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 文化と芸術の発展を重視する原綿市は、図書館の運営にも力を入れている。

 かつてのアパレル産業が隆盛を迎えた頃、当時の市長は、図書館、美術館、博物館を始めとした文化施設に莫大な支援を行った。

『文化無くして進化無し』

 そんな市長の言葉を題目に始まったこの施策は、原綿市の文化形成に大きな影響を与えた。各種施設の増設に始まり、文化財や資料の収集、研究、展示を推進したこの施策は、今や市内に留まらず県内全域に広がっており、本来は地方では見られないはずの展示やミュージシャンのツアーなども必ず原綿市にやってくるほどになった。

 この事業に最も熱心に取り組んだ人物の一人である当時の市長は、公金のみならず自らの私財を投じたことでも有名で、原綿市の文化発展に大きく貢献した人物であると知られている。

 そして、そんな過去の恩恵を受けた原綿小学校にも、学校の規模に似つかわしくない立派な図書室が併設されていた。

 子どもの手が届かないほどの大きさの本棚が部屋の四方を埋め尽くし、それでも足りない量の蔵書が後付けされた本棚に綺麗に整頓された状態で収められている。

 圧倒的な本の物量によって埋め尽くされた知の空間には静寂と、インクと紙の匂いの混じった香りが広がっていた。

 都はこの香りが好きだった。

 図書室に入った時に、この香りが胸いっぱいに広がる感覚が好きだった。

 本の海に浸されて、ページの波を漂う感覚が好きだった。


 ぱら、ぱら、ぱら、


 静かな図書室の中に小さな音が響く。

 それは都が、放課後の図書室で本を読む音だった。

 閲覧用の机に積まれた本の中に埋もれるように、都はいた。

 先ほどまで開いていた本を閉じると、別の本を開いて視線を滑らせる。目当ての内容ではないことを確認すると、次のページをめくる。その動きは本を読むためのものではない。必要な知識へのアクセスを目的とした作業だった。

 淡々とした作業。だがそのスピードは驚異的と言っていい。ページをめくる都の手は、およそ一秒ほどの間隔で動き続けており、これまで読書に費やした時間とそれに伴った慣熟を感じさせた。

「……………………」

 無言で本を閉じ、次の本を手に取る。

 都はこのひと月の間、ずっとわらわを疑っていた。

 表面上は笑顔で接していようとも、本心では一度たりとも気を許していなかった。

 初めに感じたのは脅威だった。得体の知れない存在に対する脅威。これはよくないものだと、都の直感が告げていた。

 直感とは、言語化できない思考の延長だ。

 人間の思考とは表面上のものだけではなく、中には言語化できない無意識の思考もある。そしてそれは時に、あらゆる過程をすっ飛ばして答えに行きつくことがある。それが直感として現れるのだ。少なくとも都はそう思っていた。


         *


 都には幼少期の記憶がない。

 都の最初の記憶は、病院で目を覚ましたところからだった。

 体や頭から延びたコードがよく分からない器械に繋がっていて、一定のリズムで電子音を鳴らしていたことを、都は今でもハッキリと覚えている。

 両親はいないと言われていた。どうして、と聞くと、交通事故に遭ってそのまま亡くなったと担当の医師に聞かされた。君も危ない状態だったんだよ、と言われたが、両親の顔も思い出せない都には、特に感傷を抱くほどのことには感じられなかった。

 その後は色々と難しい話を聞かされて、その内容の半分も理解できないまま入院をすることになった。

 毎日、何人もの大人が来て都には分からない話や、知らない話をして帰っていく。難しい顔をしたスーツのおじさん、写真を撮っていくお姉さん、目に涙を浮かべたおじいさん。みんな知らない人だ。

 ある日、両親のことを教えてくれたお医者さんが、誰かと口論しているのを見かけた。数日後、大きな病院に転院することになり、長期入院が決まったと聞かされた。

 それからは病院の中と、部屋の窓から見える景色だけが都の日常となった。

 今まで来てくれた大人は誰も来なくなった。先生や看護師さんも知らない人になった。ただみんなとても機械的に働く人ばかりだと思った。

 そこでは全てがスケジュール通りの生活だった。決まった時間に起き、ご飯を食べ、検査や投薬があり、決まった時間に寝る。見る景色はいつも同じ。白い壁、白い天井、白い機械、白い服の大人たち。そこは自由とはかけ離れた、管理された白の世界だった。

 ひどく退屈でつまらない世界だった。

 だが、そんな世界の中、本だけは自由だった。

 本には全てがあった。そこには白以外の色があった。誰かが考えた赤い物語。誰かがまとめた青い知識。誰かが辿った緑の軌跡。本は白に染められた都の心に色をくれた。

 本とは書いた人の人生なんだ。本を読むということは、その人の色をもらうことなんだ。

 いつしか都は読書に耽溺し、有り余る時間を読書に注ぎ込むようになった。睡眠、食事、問診、検査、投薬。それ以外の時間は全て読書に費やした。どれだけの間そうした生活を続けたのか、もはや都にも分からなかった。

 そんな日々を過ごす内、いつの間にか都の体は退院を許可されるまでに回復していた。

 退院に際して中年の夫婦が都を迎えに来た。彼らが都の保護者ということだった。

 とても優しい二人だった。

 入院生活が長く、外の世界に慣れない都を色んな所に連れて行ってくれた。

 太陽の光で肌の色は変わるし、海の水は砂浜を行ったり来たりする。山の空気にも味がある。知識の上だけで知っていたことを、都は事実として実感できた。全てが初めての世界、初めての体験だった。

 楽しかった。嬉しかった。

 世界はこんなにも沢山の色に溢れていたのだと歓喜した。


 都が学校に通うようになるまでは。


 転校という形で家から近い小学校に通うようになった都は、教師を始めとした大人に可愛がられた。

 元々本を読むのが好きで勉強も出来た都は、同年代の児童に比べてしっかりとしており、大人受けが極めてよかった。

 だが、そういう子供は得てして子供受けが悪い。

 都がテストで満点を取ったり、クラスの間違いを正したりするたびに、いけ好かないやつとして、妬みや嫉みを含む感情を向けられることが増えていった。

 教室でも親しい友人を作らず読書にのめり込む都は次第に、いじめの対象として見られるようになっていた。

 まず筆箱が無くなった。最初は気のせいか、どこかに置いてきたのかと思い、新しい筆箱を買いなおした。次に上履きが無くなった。確かに昨日、下駄箱に入れて帰ったのに。不審に思いながら新しいのを買った。古い上履きは三か月後の大掃除で、側溝のドブの中から見つかった。

 教科書はゴミ箱から見つかった。体操服はトイレに漬けられていた。ランドセルは傷だらけになっていた。

 都には、どうして自分がこんな事をされなければならないのか分からなかった。

 クラスでも抗議の声を上げた。だが返ってきたのは嘲笑だけだった。

 始めは親身になってくれた教師も、終わらないいじめに次第に何も言わなくなり、都に問題があるんじゃないかと言い出す始末だった。

 保護者である夫妻が学校に苦情を申し立てたこともあったが、いじめをより増長させる結果に終わった。

 いじめの首謀者を告発したこともあったが、連鎖的に責任を問われることを恐れた関係者と、大ごとにすることを避けた学校により、事実は無かったこととして扱われた。

 これにより、都はなにをしてもいい相手として見られるようになった。

 学校に都を助ける者はいなくなり、学校内の人間全てが直接的、あるいは間接的に都の敵となった。

 やがて都の心にどろりとした、黒い感情が潜むようになった。

 子供と接する経験の少なかった都にとって対等だと思っていた同年代のクラスメイトは、もはや論理的な話し合いが通じない幼稚な存在にしか見えず、こいつらは愚かな行為に労力を費やす浅はかな連中でしかないのだと、侮蔑の眼差しを向けるようになっていた。

 こんなやつらに負けてたまるものか。これしきのことで自棄を起こしたりなんか絶対にするもんか。

 都は賢く、そして強かった。

 だが、それでも人の心は鉄ではない。味方もおらず、姿の見えない敵に囲まれる毎日を過ごす都の心は確実に蝕まれ、摩耗していった。

 しかしその日々は唐突な終わりを迎える。

 ある台風の日のことだった。

 この日も都はクラスメイトから嫌がらせを受けていた。

 持ち物を窓から投げ捨てるという、つまらない嫌がらせ。

 都はいつものようにそれを無視していたが、その日はいじめの主犯格の虫の居所が悪かったのか、そいつは都の態度に段々と腹を立てた。ランドセルをひっくり返して中身を引きずり出すと、次々と中身を豪雨の吹き荒れる窓の外へと捨てていく。

 始めは無感動に眺めていた都だったが、そいつが最後にランドセルから取り出したものを見て顔色が変わった。

 それは小さなクリームソーダのストラップだった。

 そのストラップは都が大切にしているもので、つらく苦しい学校生活を送る都の唯一と言っていい心の支えだった。

 だが、それも他の鉛筆や教科書と同じように外へと投げ捨てられた。

 慌てて窓に駆け寄った都が目にしたのは、側溝から溢れた濁流に飲み込まれたストラップが排水溝に流れ落ちていく光景だった。

 その時、都は確かに感じた。

 自分の中にどろりとした真っ黒な何かが満ちていくのを。

 直後、耳をつんざく破裂音と共に窓ガラスが砕け散り、荒れ狂う嵐が凄まじい勢いで教室内に存在するもの全てに襲い掛かった。

 突如訪れたガラスの弾丸と殴りつけるような豪雨により、教室は地獄と化した。絶叫は暴風に吹き飛ばされ、痛みと恐怖だけがこの場を支配した。

 黒い嵐が全てを破壊する中、生徒たちはわけもわからず、ただ叫ぶことしかできなかった。

 教師が駆けつけた時、教室は恐慌と阿鼻叫喚に満ちており、その片隅で都は意識を失って倒れていた。

 次に目覚めた時は、病院のベッドの上だった。

 すぐに検査が行われ、心身ともに衰弱が認められた都は再び入院生活を送ることとなった。

 あの時、何があったのか都は覚えていない。ただ、尋常ではないことが起こったことは間違いなかった。

 その証拠に、都の手には無くなったはずのクリームソーダのストラップが握られていたのだから。

 それからしばらく後、見舞いに来た夫妻が色々と話をしてくれた。

 ずっと心配だったこと。無事でいてくれて嬉しかったこと。学校が台風でめちゃくちゃになったこと。新しい学校に転校する必要があること。それに伴って、原綿という土地にいる祖父のもとに引っ越さなければならないこと。

 そして原綿市には、夫妻は一緒に行けないこと。

 ごめんなさい。何度も何度も謝られた。

 都は彼らの話を全て聞き、その全てを受け入れた。

「心配しないで、パパとママが思ってるより都はしっかり者ですよ」

 家族は互いに手を取り合い、涙を流して抱き締めあった。

 退院の日。受付を済ませて病院を出ると、一人の老人が待っていた。老人は両親と軽い挨拶をすると、腰を曲げて都と視線を合わせた。

「ぼくのことを覚えていますか」

「はい」

 都はその老人を知っていた。

「私が目を覚ましてすぐの頃、何度かお見舞いに来てくれましたよね」

「…………ああ、そうです。覚えていてくれてありがとうございます」

 この人が都のおじいさんだよ、と改めて両親から紹介を受けた。

 そして、いくつかのやり取りの後、都は祖父に連れられて原綿市までやってきた。


         *


 原綿市に来てすぐの都は、何かに取り憑かれていた。

 起きている時も眠っている時も、何者かが耳元で囁き、常に自分を攻撃するのだ。

 それは過去の経験によって、都の内に生まれたトラウマという悪霊だったが、そんなことを知らない都は他人に本心を見せることを恐れ、人間関係に強い忌避感を感じるようになっていた。自分を信じて送り出してくれた両親や一緒に住む祖父の手前、あくまで平静を装っていたが、本心では学校に通うことに痛みを感じるほどだった。

 そんな都を受け入れたのがマキだった。人間関係を避けて周囲から孤立しがちだった都を、マキは積極的に仲間に入れた。

 最初はそういう気遣いに煩わしさと申し訳なさを感じていた都だったが、関係が深まるにつれてマキの素直な人間性に気付き、次第次第に心を開いていった。

 そうして、いつしか二人は親友と呼べる仲になり、気付けば悪霊が都に囁くことも無くなっていた。

 今にして思えばマキは、都に限らず孤立しがちな子全員に声をかけていたのだろう。例えば七尾がそうだ。彼女も普段は男子とばかり遊んでいて、女子のコミュニティから孤立しがちな印象があった。それをマキが仲介することで関係を繋いでいたのだ。結果として七尾は今まで接点のなかった都と出会い、互いに親密な関係を築くまでになったのだった。

 初めての友達だった。

 都にとって、二人は初めて心を許すことができた友達で、過去の痛みでささくれ立った心をほぐしてくれた恩人だった。

 かけがえのない存在だった。失いたくなかった。失うわけにはいかなかった。

 だからこそ『わらわ』を見た時、都は恐怖した。自分の世界を脅かす存在だと直感が告げていた。

 あれは怪異だ。

 都はそう確信していた。そして怪異というものは程度の差はあれど、必ず人間に害をなすことを知っていた。

 そんな存在を許すわけにはいかなかった。

 大切な友達に害を及ぼすであろう存在を認めるわけにはいかなかった。

 マキも、七尾も、絶対に失うわけにはいかなかった。そのためにどんな手段を使ってでも脅威を排除すると誓ったのだ。それがたとえ、他の何を犠牲にすることになったとしても───。

 それからの都は空いた時間を全て、原綿市に伝わる昔話や郷土資料などの検索に充てていた。図書館で、資料館で、見れる限りの資料を目にし、触れられる限りの文献を手に取った。

 だがこれまでめぼしい収穫は皆無。それらしい情報はどこにもなかった。もしかすると原綿市にまつわる存在ではないのかもしれない。そうなれば日本各地に存在する膨大な資料と、いつ終わるとも知れないにらめっこをする羽目になる。

「これも違う……!」

 既に人がいなくなった図書室で、都は苛立ちを露わにする。

 市の図書館にも資料館にもないものが、学校の図書室なんかで見つかるはずがないのだ。ここでの調べ物も半ばやけくそで行っていることだ。

 しかし、もしもということもある。探し物というのは、いつだって意外なところから見つかるものだ。過去の経験からも、そういった事は何度もあった。とは言え、流石に今回は徒労の気配が漂っているが…………。

 いけない。実りのない現状に弱気になっている。こんなことで諦めちゃ駄目だ。

 都は再び本を手に取りページをめくる。

 都は焦っていた。

 『とうかさん』などというあからさまに狐が絡む祭りがすぐ近くまで迫っているのだ。その祭りに合わせて、わらわが何かしないとも限らない。むしろこのひと月の間、何もなかったことを思えば、そこで何かあると考える方が自然だ。

 タイムリミットは残り二週間。いや、対処を考えれば一週間か。それまでになんとか『わらわ』の正体を掴まなければ。なんとか、絶対に、なんとしても──────


 ふ、


 と、ページをめくる手が止まった。

 黒い装丁の施された本を開いたまま、都は動かない。まばたきすらしない。食い入るように文章を見つめたまま、時間が静止した。そして、


「あった…………!!」


 都は口元を歪めて歓喜した。

 興奮のまま表紙を確認し、今見たページを開き直し、内容を何度も読み返しては、書かれてある内容が求めていたものであることを確認する。

 これを見ればマキも七尾も分かってくれるはずだ。

「ふふ、うふふふ………」

 都の口から漏れ出た声が、静かな図書室の空気に吸い込まれていった。

 手にしたままの漆黒の本だけが、じっとりとした笑い声を聞いていた。


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