ジーク・フロム・ヘル
藤郷
第1話 地獄の騎士と高校生 前編
その日、地獄では大事件が起きていた。
地獄のもっとも暗い奥底の監獄。その檻が開き、
向かう先は、長い螺旋階段のはるか先。頭上にわずかに光が差し込む地獄の門。
この世とあの世をつなぐ、唯一の門であった。
鉄がぶつかる音が、地獄の赤黒い岩肌にこだまする。
その岩壁に沿って、地上へと上がる階段がらせん状に続き、雄たけびをあげながら昇っていくものがひとつ、ふたつ、無数。
異常事態を告げる警鐘は休むことなく鳴りつづけ、頭の割れるような騒音をより一層大きくしていた。
「囚人を逃がすな!」
「急げ! 地獄の門を閉じよ!」
背の高い影のような姿をした地獄の番人たちが、口々に叫ぶ。
混乱に浮足立つ彼らを、押し寄せた罪人たちが襲った。日頃の恨みと言わんばかりに、倒れた番人に馬乗りになって殴りかかる。
地獄の最も深いところにいた魂たちだ。長い年月罰を受けて過ごしたとはいえ、そのくらいで改心する連中ではなかった。
頭はすでに人の形をしておらず、己の犯した罪を象徴する異形に変えた者たち。
ある者は刃物に、ある者は炎に、そしてまたある者は歪んだ金塊に。救えない彼らの暴動は、地獄の炎のように吹き荒れた。
ふだんは生者の世界へとつながる唯一の門の前で立ちふさがる
三つの頭がぬめやかに牙を光らせて、地獄から生者の世界へ逃げ出そうとする極悪人の魂を噛みちぎる。
それでも、数が多い。
『くそっ、次から次へと虫みたいに!』
『兄貴ィ、そろそろ口の中がマズくなってきたぁ』
『口をおしゃべりに使うんじゃないの!』
いくつかの魂はその牙をすり抜け、門へと殺到する。
「まずい、現世に抜けられる!」
悲鳴に近い叫びが突き抜ける。
その時だった。
一頭の黒竜が地底から舞い上がった。夜空のような翼で風を打ち、罪人たちを枯葉のように奈落の底へと払い落とした。
「ジーク殿!」
番人の呼びかけに、竜の背にまたがった騎士が頷く。
黒曜の鎧に、裾の破けた蒼の外套。兜と腰に赤い竜の鰭飾りをつけた偉丈夫。
顔の大半は黒鋼の下だが、固くひきむすんだ口元だけが見えた。
「急ぎ下へ! 今の魂たちの再収監を!」
番人たちが慌ただしく下へと駆けていく。
と、瞬間、青い炎が吹き上げジークの傍をすり抜けていった。
炎は巨大な手の形になり、今まさに門をくぐろうとしていた囚人たちを無造作に鷲掴む。
「駆けよ、駆けよ、疾く光のごとく。人生はあまりに短く、死神の鎌は諸君らのうなじをなぞる――」
金色の鎧に炎の色を反射して、もうひとりの騎士が宙を浮きながら近づいてきた。
仮面に似た兜に空く眼孔に、夕日のような瞳がのぞく。
「もっとも、君たちはとっくに首を刈られている。死神に二度手間をとらせるのはやめたまえ」
その言葉に合わせて、炎の手が魂を地の奥底へと引きずりこんだ。長い悲鳴が尾を引き、やがて消えてなくなる。
「バロン・バロック殿、助かった!」
「その言葉をもらうには早いようだよ」
喉を反らして天を仰ぐバロン・バロック。続いてジークも見上げ、思わず奥歯を嚙み締めた。
門の外の景色が、水面を乱したように揺れている。逃げおおせた罪人が、生者の世界へと渡った影響だ。
「……しまった……!」
次の瞬間、ジークは黒竜の横腹を蹴った。竜は急発進をし、門へまっすぐ飛ぶ。
「ジーク殿、待ちたまえ!」
「私は先に奴らを追う! 後から来てくれ!」
バロン・バロックは風圧に耐えながら、その背を見送ることしかできない。
やがて、門の外が大きく波打ったのを確認すると、仮面の下で盛大にため息を吐いた。
「なんの準備もなしに行ってしまった。早く引き返す羽目になるぞ、おまぬけめ……」
***
それは、授業中のことだった。
教室を練り歩く爺さん先生の言葉に合わせて、魔法をかけられたチョークがするすると黒板に文字を記していく、いつもの光景。そのチョークがとつぜん痙攣したように震え、ひとりでに地面に落ちて砕け散った。
先生の足が止まって、いぶかしげな顔をした。誰かが
ましてや、普通科の生徒じゃそうやすやすと魔法を使えるわけがない。
教室をぐるりと見渡した先生が、再び呪文を唱えようとした、その時。
街に低く耳障りな警報が鳴った。
「うおっ!? なになになに!?」
「爆発? 爆発する?」
「落ち着きなさい、騒がない! こら、元気にならない!」
しわがれた声で生徒をなだめて、爺さん先生は少しむせた。かわいそうに。
教室は少しだけ落ち着いたが、あいかわらず隣の席のヤツと盛り上がっている。
そうこうしているうちに、校内の放送がかかった。爺さん先生は「自習!」とだけ言い残して教室を出ていった。途端に教室に遠慮のない喧騒が戻る。
「オリバー!」
廊下側にいたマイルズが窓際のこの席まで駆けてくる。栗毛の下のそばかす顔が、好奇心を隠せないようすで輝いていた。
「警報とかいつ以来だろうな? なんだと思う?」
「オマエ、のんきにもほどがあんだろ。警報だぞ? 他国からの攻撃とかだったらどうすんだよ」
「なるほど、それはヤバイ」
満面の笑みで頷いているから、たぶん、ちっともヤバイとは思っていない。
すると、背後から嫌な笑い声が聞こえてきた。デカい図体をふんぞりかえらせて、スティーブンがこちらを指さしている。
「芝生頭よぉ、ビビりは相変わらずかぁ? ご自慢の足で逃げる準備しといたほうがいいんじゃないの?」
「そうだな、準備しとくよ。オマエより100メートル走2秒も早い足でな!」
安い挑発に返してやれば、顔はあっという間に真っ赤になった。
マイルズが拍手をしている。一瞬むかついた胸が、少しスカッとした。
さらに、教室のスクリーンに校長が映し出されて、急遽遠隔での全校集会が始まったときは「ほらな」と言いそうになった。
俺がビビりなんじゃない。心配性なわけでもない。別に普通なんだって。
「授業が中断されて、困惑していることでしょう」
教室が静かになった。
この校長の前では、誰でも口をつぐむ。
一見すると、バリバリ仕事ができそうなおばさん。だが現代では珍しい、生粋の魔法使いだから。
「今の警報は、空気中の魔力濃度が急激に上がったことによるものです。魔力を使うすべての技術に影響がでると思われます。そこで、公共交通機関が止まる前に、生徒の皆さんは速やかに帰宅してください。明日以降のことは追って連絡をしますので、それまでは自宅待機を」
校長はよどみなく連絡事項を告げ、最後に「教員が戻るまでに、帰宅の準備を進めてください。気を付けて」と言って全校集会を終えた。
教室は相変わらず静まり返っていた。
そのうちまばらに、帰宅準備を進めだす。
「魔力濃度上昇って、つまり?」
マイルズが言った。
よくわからないから、首をかしげることしかできなかった。
電力、水力、火力――それと並ぶ、『魔力』。
それは大昔、人が個人で駆使し、会得する力だった。
複雑な呪文を編み出し、使用する魔力を細心の注意を払って放出し、使える魔力を増やすために鍛錬をし……要するに、大変な作業だった。習得にも時間がかかる。
それが時を経て、誰でも使用できるテクノロジーに昇華された。
呪文は回路に。魔力は資源へ。
大した魔力を持たない現代人は、積極的に研究をした。
空気中に含まれる魔力を精製すれば、それはたやすく人の生活を支えだした。
『まもなく、6番ゲートが開きます。ご利用の方は、列に沿ってお待ちください』
駅にアナウンスが流れるのと同時に、ホームに並んだたくさんのドアのうちのひとつが光りだす。
駅員がそこを開けば、向こうは地元の駅へとつながっていた。
今日はいつもより人が多いみたいだ。学生も会社員も、今日の警報を聞いて早く帰るよう言われたのかもしれない。
ドアをくぐり、家路まで走る。
足の裏に、少しだけ魔力を溜めた。ボールのように丸めて、弾みをつける。
蹴りだすと同時に、体は遠くへ投げられた。風が頬をうつ。景色が流れる。心臓が熱く叫びだす。
「よしっ……!」
本格的に魔法を使う気はないが、これだけは好きだった。
家に帰ると、母さんが台所に立って唸っていた。
「どうしたの?」
「全然、お鍋が温まらない」
オリーブ色の髪をいじって、配線などをチェックしているがどこが問題かわからないらしい。
「もう魔力濃度上昇の影響?」
「かもね。はー、やだやだ」
母さんはエプロンを脱いで、椅子の上にパサリとかけた。
「今日はご飯買っちゃお。お店まで急いで行ってくるから、オリバーは一応、魔力配線みといて」
「えぇ? 詳しいことわかんねーって」
「学校で習うでしょ、思い出して」
そう言い残して、母さんは出ていった。
「……えーと、魔力供給の不良……あった、ここか」
教科書を開いて、庭の隅にある魔力供給システムに向かっていた。
週2コマの魔法の授業で習ったことなんて、テスト前でなきゃ思い出せない。
「なになに? まずチェックするのは、各家庭にある魔力供給システムの大元のスイッチが落ちていないか? 配板の右下にある、大きな――」
読みながら歩いていた時だった。
物音がした。
ちょうど、今向かっている魔力供給システムの方向から。
「――は?」
辺りは静まり返っている。
その静けさが、逆に不気味だった。
胸が冷たくなる。鳥肌が立つ。生唾が音を立てて喉を降りていった。
今はまだ昼間だ。ならば、アレではない。
そういえば、人んちから魔力を盗っていく泥棒がいると聞いた。
まさか、この混乱に乗じて……?
音を立てないよう、そっと魔力供給システムのある場所まで忍び寄る。
息を止めて、壁を伝い、そっとシステムのほうを見ると――
黒い鎧を着こんだ男がいた。
『……あっ』
黒い鎧を着こんだ男が、人の家から、魔力を盗んでいた。
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