第20話

   

 真田大輔は、長崎知世との出会いによって社会性動物としての息を吹き返した。


 諦める事を止めた。


 これまでは本当に必要最小限だった他者との交流も大輔が必要性を少しでも感じたなら二の足を踏む事無く行動を起こすようになった。


 或る日の事、


「――あ。ありがとう」


 大輔はクラスメートの女子からお礼を言われた。


「いや」と一言だけ返す。


 照れたというよりは戸惑ったのだ。大輔にしてみれば「礼を言われる程の事はしていない」といった思いだった。


 遡ること数十秒――休み時間の教室内にて。クラスメートの男子たちが4~5人でわちゃわちゃと騒いでいた。その内の一人が「ナンデヤネン!」と別の一人の胸元を手の甲で叩いた。そのツッコミがクリティカルヒット、もしくは会心の一撃となって叩かれた男子は大きくよろけた――その先には友達とオシャベリ中であった女子の背中があった。


 偶然、それは大輔の目の前で起きた。大輔は咄嗟に腕を伸ばした。何か思うよりも早く体が動いた。大きなてのひらでよろけた男子を受け止めて、女子には触れさせもしなかった。


「うわ……っとと。びびったぁ……え? あ、真田? うおッ。悪い。助かった」


 よろけた男子はよろけた事以上に大輔の顔を見て驚いていた。


 確かに。一ヶ月も前の大輔なら目の前で誰がよろけようとも見て見ぬ振り――ではなくて本当に見えていなかっただろう。腕など伸ばすはずも無かった。


 真田大輔が「そういう人間」であるという認識は男子女子を問わず、クラスメートたちの間にも広まっていた。……不思議とそれは「孤高」だの「一匹狼」だの「COOL」だの「ルカワ」だのと好意的な捉えられ方をしてはいたが。


 だから男子は驚いたのだ。


 その驚きの声に驚いて、こちらに背中を向けていた件の女子が振り返る。


 被害を受けそうになりながらも結局は無事で済んだその女子は「え? 何? 何かあった?」と最初は困惑していたが、彼女のオシャベリ相手であった別の女子が事の次第を目撃しており、


「それを真田君が助けてくれたんだよ」


 と自身に迫っていた危機を真田大輔が未然に防いでくれた事を教えてもらっての、


「――あ。ありがとう」


 であった。


 また別の日には――日直の背が低くて黒板の上部が上手に消せないでいる事に気が付いた大輔は「…………」と無言で黒板の上部だけをさっさと消して、日直とは目も合わさずにその場を去ったりとしていた。


(お礼を言われたくて手伝うわけではないうえに余計なお世話だと言われるのも怖いからな。嫌味のつもりも無くて本当にただ良かれと思ってした事でも「背が高い事の自慢か? ああ?」と逆恨みされる可能性もある。気を付けないとな。)


 人間の心の機微というのか感情の働きは理解していながらも大輔は、それでも目に入ってしまった小さな問題には自然と首を突っ込んでいた。


(ちょっと手を貸すだけで解決する事が分かっているような「小さな問題」だけだ。ちょっとしたボランティアだ。略して「ちょボラ」だ。)


 と照れ隠しのように思う真田大輔の根本にあるものは紛れもない「正義」だった。


 名作の中の名台詞である「――優しくなければ生きていく資格がない」ではないが「正しい人間とはこうあるべき」という本や映画から得た「知識」が大輔の精神には宿っていた。もしくは巣食っていた。


 それはフィクションから得た知識だ。比較的早くから己の人生に絶望して他人との関わりを断ってきた大輔には実際の交流経験が哀しい程に不足していた。その為に、良く言えば全く擦れていない純粋な、悪く言えばまるで幼くて未熟な正義感を大輔はその胸に抱えていた。


 知世も言っていたが「博学多識」である大輔は、


(脳内物質の分泌の話だ。自分の幸せの為に働くよりも他人の幸せの為に働いた方が成功時の達成感や幸福感は長く持続するらしい。つまり俺の行動は回り回って結局は自分の為だ。偽善ですらない。だから「いいこと」をしているという気恥ずかしさを感じる必要もないのだ。)


 雑学による理論武装もしていた。


 実践を伴わない知識ばかりを吸収してきた大輔は、実際に行った自分の行動がどういう状況を招くのかをよく考えていなかった。目先の結果のその先を見逃していた。


「最近の真田君……優しいよね?」


「うん。すごい手伝ってくれたりする」


「気が利くっていうか。わざとらしくないのもいいよね。スマート? て言うの?」


「でもなんか紳士になっちゃった感じ。……前の暗黒な感じが薄まってきちゃって」


「まあね。自分には手が届かないどころか手を伸ばそうとするのもおこがましくて、馬鹿が勇気を振り絞って手を伸ばしたりしたら無惨にもその手を噛み千切られそうなダークさが真田君の魅力だったもんね」


「なんだろ。ファンサ加減を間違えたアイドルに萎える感じというか……。ウチらのレベルにまで堕ちてきちゃった感?」


「でもでもでも。私も最初はちょっとキャラ変しすぎとか思わなくもなかったけど。いっかい、一回でいいから真田君にやさしくされてみなって。これはこれでアリ――ていうか、むしろ『コレは!?』感がすごいから。前とのギャップが。時間差の疑似だけど『皆には塩対応なのに私に対してだけは優しいカレ』的な。今だけよ。以前のイメージがまだ残ってる今だけのプレイよ」


 ――このように。クラスメートの女子たちの間で妙な話が広まってしまったのだ。


 そうして、


「あー……重い。重い。一人だとちょっと運ぶの大変かも」


 などと真田大輔の近くでわざとらしく困ってみせるという女子たちの試みが多数、発生するようになった。彼女たちは自分らの事を「真田君に助けてもらい隊」などと呼んでいた。つまりは遊びなのである。


 何も知らない大輔は、


「手伝おう。何処まで持って行けば良い?」


 と当然のように彼女たちを助けた。


「ありがとう。真田君」とはにかみながらも心の中では「きゃーッ!」と女子たちは大はしゃぎしていた。


 大輔はそんな彼女たちの思惑に気が付くどころか、


(今迄、見ようとしていなかっただけで大して広くもない俺の周囲だけでもこんなに多くの困っている人間が居たんだな……。……「無関心は罪」か。)


 妙な悟りを開きかけていた。


 一方で、


「……なにをしているんだか」


 と、この辺りまではまだ苦めに笑っていた知世だったが、


「真田君……あたしには特に優しかったし」


「……いまならワンチャン」


「試すのはタダよね。当たって砕けても今の真田君ならそれも慰めてくれそうだし」


 等々、度を越した一部の勘違いガールズが大輔を人気のない場所に呼び出そうものなら、


「――リセット」


 彼女たちが愛の告白を口にする直前という絶妙なタイミングで、世界を巻き戻してやっていた。しかも。巻き戻した先の時間は、


「あの……ちょっといいかな。真田君に話したいことがあって。あの……」


 と女子が大輔を呼び出した頃と決められていた。


 気合いの表れだろうか。以前に「秒単位で正確に」は無理だと言ってた巻き戻した先の時間帯を知世は上手に調整していた。


 不意に世界を巻き戻された大輔は、


「――悪い。急用が出来た」


 女子からの誘いを断ち切って、


「長崎! 何処だ! 何があった!?」


 と知世の元に駆けていく。その姿を見た女子は、


「あー……。……やっぱりね。そりゃあそうだあ……」


 自分には可能性などワンチャンすらも無い完全なゼロであると思い知るのだった。勿論、愛の告白のセッティングはし直されずに立ち消えとなる。


 経験の差とでも言おうか。思惑を通す事に関してはそんじょ其処らの女子たちよりも長崎知世の方が一枚も二枚も上手であった。



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