神様曰く、運命なので

七篠

第1話




 レイチェル・オーウェントは、とことん最悪の人生を歩むらしい。


「レイチェル」


 愛する婚約者が自分の名を呼ぶ。

 それはどんなシチュエーションなのだろう。どんな声で呼んでもらえるのだろうといつも夢を膨らませていたけれど、現実なんてこんなものだ。あれほど好きだった相手からの呼びかけは、レイチェルにとっては全く嬉しくないものだった。

 それが悲しくて、レイチェルは眉を下げる。


「なんでしょうか? コーディ様」


 それでも笑顔で顔を上げると、鼻を歪めて嫌そうな顔をしている婚約者がいた。

 その隣にはいつもの女がいる。それにもいい加減慣れてしまった。


「今日こそ正式に婚約を解消する。いいな?」


 コーディが隣で不安そうにしている女の肩を引き寄せる。

 彼が次に言うことは予想がつく。だから、レイチェルはその女を睨みつけた。


「俺は、ステラと婚約するから」


 レイチェルの表情にコーディは片眉を上げたが、素っ気なく言い放った。

 血が沸騰したように体が熱くなって、レイチェルは拳を握る。

 覚悟はしていたことだ。だけど、実際に言われるとやはりだめだった。

 どうして。そんなどうしようもない問いが脳裏に浮かんで、歯を食いしばる。

 悲しみと虚しさが込み上げ──行き場のないそれは、怒りとして爆発した。


「貴女、ちょっと来なさい!」


 ステラの手を乱暴に握る。そのまま力任せに引っ張ると、彼女は短く悲鳴をあげた。

 その悲鳴を聞くと少しだけすっきりして、でもそれ以上にイライラする。絶対そんな玉じゃないはずなのだ。ステラ・ケミストという女は、こんなにか弱い女じゃない。

 こんな女がいるはずない。綺麗で、優しくて、人を恨まない女なんていないはずなのだ。だって、そうでなくちゃ、レイチェルが惨めだ。

 かわいこぶるな。偽善者め。そう怒鳴りつけてやろうとして、レイチェルは口を開く。だが、そこでコーディが邪魔をした。


「レイチェル、やめろ!」


 間に入ろうとするコーディを避け、下から睨めつける。

 やはり、コーディのいる前ではろくに話が出来ない。レイチェルはステラを引っ張ると、彼の前ではけして使おうと思わなかった魔法を使った。

 レイチェルとステラの足元に魔法陣が浮かび上がり、コーディが僅かに目を開く。


「コーディ様は手を出さないでください。わたくし逹、二人でお話してきます」


 強く言い放つと、返事も聞かず、転移魔法で人影のない場所へと移動する。

 その瞬間、俯いたステラの口角が上がったことには、レイチェルは気が付かなかった。




  *  *  *  *




 学園の隣にある森は、いつも人気ひとけがなくて鬱蒼としている。だからステラに文句を言う場所は、大抵ここだ。

 今日も誰もおらず、それどころか、動物の気配すらしなかった。

 着いた途端、手を離すと、レイチェルはステラの頬を打つ。


「人の婚約者を取っておいて、よくそんな平気な顔が出来るわね」


 ステラは、けして平気な顔をしているわけではない。だが、レイチェルにとっては、どんな顔をしていても、婚約者のいる男性と恋仲になることはとうてい許されることではなかった。

 他の人もそうなはずなのに、ステラがやると、そのルールはまるっきり無かったことになる。数々の正論も、ステラの前では役に立たなかった。

 レイチェルだけがいつも正気で、だから仲間外れだ。


「この売女」


 吐き捨てるように罵る。ステラは、真っ赤になった頬を庇うように両手を添えると、瞳を潤ませた。


「そんな……私は誓って、コーディさまだけです」


 それがだめだと言っているのが、どうして分からないのだろうか。

 イラついて後頭部を掻きむしる。この女はいつもレイチェルの神経を逆撫でにした。

 同じくらいの魔力を持つのに、魔女だと蔑まれたレイチェルの目の前で、聖女だと崇められているのも。

 レイチェルを見ると嫌な顔をするコーディが、ステラには頬を染めているのも。

 全部全部、腹が立つ。


「みんなにいい顔してチヤホヤされるのは、お姫様みたいで、さぞかし気分が良いのでしょうね」


 なにが違うのだろう。彼女と自分のなにが。

 レイチェルにはそう変わらないように思える。見た目もスペックもそう変わらない。それなのに、ステラとレイチェルとではなにもかもが違った。

 友達も家族も、周りの反応も。

 それでも、コーディだけがレイチェルの味方であったはずなのに、とうとうコーディにまで捨てられて、彼女は一人になった。


「わたくしは、貴女のようになりたかったわ」


 今まで腹の底に溜めて我慢していた言葉が、唇に乗る。驚いたように目を開くその顔が気に入らない。

 目頭が熱くなって、レイチェルは目を擦った。


「貴女みたいな、綺麗で優しいヒロインになりたかった」


 顔を隠すように俯く。

 泣くな。弱みも見せるな。どうせあのむかつく顔で同情される。

 そう思ったのに、返ってきた言葉は、予想外のものだった。


「無理よ」


「え?」


 目を瞠る。顔を上げると、そこはまるで別の世界だった。


「だって、あなたは悪役令嬢だもの」


 ステラが、腕組みをして、顎を上げ、挑発的に笑う。

 彼女のこんな顔は見たことがない。いや、それより、彼女はなんと言った?


「悪役……令嬢……?」


「悪役の令嬢だから、悪役令嬢よ。そのまんまだけど分かりやすくていいでしょう?」


 よく分からなくてオウム返しをすると、ステラは木にもたれ、ため息を吐く。


「あなたみたいな人がヒロインになんて、なれるわけないじゃない」


 驚くレイチェルを鼻で笑うと、ステラは得意げに話し始める。


「ねえ、レイチェルさま。ロマンス小説とか読んだことある? ヒロインは、嫉妬で人をいじめたりしないの。それどころか、いじめられたって堪えて健気に頑張る。そんな、みんなが応援したくなる子なのよ」


 これではまるで、いつもと逆だ。ヒロインと悪役がまるまる入れ替わっている。

 目の前にいるのは誰だろう。一体なにが起きているのだろう。

 レイチェルが突然手にした立ち位置に戸惑っている間も、ステラは喋り続ける。不意に目が合った。


「あなたは悪役。何回死んでも一緒。だから私みたいなヒロインなんて、夢見るだけ無駄。そうでしょう?」


 ズガンと、頭を殴られたような衝撃で、レイチェルは黙り込んだ。

 そうだ。何度も思ったことだった。夢を見るだけ無駄なことだ。

 今さら配役が変わったって、もう物語は終わっているのだ。

 拳を握ると、それを見たステラは片眉を上げた。


「良い気分でしょうって言ったわね」


 そして愉快そうに笑って、つかつかと歩み寄ってくる。


「それはもう。とっても良い気分よ。レイチェルさま」


 堂々とした態度に背筋が震えた。レイチェルは後退っていく。ステラはそれを見るとわざと歩を緩め、レイチェルと合わせて近づいてくる。


「あなたのような高慢ちきで、周りの見えていない女を蹴落とすのは、楽しいわ」


 とうとう背中に木が当たった。咄嗟に踵を返して、逃げようとするが、その前にステラがその方向を手で塞いだ。

 逃げ場が無くなって、レイチェルは体を固くする。怯えるレイチェルの耳元に顔を寄せると、ステラは鈴を転がしたような声で笑った。


「この負け犬が」


(負け犬……)


 後ろ目にステラを見て、言葉を反芻して、レイチェルははっと我に返った。


「……正体を露したわね」


 少々驚いたが、レイチェルにとっては好都合だ。この女の悪事をバラせば、きっと全て手に入る。きっと失ったものの全てが返ってくる。

 だが、そんなレイチェルに、ステラは人好きのする笑顔を浮かべると、小首を傾げた。


「だからなに? 今さらあなたの言葉を誰が信じるって言うの?」


「え……」


「コーディさまに言う? 無駄よ。だって、あなたが全部はね除けたんだもの」


 くっとステラは喉で笑って、後ろからレイチェルの頬を撫でる。

 悔しいがその通りだった。今さらレイチェルの言うことなんて、誰が信じるだろう。


「ねえ、レイチェルさま。良いことを教えてあげる」


 最後にもう一度耳元で喋ると、彼女はやっと離れていった。

 レイチェルは少し緊張を解いたが、振り返ってぎょっとした。

 ステラがスカートをたくし上げ、太ももについているベルトからナイフを取り出していたからだ。


「この世界はね。ゲームなの」


「貴女、なにを……──!」


 まさか、切られるのだろうかと、再び身構える。しかし、ステラはそんなレイチェルをあざ笑い、自分の喉に向かってナイフを構えた。


「やめなさい!」


 彼女の考えていることが分かって、血の気が引く。制止しようと手を伸ばすが、ステラはすでに離れた位置にいて、躊躇いの無いその行動には間に合わなかった。

 ナイフが彼女の白い喉に勢い良く突き刺さる。肉を割く音が、人気のない森では、やけに鮮明に聞こえた。

 赤い血が飛び散り、レイチェルの頬にもかかって、喉から悲鳴が漏れる。

 どしゃりと崩れ落ちるステラに駆け寄ると、震える手で彼女の手からナイフを取り上げた。


「貴女いったい何してるのよ、しっかりしなさい!」


 そう声をかけるが、突然の出来事にどうしたらいいのか分からない。

 レイチェルは、ただ血まみれのステラの横で狼狽えるしかなかった。

 喉笛を切ったのだろうか。彼女が口を動かすが、ひゅーひゅーと息のする音が聞こえるだけだ。


「なによ」


 耳を近付けようと、顔を覗き込むと、ステラはカッと目を開いた。硬直するレイチェルに、ステラはにたりと笑う。

 この女はなにを考えているのだろう。わからない。どうしてこうなったのか。わからない。

 ついさっきまで悪役であったレイチェルには、彼女がこんなことをする理由も、なにも分からなかった。

 ただただ怖くて、恐ろしかった。唐突に目の当たりにした狂気に、レイチェルは喉を引き攣らせる。

 ステラが目を閉じる。その瞬間、彼女の唇が動いて、「ざまあみろ」と、そう言った気がした。



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