第15話 されど祈らず
「この家、中も綺麗ですね」
「蜘蛛の巣のおかげかもな」
そろりと玄関扉を開けたリリエリを出迎えたのは、薄汚れた玄関ラグであった。もとは鮮やかな朱色だっただろうが、年月によってすっかり灰褐色に変わっている。それでも、破れたり裂けていたりといった酷い損傷はなかった。
一歩踏み出すたびに酷い軋みをあげる床を、杖を駆使して慎重に進んでいく。中は荒らされてはいない。この様子なら使える物もありそうだ。保存食の類でもあれば最高なのだが。
ほとんどないも同然の廊下の奥のドアを開ける。そこは広い部屋となっていた。さらにその奥にもドアが一つ見えている。
「ヨシュアさんはあっちの部屋を見てもらえますか。私はこの部屋を確認します」
「わかった」
ギギッと床の軋みが移動する音を聞きながら、リリエリは部屋をざっと見渡した。
狭い食卓に粗野な調理台、小さな暖炉。居室と台所を兼ねた部屋のようだ。となると、ヨシュアが向かった部屋は寝室か。
部屋の様子は想像以上に綺麗だったが、それでも年月の経過は隠せない。調理台の上には、元が何だったのかも分からない黒ずんだ塊が転がっている。
リリエリは周辺の戸棚を漁った。……食べられるものは見当たらない。
「使える調理器具……も、なさそうですね」
山賊にでもなった気分だ。少しでも快適に壁外で生きるためとはいえ、あまり楽しいものではない。
消費する物以外は使用後に元の場所に返そうと、リリエリはこっそりと心に誓った。
食卓の方にも目ぼしいものはなかったが、暖炉の横にはよく乾いた薪がいくつか積まれている。これは使えそうだ。重さがあるので、持っていくのは他の家を回ってからでもいいだろう。
結局リリエリは手ぶらでその部屋を出た。収穫が少ないのは残念だが、十年も経っているのだし、家が魔物に荒らされずに残っているだけでも御の字だろう。
「ヨシュアさん、そちらはどうですか」
ヨシュアが入っていったドアに向かって声をかけるが、返事はない。彼の聴覚であれば、聞こえなかったということはないと思うが。
多少の疑問を抱きつつもリリエリはヨシュアのいる部屋に足を向けた。歩行に合わせて木製の杖がコトコトと音を立てる。
もうじき夜がくるだろう。早いところ他の建物も確認したいところだ。
「ヨシュアさん、面白いものでも見つかりました、か」
ヨシュアは部屋の中にいた。
窓から差し込む西日が狭い部屋の中を真っ赤に染め上げている。その壁の一角を、ヨシュアはじっと眺めていた。ともすれば熱心にも見えるほどに。
「……女神テレジアの、絵画ですか」
ヨシュアの視線の先、壁の一面に大きな絵画が飾られている。祈るように手を組む小柄な女性を描いたものだ。携えた青い光と純白の衣服は、この国で最も信仰されているテレジア教の女神、テレジアを表しているものだろう。
女神テレジアはこの国の在り方の根幹を支える転移結晶を生み出した神だとされている。
転移結晶はその言葉通り、人間を転移する性質を持つ結晶である。同期した転移結晶を各都市や有用な資材の存在する場所に設置することで、危険な壁外を介することなく一瞬のうちに移動することが可能だ。
結晶の産出が極めて少ないこと、移動には多量の魔力を必要とすること、長距離の移動は不可能であることなど、発展の余地はまだまだある。しかしその上でなお、最も人類の発展を促した技術であることに疑いはなかった。
転移結晶が転移できるのは人間のみである。人間以外の如何なる動物、魔物も転移結晶を使用することはできない。だが人間であれば、外見、内面、魔力の有無に依らず誰であっても転移が可能だ。
それゆえに、人類平等の証として信仰の対象になっているのだ。
「ヨシュアさんは、女神テレジアを信仰しているんですか」
「知ってはいるが、信徒じゃない」
「私もです。……でも、立派な壁画」
テレジア教は広く人々の生活に根付いている。熱心な信徒でなくともテレジアの教えを耳に聞き、無意識のうちに行動の指針にしたり心の支えにしていることもある。
リリエリだってそうだ。毎週祈りに向かうわけではないが、年に一度の祝祭の日くらいは女神テレジアに感謝を捧げたりもする。
ふと室内が陰る。雲が太陽を遮ったようだ。リリエリは今自分たちがしていることを思い出した。暗くなる前に使える物資を持ち出さなければ。
「ヨシュアさん、そろそろ次の建物を見に行きましょう。何か良さげなものはありましたか」
「綺麗なシーツを一枚、それと厚手の服を二着」
「良いですね。お借りしましょう」
リリエリが行動を促すと、ヨシュアは何の未練もなさそうな様子で絵画から視線を外した。正直に言ってヨシュアが宗教画に興味を示すのは意外であった。
ヨシュアにも、年に一度は女神テレジアに祈りを捧げる日があるのだろうか。
エルナトに戻ったらヨシュアを誘って教会を訪ねるのも良いかも知れない。リリエリは頭の中の予定表に、新たな項目を一つ追加した。
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