第2話

 子供の後ろ姿を見送ると、背後に恋人の気配を感じた。はっとして振り返り、がっかりする。いつものことだ。


 ひとり分のコーヒーを淹れ、書斎から本を持ち出すとリビングで読んだ。恋人はどこへ行くときも文庫本を持ち歩いた。暇つぶしだと言っていたが、恋人を形成した何かが書かれているはずだと片っ端から手を付けている。本の量は膨大で、彼の思考のかけらはまだ見付からない。


 インターホンが鳴り、不穏な空気を感じ取った。これはやっかいごとの前兆だ。来客自体がめずらしい上、愉快な人物がやってきた例しがない。本を伏せ、息を殺し、玄関を見た。


 沈黙の中、カチリと音がして、ドアノブが回った。ドアの隙間が二センチに達したところで内側から勢いよく押し開き、ガラスの花瓶を振りかぶった。慌てるでも反撃するでもなく、歯を見せてにっと笑う男が立っていた。


「いるなら早く開けてくれよ」

「不法侵入者のセリフじゃないわね」

「未遂だったろ。元気そうでよかった」


 一年ぶりに会うこの不審者はピッキングのプロだ。恋人の元相棒で、そのままキイと呼ばれている。彼が鍵を開け、恋人が中身を奪った。腐った大人から汚れた金を奪う謙虚なツーマンセルだった。余分には手を付けず、ホコリの位置まで原状復帰した部屋は家主に少しの違和感も与えない。ほとんどのターゲットは盗られたことさえ気付かないほどだった。


「何しに来たの」

「一周忌だろ。ひとりじゃ寂しいんじゃないかと思ってさ」

「ないわよ、仏壇なんて」

「気持ちの問題だよ。はい、香典。ご祝儀でもいいけど。渡してなかったから」


 軽い調子でそう言い、むき出しの札束をゴミのように押し付けると、靴を脱ぎ散らかして部屋に上がり込んだ。その無礼さは計算された振る舞いだ。キイは私の友人を演じようとしていた。


 私達はお互いに対して複雑な思いがある。恋人は、キイの目の前で撃たれたのだ。銃声が状況を伝えたが、キイは振り向かずに走った。

 一般市民の通報が幸いして恋人は病院に搬送されたが、私が駆けつけたときにはもう、話すことが出来なくなっていた。犯人は政治家に雇われた用心棒のヤクザだった。何かの力が働いたらしく、事件は週刊誌にすら載らなかった。


 逃げ果せたまま姿をくらましていたキイは火葬場に現れ、合掌もそこそこに私に土下座で謝った。キイは少しも悪くない。ドジ踏んだな、とでも笑い飛ばしてほしかった。


 当たりどころがなく、胸の中で渦巻いていた怒りと混乱が、無様に縮こまるキイに向かった。首の後ろを掴み立たせると、うなり声を上げる鉄扉に顔面を叩き付けた。その向こうで燃えていた恋人は、そんなことは少しも望まない。馬乗りで拳を振り上げると恋人の悲しげな顔が目に浮かび、「やめろ」と訴える声が聞こえた気がした。悲しかった。幻聴ですら、恋人は私を慰めなかった。


 罪悪感からキイはあくまで無抵抗をつらぬき、私は僧侶がお経を唱え続けるあいだ我を忘れて殴り続けた。

 幻聴でもいい。もう一度「愛してる」と言って欲しかった。それがあれば痛みに耐えられると思った。でも、どれだけ殴ってもだめだった。キイの顔はぐちゃぐちゃになっていくのに、恋人の声はもう、聞こえてこなかった。


 つるりとした床に散った赤と、そでに付着した喪服より黒い染みは今でも鮮明に思い出せる。一年前の話だ。


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