第23話 窮鼠猫を噛む

『姉様……珠子姉様、起きてくださいまし』

「ふが……」


 メルさんに攫われる形でミケやネコ達と離れ離れになった日の翌朝。

 私は、何やらプニプニしたもので鼻呼吸を封じられて目を覚ました。


「はわ……ぽっぷこーんのにおい……ごほうびだ……」


 それが肉球であることはすぐにわかったが、子ネコのものにしてはいささか大きい気がする。

 はたして、この尊いプニプニはいったい誰のものなのか。

 私はおそるおそる瞼を上げた。


『やっと、起きまして? おはようございます』 

「おはよー……わあー、キレイな猫ちゃんだー……って、どなた!?」

『あら、いやだ。珠子姉様ったら、可愛い妹の顔も忘れてしまいましたの?』

「いや、初めて見る顔なんですけど……いもうとぉ!?」


 私の妹を自称するかわいこちゃんは、たっぷりとした金色の毛並みと、翠色の瞳をした猫っぽい生き物だった。

 それが、仰向けに寝転んだ私の胸の上に寝そべり、右の前足を鼻に押し付けてくる。

 その猫っぽい妹越しに、すでに身支度を整えたメルさんが顔を覗き込んできた。


「おはようございます、タマコ嬢。子ネコさんがいなくなった代わりに、こちらの綺麗な方がいらっしゃったんですが、もしかして……」

「おはようございます、メルさん。その、もしかしてだと思います。ミットー公爵閣下にお世話になっているチート同様──この子も、一晩のうちに進化したんでしょう」

『ええ、ええ。そのとおりですわ』


 金色の毛並みの子は、私とメルさんの考察に満足そうに頷いた。

 それからメルさんの肩へと飛び移り、その首筋に巻き付く。

 まるで、髪を切って無防備になった彼女の首を守る、上等の毛皮のマフラーみたいだ。


『昨日一日をかけて、この体をメルのモヤモヤでいっぱいにしたために、こうなりましたのよ』

「あー、確かに……。いっぱい食べてたもんねぇ……」


 メルさんは、不思議そうな顔をして金色の毛並みの子を見つめていたが、やがてくすりと笑って言った。 


「なんだかこの子……ロメリア様みたいですね?」

「あっ、確かに似てますね! 毛並みと瞳の色と……優雅でツンとしているところも!」

『それはそうでしょう。メルの心は、ロメリアでいっぱいですもの』


 最初に進化したチートは、ミットー公爵の中にあったレーヴェのイメージを写してあの姿になったと思っていたが……


(そもそもベースがネコだから、みんな猫っぽい姿になってるのかな……)


 そのネコのベースは、私の中にあった一般的な猫のイメージだ。

 原始の姿である真っ白い毛玉に猫のイメージが合わさって、ネコはあのブリティッシュロングヘアっぽい見た目になったのだろう。

 チートはレーヴェのイメージからベンガルっぽい姿に、そしてロメリアさんのイメージから出来上がったのが……


「丸っぽいくさび形の顔に、ふさふさのしっぽ……何だか、ソマリみたいな子だなぁ」

「ソマリ……可愛らしい名ですね」


 ソマリはアビシニアンの長毛種で、その豊かなしっぽから〝狐のような猫〟と表されることもある。

 スレンダーでシルクのような手触りの毛並みをした、実に美しい猫だ。

 メルさんは、ソマリという響きをすっかり気に入ったらしく、そのまま名前に採用してしまった。

 ソマリはメルさんに頬を擦り寄せ、にゃあ、と甘えた声で鳴く。


「ソマリ……ミットー公爵閣下のチートのように、あなたは私の側にいてくれますか?」

『よろしくってよ。わたくしが、メルの中の黒いものをみんな食べて差し上げますわ──一生』

「あ、これ……ネコが知ったらまた発狂するやつだ……」


 かくして、私とメルさんによる女二人旅は、このロメリアさんをリスペクトしまくったソマリを加えた女二人と一匹旅に変更され、ラーガスト王国との国境を目指すこととなる。

 親切な司祭に対しては心ばかりの寄付を預けるとともに、ソマリが朝食代わりにごっそり負の感情を食らった。

 馬にはまだ少しも乗り慣れなかったが、メルさんが折り畳んだ布を敷いてくれたため、お尻の痛みは幾分軽減された。

 ソマリは、メルさんの肩の上でうまい具合にバランスを取りつつ、耳をあちこちに向けて警戒している。

 それが横にピンと張ったイカ耳になったのは、国境までもう少しというところまで来た時だった。


『珠子姉様、メル──やばいですわよ』


 人気のない森の中を直走っていた私達は、突如オオカミの群れに遭遇する。

 早々に後ろ足に噛みつかれた馬は、どうにかこうにかそれを振り払ったものの、ついでに背中に乗っていた人間達も振り落としてしまった。

 パニックになった馬はその場でひと暴れした後、元来た方向に駆けていく。

 一方、置いていかれた私とメルさんとソマリはというと……


「メルさん! 私、自分が木登りできること初めて知りました!」

「ええ、ええ! とてもお上手でしたよ、タマコ嬢!」

『ちょっと、お二人とも! そんな呑気なことを言っている場合ではありませんわ!』


 暴れる馬にオオカミ達が怯んでいる隙に、近くにあった大きな樫の木に登って彼らの牙から逃れた。

 オオカミは全部で十頭。

 フンフンと鼻を鳴らしつつ、木の根元をぐるぐると回っている。


『オオカミが木登りできなくて、ようございましたわね』

「オオカミが諦めるのを待つか、他の誰かが通りかかるのを待つか、ですね。人数が多ければ、オオカミには対処できないこともありません」

「うう……誰か来てくれますかね……?」


 さてはてどうしたものか、と私達が額を寄せ合った時だった。

 ふいに、オオカミ達の視線が逸れたかと思ったら、彼らは一斉に姿勢を低くしてウーウーと唸り出したのだ。


「──何か、きます」


 メルさんが硬い声で呟く。

 ソマリは耳を平たく倒して両目をまん丸にした。


『いやですわ……やばいやつですわ』

「な、何……? 今度は、何が来るの……?」


 辺りは異様な雰囲気に包まれ、私の心臓はバクバクとうるさいほどに脈打つ。

 やがて、馬が駆けていったのとは反対の方角の茂みから、それはのっそりと現れた。


「……っ!!」


 私は、悲鳴を上げそうになった自分の口を、慌てて手で塞ぐ。

 ぶわわわっと全身の毛を膨らませたソマリが、メルさんの腕の中に逃げ込んだ。

 メルさんはそれを片腕で抱き締めつつ、ゴクリと喉を鳴らして唾を呑み込む。

 そうして、震える声で呟いた。


「──レーヴェです」

「レーヴェ? あれ、が……?」


 この世界に生息する、猫に似た大型動物レーヴェ。

 小麦色の毛並みにヒョウのような黒い斑点のあり、ベンガルを彷彿とさせる見た目をしている。

 以前、軍の会議室で話題に出た際、大きいとは聞いていたが……


「虎さんサイズだなんて、聞いてないっ……!!」


 せいぜい、サーバルキャットやカラカルくらいの大きさだと勝手に想像していた私は、度肝を抜かれた。

 あの時ミケが言った通り、私など簡単に、頭からバリバリ食われてしまうだろう。

 しかも……


「まずい、レーヴェは木に登れる……このままここにいては、逃げ場がなくなってしまいます!」

『なんですってぇええ!?』

「た、大変だっ……!」


 木の上が、安全圏ではなくなってしまった。

 そうこうしているうちに、ついにオオカミとレーヴェの戦いが始まった。

 十対一にもかかわらず、オオカミ達は劣勢を強いられている。

 キャンと鳴いて吹っ飛ばされるものから、首を一噛みされて声もなく絶命するものもまでいて、レーヴェ無双状態だ。

 か弱き人間達はその隙にこっそり木から下りると、一目散に走り出した。

 ところが……


『んまあ、大変! 追ってきますわっ!!』


 あっという間にオオカミ達を蹴散らしたレーヴェが、私達を追いかけてきたのである。

 もしかしたら最初から、レーヴェの獲物はオオカミではなく人間だったのかもしれない。

 

「タマコ嬢、振り返らずに走って──ここで、食い止めます!」

「メ、メルさん! そんな無茶なこと……」

「いいから走って! ソマリをお願いしますっ!!」

「メルさんっ……!!」


 私を突き飛ばすようにして先に逃し、メルさんが剣を抜く。

 しかし、いくら彼女が強かろうと、あの虎みたいに大きな猛獣に敵うとは思えなかった。

 案の定、飛びかかってきたレーヴェの牙はどうにか剣で防いだものの、その勢いと重みに耐えきれずに地面に押し倒されてしまう。

 悪いことというのは重なるもので、逃げようにもこの先は崖だった。

 それに……


『珠子姉様!? 何をする気ですの!? あなた、きょうだい最弱ですのにっ……!!』


 メルさんが食べられるのをただ見ているなんて、できるはずもない。


「お、お、おねーちゃんの生まれた世界にはね! 窮鼠猫を噛むって諺があるのっ! 覚えといてっ!」


 私は、近くに落ちていた太い木の枝を掴むと、レーヴェに殴り掛かった。

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