第26話 ようこそこちらの世界へ

 カッ、と小気味良い音を立て、薪は見事に真っ二つになった。

 ずっしりとした薪割り斧を力強く振って、ミケが次々に薪を割っていく。

 私は適度な大きさになったそれを拾い集め、せっせと薪置き場に積み上げた。

 ミケは、飾り気のないズボンとブーツに足を突っ込んでいるものの、上半身は裸だ。

 私は、マキシ丈のストンとしたワンピースを身に着け、柔らかな布のミュールを履いていた。

 ミケも私も、借り物を身に着けている。

 というのも……


「私達って……結局、川に落ちたから助かったんですか?」

「正確には、着地点が川になったから助かった、だな」


 崖から落ちて絶体絶命だった私達は、ネコの摩訶不思議な力により、地面ではなく水面に落下することで難を逃れた。

 その際ずぶ濡れになった私とミケの服は日向に干しているが、そろそろ乾く頃だろうか。


「私は結局、落下の途中で気を失っちゃったみたいですけど……ミケとネコは、ずっと意識があったんですか?」

「さすがに私も、着水の直後は朦朧としたぞ。ネコは……あの時は、ピンピンしていたな」


 ミケが、薪置き場の隅にいるネコにちらりと視線をやった。

 今朝のネコは、別人……いや別ネコかと思うくらい静かな上、さっきから微動だにしない。

 崖から落ちた後、私は四時間ほど気を失っていたらしい。

 あれから一夜明け、時刻は現在午前六時を回ったあたり。

 朝日が遠い山際から今まさに飛び立たんとしていた。


「まあまあ、お二人ともご苦労様。朝早くから精が出るわねぇ」


 ふいに、おっとりとした女性の声が背後から掛かる。

 ミケが薪割りの手を止め、私は手についた木屑を払いつつ振り返った。

 声の主は、私の祖母くらいの年齢の女性だ。質素だが、清潔な身なりをしている。

 かまどで火を焚くのに薪を取りにきたらしい彼女は、薪置き場の隅でネコの背中を撫でながら言った。


「うふふ、何度見ても可愛らしい子ねぇ。お兄さんとお姉さんも、パンを焼くから食べていってちょうだいね」

「わあ、うれしい! ありがとうございます!」

「お心遣い感謝します」


 崖から落ち、川でずぶ濡れになった私達は、たまたま近くを通り掛かったこの老婦人の世話になった。

 老婦人は同い年の夫と二人暮らしをしており、私が目覚めて最初に見たのは彼らの家の天井だったのだ。

 ミケは素性を隠し、老夫婦には旅の途中でトラブルに巻き込まれたと説明したらしい。

 薪を割っているのは一宿一飯のお礼で、これが済んだら私達は早々に出立する予定である。

 なにしろここは、ミケが生まれ育ったのとは異なる世界、ではなく……


「私も主人もこのラーガストで長く生きているけれど、こんな子を見るのは初めてだわ」


 なおもネコの毛並みを撫でて老婦人が言う通り、ベルンハルト王国の隣に位置するラーガスト王国──まさに、私達が目指していた国の、のどかな農村だった。


「つまり……ネコは、違う世界には行かなかったんですね」


 私は、薪を抱えて戻っていく老婦人を見送りつつ呟く。

 それに、再び薪割り斧を振り上げたミケが否と答えた。


「行かなかったのではなく……行けなかった、みたいだな」

「えっ? 行けなかった? 行けなかったんですか!?」

「ああ。だから──あの通り、気を落としている」

「それで、あんな猫背になってるんだ……ネコだけに」


 薪置き場の隅に座り込んだネコは、見るからに悄然としていた。

 その首の後ろにできた毛玉は順調に育っているが、何やら本体の方が弱っている。

 撫でてくれた老婦人に愛嬌を振りまく気力もなかったほどだから、相当だろう。

 それにしても、異世界に行けなかったとはどういうことだろうか。

 疑問に思っていると、ネコはいまだかつてないほど弱々しい声で私を呼んだ。


『珠子や……母はもう、だめじゃ……』

「いや、何が……ちょっと大丈夫? しっぽヘニャヘニャになってるじゃない。元気出してよ」

『我はもう、世界から世界へと移る力を失ってしまった……これでは、ただのかわゆいネコちゃんではないか……』

「ただのかわゆいネコちゃんって……凹んでるのかと思ったら、普通に自己肯定感高いなぁ」


 崖から落ち、地面に激突するのを、ネコは異世界に転移することで回避しようとした。

 しかし結果的には、この世界の中でしか転移することが叶わなかったらしい。


「あなたの能力が変化した原因として考えられるのは……この世界に来る際に、私と一部が入れ替わってしまったこと?」

『……うむ、そうじゃな。それしかないじゃろうな』


 とたん、私はばつが悪い心地になった。

 私はあくまで異世界転移に巻き込まれただけだが、ネコが自分の一部を譲ったのは、そんな私を生かすためだったからだ。


「なんか……ごめんね?」


 私が猫背を撫でて謝ると、ネコはふるふると首を横に振った。


『珠子のせいではないわい。ただ、お前が元の世界に戻れる可能性は完全に無くなっ……』

「むしろ、好都合だ。そもそも、生き辛い思いをさせた世界になどタマは返さんと言っただろう。元の世界に戻れる可能性など最初から必要ない」


 食い気味にそう言って、ミケが一撃で薪を真っ二つにする。

 私は地面に転がったそれを拾いつつ、はたとあることに気づいた。


「あれ……? ミケ、今……ネコの言葉が聞こえてました、か……?」


 目を丸くして問う私に、ミケはにやりと笑って言う。

 

「聞こえていた。そいつ、実はすさまじく可愛げのない声をしていたんだな。あと、口が悪い」

「そう! そうなんです! お口の悪いネコちゃんなんです……って、えーっ? いつの間に!?」

「川から上がった時には、気を失ったタマに縋り付いて、タマコタマコと叫んでいるのが聞こえていたな。ネコが言うには、タマはきょうだい最弱らしいじゃないか?」

「うっ……それは認めたくないです……」


 今回私達の体は、異世界へ行くことこそ叶わなかったものの、この世界の中では転移を経験した。

 半年前のように細胞レベルまでバラバラになるほどではないが、私もミケも、何かしら影響を受けずにはいられなかったようだ。


(レオナルド王子が殺された時のミケの記憶が私に共有されたのも、ミケにネコの言葉が聞こえるようになったのも、きっとそのせいだ)


 ただしミケは、私みたいに負の感情を黒い綿毛にして取り除いたり、それを視認したりはできないままらしい。

 これについて、ネコは引き続き秘密にしているようだ。

 暗黙の了解で、私もそれに倣うことにした。

 ともあれ、ミケがネコの言葉を解するようになったのは大きい。

 

「わあ、わあ! ミケ、いらっしゃいませ! ようこそこちらの世界へっ!!」

「随分と歓迎されているようだな」

「だって! ネコの暴言珍言へのツッコミ仲間ができたのかと思うと、嬉しくって!」

『ぬぬぬ……珠子め。母のありがたい説法に対してなんたる言い草じゃい』


 ネコははしゃぐ私をじろりと見上げたが、言葉にはいつものようなキレがない。

 それが何だか無性に寂しく思えた私は、薪を持っていない方の手でその毛並みをわしゃわしゃと撫でながら、殊更声を明るくして言った。


「覚悟しといてくださいね、ミケ! ネコって本当に、尊大で口うるさくって可愛げがないので!」

「いや、タマの方もなかなかの暴言を吐いていると思うんだが?」


 私の言い草に、ミケが苦笑いを浮かべる。

 そんな私達を半眼で見据え、ネコがボソボソと呟いた。


『ところで……お前達。ギクシャクしとったのは、もういいのか?』

「「あ……」」


 私とミケは、思わず顔を見合わせる。

 ネコの摩訶不思議な力は、私達を一瞬でラーガスト側に移動させただけではなく──実は、ほぼ一日分、時間を飛び越えさせていた。

 つまり、トラちゃんが武官に襲われそうになり、それをミケが収めつつベルンハルト王国軍の心を一つにした出来事は、もう四日も前のことになる。

 あれが実は、言い方は悪いがやらせであり、事前に知らされていなかったことで疎外感を覚えた私は、ショックのあまり部屋に閉じこもったのだ。


「私の配慮が足りないばかりに、タマに悲しい思いをさせてしまったな……すまなかった」

「違う……違うんです! ミケが謝ることなんて、一つもないんです!」


 神妙な顔をして謝るミケに、私は慌てて首を横に振った。


「自分が仲間外れにされたわけじゃないって、少し考えればわかることなのに……私こそ、子供みたいに拗ねちゃって、ごめんなさい」

「いや、拗ねるのはかまわないが……タマの顔を見られないのは、私も辛かったな」

「本当にごめんなさい……それに、翌朝には絶対元気な顔を見せるって約束も、果たせなくて……」

「それこそ謝る必要はない。メルに攫われたのだから、不可抗力だ。とにかく、私がタマを蔑ろにすることなどありえないと……それだけは知っておいてくれ」


 ミケの言葉に、今度は私が神妙な顔をして頷く。

 メルさんに関しては、いち早くミケと情報を共有した。

 ヒバート男爵家には追って沙汰が下されるだろうが、私はメルさんの情状酌量を願い出るつもりでいる。

 彼女との短い旅も、今となっては笑い話だ。

 それに、おかげで得たものもあった。

 薪を拾って立ち上がった私は、改めてミケに向き直る。

 彼も、薪割り斧を下ろして私を見た。

 自他ともに認める筋金入りの人見知りだったのに、ミケと目を合わせるのに、私はもはや躊躇を覚えない。

 だって……


「あの崖を一緒に落ちてくれたような人が、私を蔑ろになんてするわけがないですもん」

 

 そしてこれは、ネコにも言えることだ。

 私は薪を置き場に積むと、いまだ猫背になっているネコを抱き上げ頬擦りする。

 そのフカフカの毛並みは日干ししたお布団みたいな匂いがして、やはりほっとした心地になった。


「ネコ、一緒に来てくれてありがとう。ミケと私を助けてくれて、ありがとうね」

『な、なんじゃいなんじゃい……急にしおらしくしおって……』

「ネコって、本当にお母さんみたい……」

『みたいも何も、我は珠子の母だと言うとろうが』


 当たり前のようにそう言うネコの毛並みに、顔を埋める。

 私は、自分の体中から黒い綿毛が溢れ出すように錯覚した。


「母が……あなたみたいだったら、よかったのに……」


 そう呟いた私の頭を、いつの間にか側にきていたミケがそっと撫でた。

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