簡素な部屋の中を話題で埋めていくような、そんな気分であった。

 リリエリの想像していた余暇の形ではない。だがもしもヨシュアがこれを余暇と呼ぶのなら、リリエリは喜んでそれに賛同するつもりだ。


 ヨシュアの部屋を訪ねたのは太陽の南に昇る頃合いであったが、今ではもう西日特有の橙色が窓越しに壁を染めていた。ずっとずっと遠くの方では、一日の終わりに憩う人々の喧騒が小さく聞こえている。リリエリの話と話の隙間にしか聞こえないような微かな賑わいだ。

 麗らかな午後であった。こんな日が連綿と続きますようにと祈るのは、きっと無駄なことじゃない。


「リリエリ」

「はい。エルナトの大壁を這いずる巨大トカゲの都市伝説が気になりますか?」

「それではないんだが。やりたいことに、一つ思い当たった」


 一般的な余暇の過ごし方ではないかもしれないが、とヨシュアは自信なさげに付け足した。それでもかまわないとリリエリはすぐさまフォローした。やりたいことそれ自身を、ヨシュアが自ら考え出したことに大きな意味があるのだ。

 切り出し方に迷っているのか、ヨシュアは少し言い淀んで、窓の方に視線を向けた。そうして、そのままリリエリの方を見ずにポツリと言った。


「壁外に行きたい」


 ヨシュアの視線は窓の向こう、どこか遠くに向けられている。都市を囲む大壁は、この家の位置からでは見えない。それでもヨシュアはきっと壁を見ようとしているのだろうと、なんとなくリリエリは感づいた。明々と夕日に照る横顔を見ながら、リリエリは言葉の続きを静かに待っていた。


「どこでもいい。なにか、景色の良いところに行きたい。アンタが知っている中で、一番綺麗な場所に案内してくれないか。近くでも、遠くでも構わない。そこまでは俺が連れていく」

「余暇ですよ。壁外でいいんですか?」

「壁外の方が気分がいい。それに、壁の中でできることに、俺は詳しくないから。……その、連れまわされることが不服なら、場所さえ教えてくれれば俺一人で」

「いや、ヨシュアさん一人は絶対に無茶ですよ。同行させてください。喜んでお供しますとも」

 

 リリエリはエルナトを離れたことがほとんどなかった。弱い彼女にできる依頼はいつだって壁の周辺ばかりだ。一時的に他のパーティに在籍した時だってそう遠くには連れて行ってくれなかったし、少し前まで組んでいたアイザックのパーティだって西方に向かう際にはリリエリを置いていく決断をした。

 リリエリは遠く離れた世界を知らない。その代わり、だからこそ、エルナトの周辺であれば誰よりも詳しいのだ。

 きっとヨシュアの願いを叶えるためにエルナトにいたのだ、と思うほどリリエリはロマンチストではない。それでも、この輝かしくない経歴が少しでも役に立てるというのは、想像以上に良い気分であった。


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