2-4
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境井マキは、深夜のベッドで目を覚ました。
マキは掛け布団の柔らかさを感じながら、もぞもぞと体を動かして大きなあくびをする。
時計を確認すると、夜光塗料で光る針が二時ちょうどを示していた。
マキの生活習慣は安定している。決まった時間にご飯を食べ、決まった時間にお風呂に入り、決まった時間に眠りにつくという、健康的な生活を送っていた。
加えて、一旦床についたら朝まで目を覚ますことはほとんどなく、旅行や遠足の前日でもぐっすり熟睡できるタイプだった。
そんなマキがいつもの通りのルーティンでベッドに入ったのに、こんな深夜に起きてくるというのは初めての経験だった。
マキは体を起こしてベッドから起き上がった。
このまま眠ってもよかったのだが、また起きてしまう可能性を考えると、一度トイレに行っておいた方がいいと判断したのだ。
廊下に出ると、冷たい空気がひんやりと肌の表面を撫でた。
四月になって暖かい日が続いていたが、夜の空気はまだまだ肌寒かった。
寝静まった家族を起こさないように、忍び足でトイレに向かったマキは、手早く用を足すと、来た時と同じようにそろりそろりと部屋に戻る。
「……?」
歩みを進める足が、ぴたりと止まった。
「…………」
マキは爪先立ちのまま、その場から動かない。
なにか音を聞いた気がしたのだ。
何かが動いたような、そんな音。
一瞬、家族が目を覚ました音かと思った。もしかしたらトイレの音で起こしてしまったのかもしれないと。
だが、その音は家族の部屋からではなく、もっと別の場所から聞こえた気がした。
カタ、カタ、コト───
「!」
やはり音がする。誰かが何かを動かしているような音だ。
耳を澄ませると、それはどうやら台所から聞こえているようだった。
こんな時間に誰が……?
不穏なものを感じつつも、マキは音の正体を確認するため台所へと向かった。
おそるおそる台所まで見に行くと、キッチンに立つ白い背中が見えた。
ほっ、とマキは安堵のため息をついた。わらわの背中だ。
わらわはキッチンの戸棚を開けて、中の物を出しては戻すを繰り返している。備え付けられた間接照明の白い明かりに照らされたわらわは、戸棚を物色するのに夢中で、廊下に立っているマキには気付いていない様子だった。
お腹でも空いたのかな?
そう思い、マキはわらわに声をかけた。
「わらわちゃ……」
呼びかけは言葉になる手前で途切れた。
違和感。
そう、違和感があったのだ。
わらわはどうして戸棚ばかり漁っているんだろう。
お腹が空いているのなら冷蔵庫を開ければいいのに。どうして食材の入っていない戸棚を探っているんだろう。
その違和感が、わらわに声をかけることを躊躇わせた。
かたん、
不意にわらわが動きを止めた。
そして、コンロの下にある戸棚から何かを取り出すと、ゆっくりとその場に跪いた。
「……………………」
沈黙。
長い沈黙。
わらわは跪いた姿勢のまま動かない。その姿にマキは段々と気味の悪いものを感じ始めた。
動かないわらわ、動かない空気、動かない時間。
不気味な沈黙は得体の知れない感情を呼び水に、じわじわと腹の中を冒すどす黒い恐怖を呼び起こした。
気付けば、台所の気温が数度下がっていた。
夜気を孕んで冷たくなった空気が、真っ黒な闇となって辺りを包み込んでいた。
そんな闇の世界を、ぼんやりとした白い明かりが切り取っている。
だが、その明かりに映し出された光景は、救いの灯とはほど遠い不気味さで、胸の内に渦巻く恐れの感情をただ増幅させるだけだった。
沈黙に耐えかねたマキは、ゆっくりと動き出した。
音を立てないように。沈黙を破らないように。
もしもこの沈黙を破ってしまえば、今、自分が立っている世界が足元から崩れてしまうのではないかと思うほどの静寂に、心臓が張り裂けそうだった。
マキは静かに、静かにわらわに近付いた。
「…………」
わらわに動く様子はない。
そうっと近付く。
やはり動かない。
更に近づく。
「…………?」
ふと、マキは気付いた。
わらわは動いていないわけではなかった。遠くから見れば動いていないように見えたその体は微かに、ほんの微かに動いていた。
背中越しでよく見えないが、わらわは小刻みに頭を揺らしていた。
「わ、わらわちゃん………」
「……………………」
震える声で名前を呼ぶが、反応はなかった。
声が届かない距離ではないのに、気付かないはずがないのに。
破られたはずの沈黙がなおも続いていく状況に不安が加速する。
「ねえ、なにしてるの………」
再度の呼びかけ。反応はない。
「…………」
マキは意を決してわらわの背後に立ち、ゆっくりとわらわの手元を覗き込んだ。
「……!」
絶句した。
わらわは手を舐めていた。
俯きながらぺろぺろと、自分の手を舐っていた。
その手はぬらぬらとした液体に濡れており、傍らには食用油の小瓶が転がっていた。
わらわが舐めているのは手ではなかった。手で掬った油を舐めていたのだ。
わらわはマキに気付く素振りを見せず、一心不乱に自らの手を舐め続けている。
ぺろ、ぺろ、ぺろ、ぺろ、
小さな口から覗く赤い舌が指に絡まり、とろりと光る油をこそぐように舐め取っていた。照明の反射で怪しく光る指を舐る姿は、官能的な狂気を感じさせた。
マキは口元を押さえたまま動くことができなかった。
目の前の異常事態に理解が追い付かず、ただ見てはいけないものを見てしまったという恐怖が脳内を支配した。全身の産毛が一斉に逆立ち、冷たい戦慄が体中に広がった。
声を上げることはおろか、呼吸をすることも忘れ、冷たく流れる嫌な汗がじっとりと寝間着を濡らした。
なんとかしてここから逃げ出したかった。これは全て悪い夢でそのうち目が覚めるんだと思いたかった。
無理だ。感情が、戦慄が、これが現実であることを突き付けてくる。
摩耗した精神は、もはやここから逃げることを許さなかった。
浅い呼吸が残り少ない意識を削り取ろうとした。
その時、
がしっ
背後から肩を掴まれた。
「────ひっ!」
喉の奥で絶叫を押し殺した。
「マキちゃん」
知っている声だった。振り向くと、祖母が立っていた。
「どうかしたの?」
優しい声色。しかし、その表情はいつもより厳しかった。
「あ、あの……」
マキはどう答えるべきか逡巡して、ふと気付く。
さっきまで辺りを包んでいた闇と異様な空気が消え去っていた。
まるで今まで感じていた気配が錯覚であったかのように、そこには普段通りのキッチンがあった。さっきまで目の前にいたはずのわらわの姿もなく、台所にはマキ一人だけになっていた。
寝ぼけていたのだろうか。いや、だとしたら胸に残るこの戦慄の残滓は……。
呆然としながら周囲を見回すマキに祖母が言う。
「お部屋に戻りなさい」
「でも、おばあちゃん」
「戻るのよ」
「………うん」
言われるままに台所を後にして部屋に戻ったマキは、もやもやとしながらも汗に濡れた寝間着を着替えるとそのまま床についた。
*
朝、目を覚ましたマキは昨夜の出来事を思い返そうとした。しかし寝起きでぼんやりとしているせいか、そのことをハッキリと思い出すことはできなかった。
ただ、喉奥に絡む、ぬるぬるとした感覚がやけに煩わしかった。
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