第22話 父親の呪縛

 早朝に要塞を出たこの日、私とメルさんが最後にたどり着いたのは、森に囲まれたのどかな村にある小さな聖堂だった。

 あたりはすでに真っ暗で、森の奥からはホーホーとフクロウの鳴き声が聞こえてくる。

 聖堂は老齢の女性司祭が一人で管理しているらしく、女の二人旅──片や男装、片や着の身着のままという、どう見ても訳ありの私達も快く迎え入れてくれた。


「──さて、メルさん。どうしてこんなことになったのか、話してくださいますよね?」

「はい……」


 簡素なベッドが二つ置かれただけの部屋で、私はメルさんと向かい合う。

 しょんぼりとする彼女の肩には子ネコが一匹乗っており、慰めるみたいに頬に擦り寄っていた。


「にゃう、みゅうー……」


 そのモフモフの体が朝より大きくなっているのは、ここまでの道中、メルさんの負の感情をもりもり食べていたためだろう。

 鳴き声も、少しばかり成猫のそれに近づいたようだ。


(ミットー公爵閣下にベッタリのチートもそうだけど、同一人物の負の感情を集中的に摂取すると、成長が早いみたい……)


 子ネコのおかげで、最初は頑なだったメルさんの表情もいくらか和らいでいた。

 ただし、彼女に巣食った負の感情は、子ネコ一匹の消費では追いつかないくらい、根深いもののようだ。


「私は今回、ラーガストまでの道中において、タマコ嬢を殿下のお側より排除するよう申し付けられておりました」

「えっと……排除、とは? 誰がメルさんにそう言ったんですか?」

「父……です。端的に申し上げれば──私は父から、あなたを殺すよう命ぜられたのです」

「え……」


 絶句して青褪める私に、メルさんは慌てて首を横に振った。

 その拍子に、切りっぱなしの黒髪が当たって子ネコが振り落とされる。


「もちろん、そんなことはいたしません! タマコ嬢を殺すなんて……そんなこと、できるはずがない! ロメリア様は、あなたを大切に思っていらっしゃいますし、私だって……」

「よ、よよ、よかった……私も、メルさんが大切ですよ? ロメリアさんのことも!」


 しかし、納得がいかない。

 先日、メルさんへのひどい振る舞いを目撃したため、ヒバート男爵に対する好感度はマイナスに振り切っているが……


「そもそも私は、メルさんのお父様と面識がありません。恨まれるほどの接点はないはずなんですけど」


 そう訴える私に、メルさんは静かな声で答えた。


「いつぞや、王宮の庭で会ったようなご令嬢達と同じ……殿下がタマコ嬢を大切にしていらっしゃるのが、気に入らないのでございましょう。父は昔から、ロメリア様が殿下に嫁ぐことで、ミットー家の遠縁であるヒバート家も巨利を得られると信じ切っているのです」

「ミケは、私のお兄さんだったりお父さんだったりするだけなんですけど……ミケとロメリアさんが結婚するのに、私が邪魔だと思われてるってことですか?」

「少なくとも、父はそう考えているようです」


 とはいえメルさんが言うには、ミケとロメリアさんはお互いをまったく異性として意識していないし、王家からミットー公爵家に婚約の話があったわけでもないらしい。


「私がお二人の仲を邪魔する以前の問題だと思うんですけど……」

「ええ、さようでございますね……」


 それを把握していながら、メルさんはどうして父親の命令を撥ね除けられないのか──なんて言葉は、私は到底口にできなかった。

 彼女が、苦しそうに言うからだ。


「わかっているのです……父の命令は理不尽で、無謀で、何の落ち度もないタマコ嬢を巻き込むなんて、間違っていることだと。でも、私は父に逆らえない、どうしても逆らえなかったんです……っ!」

「メルさん……」


 メルさんの母親が実家に戻った頃から、ヒバート男爵が卑屈になっていったという話は、王妃様から聞いたことがあったが……


「父と母が離婚に至ったのは、男児が生まれないことで、父方の祖母が母をひどく詰ったせいなんです」

「俗に言う、嫁姑問題ですね……」

「堪えかねた母が家を出ますと……父は、私が女に生まれたせいでこうなったのだと言って、私を責めるようになりました」

「そんな……」


 メルさんが男装をするようになったのも、そんな家庭環境が理由だった。


「男になれば……父が喜んでくれると思ったのですけれど……」


 そう言って、メルさんがまた悲しそうに笑うものだから、私は居た堪れなくなる。

 さっき振り落とされた子ネコが、再びメルさんの肩に上がって頬に擦り寄った。


「結局、父は何をしようとも私を受け入れてはくれませんでした。けれど、どん底にいた私をロメリア様が見つけてくださり、側に置いてくださいました。あの方は、父に全否定された私という存在を、肯定してくださったのです」


 ロメリアさんに取り立てられ、ミットー公爵家で寝起きをするようになったことで、メルさんは父親とはある程度距離を取れるようになっていた。

 ヒバート男爵も、娘がミットー公爵家に重用されることに満足していたらしいが……


「そんな父は今、私を良家に嫁がせようと躍起になっています。ロメリア様が王家に嫁げば、ヒバート家の価値も上がって良縁が舞い込むと信じているのです。なぜ男に生まれなかったのか、と私を詰ったくせに」


 滑稽でしょう、とメルさんが涙声で呟いた。


「みい! にゃう! にゃうう!」


 慰めようとするみたいに、子ネコがしきりにメルさんの頬を舐め始める。

 膝の上に置かれた彼女の拳が震えているのが目に入り、私はとっさに手を伸ばしてそれに触れた。

 ぱっと顔を上げたメルさんが、縋るように見つめてくる。


「タマコ嬢……申し訳ありません! 本当に、申し訳ありませんでした! 嫌われても恨まれても当然のことをしてしまったと、自覚しております!」


 そう言う彼女の両目は、涙でいっぱいになっていた。

 強引にミケから引き離されて不安だし、相変わらずお尻は痛いが……


「メルさんを嫌いになんてなりませんし、恨んでもいませんよ」


 不思議と、メルさんを責めようという気は少しも起きない。

 一方で、身勝手な父親なんて早く見限ってしまえばいいのに、と焦ったくなる。


(メルさんほど強く美しい人なら、もっと自由にのびのびと生きられるはずなのに……)


 そう思ったが──私はやはり、口に出すことができなかった。

 メルさんが、ぽつりとこう言うからだ。


「自分の存在を、父に認めてもらいたかった……この期に及んでも、父に愛されたいという思いを捨てきれなかったのです……」

「それは、何も悪いことじゃないと思います。私も……」


 その時、コンコンとノックの音がして、一瞬にして表情を引き締めたメルさんが扉に駆け寄る。

 扉を叩いたのは、司祭だった。

 食事も風呂も寝床も惜しまず提供してくれた親切な司祭は、私がこっそり頼んでいたあるものを持ってきてくれたのだ。


「にゃう、にゃーうー」

「あらあら! まあまあ! かわいこちゃんねぇ!」


 お礼と言ってはなんだが、子ネコがたっぷりと愛嬌を振りまいた。

 司祭は、まるで赤ちゃんをあやすみたいに子ネコを抱っこし、しまいには子守唄まで歌い始める。

 優しそうなおばあさんと子ネコの組み合わせは尊く、見ていると心が洗われるようだった。

 

「あの、タマコ嬢……これは?」


 やがて、子ネコを回収して扉を閉めたメルさんは、司祭から受け取ったものを眺めて首を傾げる。

 そんな彼女に向かって、私は気持ちを切り替えるみたいに声を明るくして言った。


「メルさん、髪を整えてもいいですか?」


 司祭が持ってきてくれたのは、ケープの代わりとなる古布と櫛、そして細長い刃をした鋏だった。

 というのも、ナイフでざっくりと切り落とされたメルさんの髪は、長さがまちまちになっていたのだ。

 馬で駆けている時は気にならなかったものの、こうして見るとやはり不自然である。

 

「元の世界の勤め先では、長毛種の猫のトリミング……散髪をすることもあったんです。簡単でもよろしければ、任せてもらえませんか?」

「……お願い、します」


 かくして、ベッドに座るメルさんの背後に陣取った私は、彼女の肩にケープ代わりの古布を巻き付け、右手に鋏、左手に櫛を構える。

 子ネコは最初、私の肩の上でそわそわしていたが、ほどなくして、またメルさんの方に飛び移っていった。

 髪を切るごとに、彼女の負の感情が次々に剥がれ落ち始めたからだ。


「みゃう! みゃあ、にゃああっ!」

「ふふ……元気な子ですね」


 ぴょんぴょんと自分の周りを跳ね回る子ネコを、メルさんは穏やかに見つめていたが、やがて意を決したように口を開く。


「正直に申し上げます、タマコ嬢。要塞から連れ出す時──本当は、あなたを殺すつもりでおりました」

「……っ」


 首のすぐ側で鋭利な刃物を使っている時に──簡単にメルさんの命を奪える状況でわざわざ告白したのは、私に刺される覚悟ができているという、無言の意思表示だろう。

 私は、鋏を持つ手が震えそうになるのを必死で堪えた。

 メルさんは逆に、落ち着いた声で続ける。


「でも、先ほども申し上げた通りです。あなたを殺すことなんて、できるはずがありませんでした。代わりに、私はこれまでの自分を捨てるつもりで、髪を切ったのです。髪の短い貴族の女に、縁談などこないでしょうから」


 つまり、あの時点でメルさんは父親の呪縛から解き放たれていたとも言える。

 だとしたら、ミケ達が起き出す前に、私をつれて何事もなかったように要塞に戻ればよかったのではなかろうか。

 シャキシャキと鋏を動かしつつそう口にする私に、メルさんも小さく頷く。


「私も、なぜそうしなかったのだろうと疑問に思っていたのです。でも、わかりました」


 その時だった。

 一際大きな黒い綿毛が、メルさんの胸から染み出してくる。


「みゃーおっ!」


 突然、子ネコが勇ましい鳴き声を上げた。

 後ろ足で力強く飛び上がり、メルさんから出てきた黒い綿毛に食らい付く。

 そうしてあっという間に、自分の体よりも大きいそれを丸呑みにしてしまった。

 同時に、メルさんの背筋がすっと伸びる。

 背後に陣取る私には、彼女がどんな表情をしているのかは見えない。

 だが、想像するのは難しくなかった。


「私は……愛されたいと願う一方で、憎んでおりました。父のことも、母を追い詰めた祖母のことも、ヒバートという家そのものを。だから──潰したいのです。徹底的に」


 おそらく、メルさんが抱えていた最も大きな負の感情がこれだったのだろう。

 それを吐き出した彼女は今、きっと憑き物が取れたような顔をしているに違いない。

 メルさんは、私を攫うことで自らを罪人に貶め、ヒバート家を道連れにする決意をしていた。

 

「タマコ嬢、私はこのままラーガストに入り、あなたを総督府までお連れいたします。そこで洗いざらい罪を告白し、沙汰を受ける所存にございます」

「本当に、それしか方法はありませんか? 今からでも、ミケ達と合流しましょうよ。私が、メルさんに馬に乗せてほしいとわがままを言って、そのまま逸れたことにすれば……」

「そのような言い訳は、殿下には通じませんよ。何より、私のためにあなたに嘘などつかせるわけには参りません」

「メルさん……」


 鋏の先を使って毛先の長さを整えて、散髪は終了する。

 私が切り落とした髪をこぼさないように慎重にケープを取ると、メルさんは恐る恐るといった様子で襟足に触れた。

 直毛だと思っていた彼女の髪は、短くすると少しクセが出るらしく、素人の私が切ったにもかかわらず、丸いシルエットのキュートなショートヘアに仕上がった。

 メルさんも、窓に映った自身の姿を見て満足そうに笑う。


「ふふ、頭が軽い。素敵にしてくださって、ありがとうございます、タマコ嬢。ロメリア様がご覧になったら、なんとおっしゃ……」


 言いかけて、メルさんは口を噤む。


「ロメリア様にも、ご迷惑をおかけしてしまいますね……」


 彼女は一瞬悲しそうな顔をしたが、すっと立ち上がって私に向き直った時、その表情にもう迷いはなかった。

 私がベッドの縁に腰掛けると、メルさんはその前の床に片膝を突く。


「私情に巻き込んでしまって申し訳ありません、タマコ嬢。総督府に着くまで、あなたのことはこの命に代えてもお守りします」

「でも、メルさんが本当に守りたいのは、私ではなくロメリアさんですよね?」

「……驚きました。タマコ嬢も、意地悪を言うんですね?」

「そうですよ。私は、ロメリアさんみたいに人間ができていませんので」


 とたんにメルさんが、あははっ、と声を立てて笑う。

 常に慎ましく微笑むばかりだった彼女が、初めて見せてくれた屈託のない笑みを、私はたまらなく愛おしく感じた。


「ロメリア様はご存知の通りの物言いをなさるので、誤解を受けることが多いのですが?」

「確かに、ツンツンしてて言葉はきついですけど……でも、裏表がなくて、姑息な真似は絶対なさらないし、推せます」

「そう──そうなんです! ロメリア様は本当は思慮深くて情の厚い、まっすぐな方なんです! タマコ嬢に理解していただけて、うれしい……!」

「メルさんが同担拒否じゃなくてよかった」


 ロメリアさんの話題で盛り上がる私達をよそに、子ネコが大欠伸をする。

 メルさんの負の感情をたらふく食べて、その子はさらに大きくなっていた。

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