第2話

   

「どうでもいい」とすらも大輔は思わない。本当に何も思えない。


 皆に見られていた長崎知世が、


「あー……」


 と小さく呟いた。皆は口を閉じて耳を澄まして知世の次の言葉を待った。


「絶対に宮下君だと思ったんだけどなあ。宮下君には悪い事しちゃったなあ……」


 決まり悪いといった顔でぼそりと吐露した知世に、


「え……?」


「長崎さん……?」


「ウソ……」


 クラスの皆がざわざわとささやき始めた。


 完璧なはずだった長崎知世の人間味を初めて見たのだ。


 皆の中にあった「常識」にヒビが入った瞬間だった。


 そして、ひび割れた信頼は簡単に崩壊してしまう。


「長崎さん、宮下君に謝ってきた方が……」


 これまでだったらありえない。一人の女子生徒が長崎知世に対してやんわりとだが否定的な意見を述べた。すると、


「そうだよ。謝った方が良いって」


「宮下君が可哀想」


「早く行きなよ、長崎さん。早く。宮下の事を追い掛けろって」


 せきを切ったかのように知世は断罪され始める。


「あー……」とまた知世が呟いた。


 が今度はクラスの誰も口を閉じなかった。耳も澄まさなかった。


「……むずかしいなあ。一歩でも踏み外したら真っ逆さまかあ」


 知世のその言葉を耳に入れた人間は果たして教室内に何人居ただろうか。


 少なくとも一人、


(…………。)


 真田大輔には聞こえていたが――ぐにゃり。


 唐突に大輔の視界が歪んだ。


 気が付けば音も止んでいる。


(ああ……。また来たか……。)


 視界の中に居たクラスメートたちの動きも止まっていた。


 大輔も動けない。


 全てが停止した「一枚の絵」がぐにゃりぐにゃりとねじれてたわむ。


 まぶたを閉じる事も出来ない大輔は世界が潰されていくさまを眺め続ける。


 感覚は無いが自分の体も脳みそも、ぐにゃりぐにゃりとされている事が「分かる」のだ。


(気持ちが悪い……。)


 吐き気を催さないタイプの気持ちの悪さだ。


 自分の頭がおかしくされていっている事が良く分かる。


 自分の頭がおかしくなっていっている事が良く分かる。


 何度、体験しても全く慣れる事はなかった。


 何とも形容し難い感覚だった。


 従って、医者にも親にも先生にも友達にも誰にも正確には訴える事が出来ない感覚だった。この気持ちの悪さは相手が同じ体験でもしていない限り誰にも伝わらない。


「――ホだなあ」


 声が聞こえた。


 大輔は「ふぅ……」と息を吐いて「すぅ……」と息を吸い込む。


 止まっていた呼吸が正常に戻っている。


 大輔の目には歪みなど無い景色が映っていた。


「よく探したの?」


「実は家に置いてきたとかじゃなくて? 本当に持ってきてはいたわけ?」


「いつまでは確実にあった?」


「今日歩いたルートをもう一回歩いてみよう。途中で落としたか置き忘れてるかも」


 世界は立ち止まる事なく動き続けている。


「先生にはもう話した? 拾った人が職員室に届けてる可能性もあるよ」


「先生に言って校内放送で『拾ったら届けてください』とか言ってもらうか?」


「それは……どうなん? 同じクラスの俺らはまだしも他学年のヒトらにそんなこと言ったら宝探しが始まっちゃわねえ? 20万も入ってたらゼッタイ抜かれるだろ」


 そしてそれらは全て聞き覚えのある言葉だった。


(……今回は10分から15分程度か。)


 大輔だけが気付いていた。覚えていた。これは二度目の世界だ。


 この世界は10分から15分程度、巻き戻されたのだ。


 二度目の世界。だが誰も二度目とは気が付いていない。一度目を覚えていない。


 だから皆、一度目と全く同じ事をする。


 人間も動物も風の向きも雲の形も日差しの強さも一度目と全く同じだ。


 二度目だなんて夢にも思わず一度目と同じ人間が一度目として動くのだから思考も言動も一度目と同じ事をしてしまう。


 となると迎える結果は勿論、一度目と同じになる。


 でも「未来は変えられない」という話ではない。


 むしろ未来を変える事はとても簡単だった。


 この世界を二度目だと知っている、感じている「一度目の大輔」とは別人の大輔が一度目とは違う事をすれば当然のように違う結果が訪れる。


 ただそうすると二度目の結果が一度目よりも良くなっていようが悪くなっていようがそうなってしまった全責任が大輔に重く伸し掛かる事になる。


「大輔が選んだ」別の未来だという事になる。


 その責任は他の誰にも知られる事はなかったが大輔自身は知っている。


 良かれと思って取った行動が最悪の結果を招いてしまう事だってあるのだ。


 だから――。


「犯人はこの中に居るわ!」


 長崎知世が大きな声を上げた。


 この後「南河君のお財布を盗んだ人物。それは――宮下ワタル君! アナタよ!」と知世が口にする事で宮下ワタルは濡れ衣を着せられて嫌な思いをする。


 間違った事を言った知世も知世でその後、クラスの皆から責められる。


 今ならまだ間に合う。ここで一度目を覚えている大輔が「ちょっと待てよ。南河の尻ポケットに入ってるの財布じゃねえのか?」と口を挟んでやるだけで宮下ワタルも長崎知世も救われるはずだ。


 でも、


「…………」


 大輔は何も言わない。何も言えない。


 宮下ワタルや長崎知世を救うつもりで飛び出しても、結果的に別の誰かをより深く傷付けてしまうかもしれない。そんな「もしかしたら」すらもう考えられない。


 大輔はただただ「何もしない」という事を決めていた。


「南河君のお財布を盗んだ人物。それは――」


 長崎知世が自信満々に指を差した相手は、


「――南河君。アナタ自身よ!」


 であった。


「えッ!?」


 と大輔はその場に居た誰よりも早く、また誰よりも大きく反応してしまった。


 クラスの皆が大輔の方を向いた。


「いまの……真田?」


「……びっくりしたな。二連続で」


「真田君の声、初めて聞いたかも。私」


 こそこそと皆がささやき合う。


 クラスメートとのコミュニケーションなど、これまで全くと言って良いほど取ってこなかったせいだろう、大輔に直接、


「珍しいな。お前がそんなに驚くなんて」


「てか聞いてたのかよ。そんな離れたところで。こういう話には興味が無いと思ってたぜ。こっちに来いよ」


 などと声を掛けてくるような生徒は一人もいなかった。


 皆、一度は見てしまった大輔から目を逸らすように今度は南河利夫の事を見る。


「いや。真田じゃなくても驚くぜ」


「流石は長崎さん……だけど」


「南河自身が犯人て、どういうこと?」


 結局、大輔の不審な挙動は「あの真田大輔が声を上げて驚くくらいの事を長崎知世が仕出かした」という彼女の快挙にすり替えられて、この場は何となく収まった。


「なんだよ。財布を盗んだのが俺自身て……俺の自作自演だって言いたいのかよ」


 20万円と共に怒る気力も無くしていた南河利夫が弱々しく抗議した。


 唇を横に引いて自信満々の長崎知世が答える。


「『盗んだ』って言い方をしたら語弊があるわよね。ごめんなさい」


「じゃあ……」


「ただアナタのお財布を今持っているのはアナタよ」


「……どういう意味だ?」


「今度は言葉通りよ。南河君。穿いてるズボンのポケットに入ってるモノは何?」


「何ってスマホだけど……」とポケットに手を突っ込んだ南河利夫は、


「――あッ!?」


 と驚きの大声を上げた。


「なになに」


「どうした?」


「おい。まさか」


 クラスの皆が注目する中、南河利夫は、


「……ワルイ。財布、あったわ。ケツポケットに入ってた。スマホじゃなかった」


 申し訳なさそうにポケットから取り出した財布を頭上に掲げた。



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