トリあえず鶏の唐揚げ
円 一
トリあえず鶏の唐揚げ
「とりあえず鶏の唐揚げ、ってその人は言ったんです」
僕が突如として、そんなことを言い出したものだから、目の前の男は驚いた表情をみせた。
もしかしたら「トリあえず
それに僕が言いたいことはそんなことじゃない。
「その人ってのは、僕の仕事先の上司なんですがね。普通、ああいう店では、まずドリンクをオーダーするもんでしょう。それを席に着いて、すぐ店員にオーダーしたもんだから、僕もびっくりしましてね。なんで、いきなり唐揚げなんですかって、聞いてみたんです」
「へえ、それで、その上司はなんて答えたんだ?」
男はちょっと興味をそそられたのか、僕に話の続きを促した。僕はうなずいて、口を開く。
「唐揚げが食べたかったから。ってのが答えでした」
僕の答えに男は面白くもないとでも言いたげに肩をすくめた。
「意外にシンプルな理由なんだな」
「ええ、そうなんですよ。でもね、それはその人の人生哲学でもあるんです。人間は何時死ぬか誰にもわからない。だから次の瞬間に死んでも後悔のないように、今一番したいことを迷わずに優先するようにしているって、まあそいうことを言うわけです」
「なるほど。それで上司のことを思い出したってわけか。せめて唐揚げくらいは買って来てやろうか?」
と、男は傍らに立つのっぽの男に命令するかのように視線を走らせた。のっぽは緊張したように姿勢を正す。
「いりませんよ。僕は生粋の甘党なんです。そんなことより、その上司の言うこと、もっともな話だと思いませんか? たとえば、よく世間的には『とりあえず生』がルールみたいな風潮ありますけど、それっていわば固定観念じゃないですか。僕から言わせれば、今を本気で生きてないから、惰性に流されて平気でいられるんです。言ってしまえば、それって一種の思考停止じゃないかと思うんです」
「つまり、お前は本気で今を生きた結果がこれだって言いたいわけだな?」
と、男はドスの利いた声で言った。それは静かだが、水の底に沈殿するような怒りを湛えた声だった。まるで倉庫全体に充満するかのような男の激情に、のっぽだけでなく、その場にいた数人の男たち全員の緊張度が高まるのがわかる。
「いえ、違います。僕はあなたに助言しているんです。あなたは結局のところ、『とりあえず生』のタイプの人間じゃないですか。そうやって物事の本質を見極めようとしないから、人を外見でしか判断できない。だから、あなたたちの取引現場に居合わせた僕を、ただの運の悪い大学生としかとらえられない」
僕が最後まで言い終わるが早いか、男の膝が顔面に飛んできた。僕はそれを両手で受け止めてガードする。
男が「あん?」と、混乱した表情をみせたのは、僕が椅子に縛りつけられているものと油断していたからだろう。しかし、僕からすれば気付かれないよう関節を外して縄抜けするくらい至極当然の芸当だ。男はまだ状況が理解できないのか、間の抜けたことを言った。
「なんだぁお前はぁ……」
(あーあ、だから忠告してあげたのに――)
僕は男のために、同情した。それが男の最期の言葉になったからだ。
異変に気付いた組員たちが、スーツの懐から銃を取り出して、僕に向ける。
生と死が瞬間のうちに、めまぐるしく交差し、閑散とした倉庫が激しい銃撃の音に包まれたのは、それから刹那の後のことだった――
〇
「やあ、お帰り」
と、その人は言った。今を生きる人生哲学を、大真面目に僕に語った件の上司だ。
「――仕事は終わった?」
僕は疲れ切った身体を上司の対面の席に沈めると、もちろんです、と言った。どうにか今夜も生きて帰ることができた。今はこの倦怠感が心地良い。
テーブルには鶏の唐揚げとハイボールが並べられていて、すでに上司は先に一杯やっていたらしい。店員がやってきて、おしぼりと水を僕の前に置いた。
僕はメニューも見ずに店員に頼んだ。
「トリあえずトリプルアイスパフェください」
「あれ。今、事故ったんじゃない?」と、上司が僕をからかうように言った。
「そんなの、いちいち気にしてられませんよ」
――人間、いつ死ぬかわからないですからね。
僕がそう答えると、上司は悪戯っぽい目をして、薄く笑うのだった。
トリあえず鶏の唐揚げ 円 一 @madokaichi
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