この女をひやっとさせたいものだ
仲瀬 充
この女をひやっとさせたいものだ
昔かたぎのオイラは若者と女性が嫌いだ。もちろん若者と女性のほうもオイラを相手にしていない。なんせ、定年退職後お情けで
「ご家老! それはまことにござりましょうや? 容易ならざる事態ですぞ」
こんな言葉の世界に浸って寝て出勤すると「課長! それマジっすか? ガチやばいっすよ」
やばいのはお前の頭だ、若手社員よ。女性は苦手を通りこして恐ろしい。女数人が立ち話をしているところにイケメンの男が通りかかる。女たちは雑談を続けながら目はそれぞれイケメンを追い続ける。そんな場面に出くわすたびにゾッとする。まるでハイエナの群れだ。もっともオイラが通りかかれば女性たちがゾッとするようだが。世界平和を願いながら破局に突入する、そんなふうな愚かさが男にはある。それに比べて女は自己中でありながら世界平和を達成するようなしたたかさがある。世界を会社や家庭に置きかえても同じだ。どうあがいても男は女に勝てない。だからオイラは独身を通した。君子危うきに近寄らずだ。
蝉の鳴き声で目が覚めた。アパートのすぐ裏は山肌が垂直に近い傾斜でむき出しに迫っている。その裏山で蝉が朝から鳴き始めた。集団でこんなにうるさく鳴くのは梅雨明けが近いのだろう。会社へはゆっくり歩いて30分弱だ。
「川島さん、おはようございます」
女の子がお茶をいれてくれた。久保
「お茶と一緒にどうぞ。会社に頂いた差し入れです。よろしかったらまだたんまりとありますよ」
「ありがとう」と礼は言ったものの言葉づかいが気になった。
「たんまり」はちょっと変だろう。
ある日、会社を出ると久保治子の後ろ姿が見えた。就活中の女学生のようなスーツを着ている。彼女はスーパーマーケットに入った。おっと、つられてふらふらとオイラも入ってしまった。夏風邪で頭がぼうっとしているせいか? 付かず離れずの距離で治子の買い物について回る。こりゃ完全にストーカーだ。治子は顔を近づけて食品の品定めをするとき手のひらを立てて口に当てる。年寄りめいたそのしぐさは亡くなったオイラの母を思い出させた。治子が買い物を終えてレジに並ぶ。よし、ストーカーはここまでだ。オイラは総菜コーナーに戻って幕の内弁当を手に取った。支払いをすませて店を出ると前方にまた治子の姿が見えた。同じ方角に住んでいるのか? ついて歩くと同じ方角どころかオイラが住むアパートに着いた。5部屋ある1階の一番奥で治子は足を止めた。彼女が部屋の鍵を開けたちょうどそのとき不覚にもオイラはくしゃみをしてしまった。
「あら!」
まずい! 万事休すだ。治子が小走りにやってきた。
「川島さんもここにお住まいなんですか?」
「うん、この部屋」
指を立てて2階の一番手前を指さした。
「くしゃみをしてらしたようですけど?」
「風邪をひいたみたいでね」
「すぐお宅に伺いますから待っててください」
治子は自分の部屋に行って着替えもせずに戻ってきた。脱いだ靴を玄関の隅っこにそろえて上がった。食材らしいものが入ったレジ袋を提げてご飯が入ったタッパーも持っている。オイラが独身だということを聞き知っているのだろう。
「日本酒ありますか?」
「そこ」
キッチンの隅に飲み残しの一升瓶がある。
「よかった」
治子はアルミ鍋に酒を入れて火にかけレジ袋から玉子を取り出した。若い女が玉子酒を作るところを見たのは初めてだ。
「風邪はひき始めが肝心です。まずこれを飲んでほんわかと温まって下さい」
玉子酒をちびちび飲んでいる間に治子は手早く玉子がゆを作り終えた。
「昨日の残りご飯ですけどふんわりとできました」
「ありがとう。それにしても君がここに住んでるとは知らなかった」
「3月末に入居したとき皆さんにご挨拶に伺おうと思ったんですけど不動産屋さんに必要ないって言われたんです」
このアパートはプレハブ住宅に毛が生えた程度のしろものだ。おまけに裏手は山の崖が迫っていて日当たりも悪い。賃料は安いがそれでも不人気で入居者の中には得体のしれない人間もいる。彼女に挨拶回りを勧めなかった不動産屋の判断は的確だ。
翌日の夕方、オイラは会社を出た治子に声をかけた。
「お蔭で汗をかいて寝たんで治ったよ。昨日のお礼をしたいんだけど」
歩きながら誘うと治子はこくりと頷いて付いてきた。
「ここでどう?」
和風の店で入口には「甘味処」と染め抜かれた暖簾が掛かっている。
「嬉しいです。私、流行りのタピオカとかナタデココはあんまり」
ビンゴ! やはり古風な女だ。もう一つ好みを当てて驚かせよう。治子は言葉づかいにおかしな
「好きなものを注文して。あんみつなんかどう?」
「あんみつはちょっと。ぜんざいを頂いてもいいですか?」
しまった! タピオカやナタデココ類が苦手だと聞いたばかりだった。オイラは気を取り直して話題を変えた。
「ぜんざいもそうだけど君は若いのに古風だね。きのうは玉子酒やおかゆを作ってくれたし靴もきちんと端っこにそろえてた」
「私、お婆ちゃん子で色々教えてもらいましたから。あ、でも履物を隅っこに置くのはただの癖です」
「癖?」
「両親が早くに亡くなってお婆ちゃんに育てられたんですけど、お婆ちゃんも私が小学6年の時に亡くなりました。それからは去年まで何人かの親戚の家にお世話になりました」
お世話になりましたと言いながら顔が曇ったところをみると厄介者扱いされて親戚間を転々としたのでは?
「親戚に引き取られてすぐ髪を切って短髪にしました」
「 ? 」
「お風呂に入る時間とお湯を節約しなきゃいけないと思って。じゃまにならないように靴を端っこに脱ぐのもそのころからの習慣です」
中学生の年齢でそこまで気をつかわねばならなかったとは。
「それじゃほかにも?」
「ご飯のおかわりも控えて醤油やソースもあまり使わないようにしてました」
オイラはなんだか泣きたくなってきたが治子は笑顔で言った。
「こちらのアパートに越してきた初日は部屋の中で何回もでんぐりがえりをしました」
「でんぐりがえり?」
「自分が働いたお金で住めるんだと思うと嬉しくって」
「近くにオシャレなマンションもいくつかあるのに」
「あそこお家賃が安くてありがたいです」
二十歳になったばかりなのに苦労してきた治子にはあんなボロアパートでも満足なのだろう。「ほんわか」とか「ふんわり」とかいう言葉はそのまま治子自身の生きざまなのだ。ほんわか、ふんわりと生きなければ親戚間でたらい回しにされるうちに心が角張ってしまっただろう。
蒸し暑い雨の日が続く。梅雨明け直前は豪雨が心配だ。地盤が緩んで裏の崖が崩れなければいいが。そんな心配をしていた日曜日の夕方に治子がドアをノックした。このアパートにはインターホンもついていない。
「夕ご飯、多めにできちゃったんでよかったら食べにいらっしゃいませんか?」
雨の日の外食はおっくうなので渡りに船だ。サンダルをつっかけて治子について行った。独身女性の部屋に入るのは初めてだ。年がいもなく興奮したが足を踏み入れて拍子抜けした。がらんとしていてカーテンの色合いも地味だ。若い女の子の部屋という感じがまるでない。部屋を見回しているとキッチンの治子が振り向いて言った。
「殺風景でしょう? 私、必要なもの以外は置きたくないんです」
質素倹約、そんな4字熟語が思い浮かぶ。
「さあどうぞ。てんぷらとひんや麦だけですけど」
「ひんや麦?」
「間違いました、ひや麦です」
ぺろりと舌を出したが治子らしい間違いだ。「ひんや麦」は、たんまり、ほんわか、ふんわり、ぜんざいの延長線上にある。
「ひや麦とは珍しいね、昔はよく食べたもんだけど」
「そうめんより太いので食べごたえがあって好きなんです」
質実剛健、そんな4字熟語が思い浮かぶ。
「うまい。夏はこんなひんやりしたものが食が進むね」
ひんやり……治子の癖がうつってしまった。
「ひんやりで思い出しました」
治子が箸を休めて深刻な顔つきになった。
「私、おとといひんやりしました」
「ん? 何の話?」
会社の軽自動車で外回りをしている途中でコンビニに立ち寄ったときのことだと言う。
「駐車しようとしてバックしてたらブレーキを踏んだのに止まらないんです。お店に突っ込んでしまうと思ってひんやりしました」
待て待て、その話、突っ込みどころが二つあるぞ。
「ブレーキを踏んで止まらなかった?」
治子はにこりと笑った。
「目の錯覚でした。私の車が停止したら隣に停まっていた車が動き出したんです」
「ああ、電車が駅に停まっているときによくあるね。動き出したのは隣の線の電車なのに自分の乗ってる電車が発車したような感じ」
もう一つの突っ込みどころは胸の中で叫ぶにとどめよう。「ひんやり」じゃなく「ひやりとした」または「ひやっとした」だろう! 苦労して育ったせいか治子は年齢よりも大人びていて物に動じない。それはそれで立派だが若い女性としては可愛げがなく物足りない。
「ひやっとしちゃいました!」
気が動転してそんなセリフを吐く治子をみてみたいものだ。
数日後の仕事帰りに行きつけの居酒屋に寄った。
「おう、川島」
カウンター席から声をかけてきたのは高校の同級生の佐伯だった。招かれるままに隣りに座って生ビールとお任せのつまみを注文する。
「久しぶりだな、佐伯もこの店に来るとは知らなかった」
「たまたまだ。そこの警察署にひまつぶしに寄った帰りだよ」
そこの警察署とはつい最近定年を迎えた佐伯の最後の職場だ。
「仕事の邪魔になるだろう。あんまり先輩風を吹かすと嫌われるぞ」
「それが今日はかつての部下に相談を受けたんだ。川島、何かいい話のネタがないか?」
「何だ何だ、藪から棒に」
「免許更新時の後期高齢者向けの講習だよ。俺はリタイアしたといっても60を過ぎたばかりだ、どんな話がいいかアドバイスしようがない」
ふと先日の治子の話が頭に浮かんだ。
「年寄りじゃなくてうちの若い女の子の体験なんだけどな……」
話を聞き終えた佐伯は手を差し出して握手を求めてきた。
「いい話を聞かせてもらった! 盲点だった」
え? ありがたがるほどのことか?
「今の話で駐車場で事故が多発する謎が解けた。ブレーキとアクセルを踏み間違えたと老人が言うのをずっとおかしいと思ってたんだ」
「おかしいって、それしか考えられないじゃないか」
「自分の身に置きかえてみろ。駐車場でバックする、このとき軽く踏んでいるアクセルを多少ボケているとしてもブレーキだと思って踏みこむか? しかも力いっぱい」
「そう言えばそうだな」
「だろ? バックの終わりかけにアクセルから足をブレーキに移す、皆そうするはずだ。ところがそのときお前が話した錯覚が起こればどうなる?」
「そうか、ブレーキを踏んだのにまだバックし続けていると錯覚すれば踏んでいるブレーキペダルをアクセルだと思ってしまうな。それで慌ててペダルを踏みかえるわけか」
「そうだ。もっと掘り下げれば隣の運転手の親切心がその事故を誘発するんだ」
「それはどういう意味だ?」
「これも自分に置きかえてみろ。駐車場を自分が出ようとした時、隣りの空きスペースにバックで車が入ってきたらどうする?」
「接触事故を避けるためにその車が停車してから出るよ」
「その親切があだになるんだ。バックで入ってきた車にしてみれば自分の車が止まると同時に横の車がスーッと発進する流れになる。その切れ目のない連動によって停車し終えたのにまだバックを続けている錯覚に陥るんだ」
後日、佐伯から誘いがあり前回の居酒屋で再会した。
「これを受け取ってくれ、この間の話のお礼だ」
佐伯はデパートの商品券を差し出した。
「お前の話を教えてやったら後輩が講習会で老人相手に話したんだ。すると身に覚えがあるという感じで何人も頷いたそうだ。それを上司に報告したら全署の講習会の話題にすることになって喜んでいる。この商品券はその後輩からだ。遠慮なくもらっとけ」
「話のネタにするのはいいが錯覚を防ぐ方法については講習会でどう話したんだ?」
「そこまでは知らん」
商品券は3千円分あった。佐伯と別れたオイラはさっそくデパートに行った。和菓子売り場を見て回るといいものを見つけた。翌日会社で紙製の手提げ袋を治子に渡し、商品券をもらったいきさつも手短に話した。
「だから商品券は君に還元しなくちゃと思ってね」
治子は手提げ袋から和菓子の箱を重そうに取り出した。
「いいんですか? こんなにたんまり」
遠慮がちに包装紙を開けると治子の顔が輝いた。
「きんつばですね、大好きです!」
7月の下旬に入った。梅雨の末期の激しい雨が連日降り続いている。仕事が終わって会社の窓から暗い空を見上げた。今日の降りは特にひどくとても歩いて帰る気になれない。タクシーで帰宅し夕食もありあわせの物ですませた。夜に入ると雨脚は一段と激しくなった。バケツをひっくり返したようなという形容はこんな雨を言うのだろう。洪水警報が発令されたエリアとしてこの近辺の地域名もテレビのテロップで流れている。缶ビールを2本飲んでベッドに入ったが寝付けない。叩きつけるような雨の音が不気味なほど大きい。トイレに立つとキッチンの窓が半分開いていて外の裏山の山肌が見えている。どうりでうるさいはずだ。閉めようとして窓に手をかけると変な匂いが流れこんできた。慌てて玄関を出て1階に降り、治子の部屋まで行ってドアを叩いた。ドアが細めに開いて治子が眠そうな顔を見せた。
「寝てた? ごめん。これから僕の部屋に来ないか。この雨じゃ裏山の崖が危ない。崩れたら1階は確実に土砂に埋まってしまう」
危機を告げるオイラも鬼気迫る顔をしていたのだろう、治子は眠そうだった目をぱちくりさせるとパジャマ姿のままついてきた。リビングの長ソファーに治子を座らせて掛け布団がわりにタオルケットを渡した。不安にならないよう天井の明かりは常夜灯を点けておこう。オイラが寝る寝室とリビングとの間のふすまも開けておくことにした。雷鳴や雨音はいよいよ激しくなり治子は完全に目が冴えたようで横になろうとしない。オイラだけ寝るのも気が引けるので寝室のベッドから治子に声をかけた。
「さっきキッチンの窓から裏山の匂いが流れこんできたんだ。青臭いような変な匂いが」
「青臭い匂い、ですか?」
「大規模な土砂崩れの直前に土の匂いがするっていうのは知ってたんだけど、最近テレビの情報番組で聞いたんだ。その匂いは普通の土の匂いじゃなくて生臭いって。それを思い出して君を呼びに行ったんだ」
「そうだったんですか、ありがとうござ……」
治子の声はすさまじい地鳴りの音にかき消された。部屋全体が振動し電気が消えた。ベッドに腰かけていたオイラに治子が飛びつくように駆け寄ってきてすがった。震える治子の肩を抱きながら暗闇の中で神経を研ぎすました。地震か? 今の轟音と振動は何だ? 揺れはすぐにおさまったので玄関のドアを開けて治子と一緒に外の通路に出た。他の住人も出てきて口々に大声であれこれと言い合っている。誰かが懐中電灯で外を照らした。照らし出された光景を見た全員が息をのんで無口になった。アパートに並行する山の急斜面が大規模な崩落を起こしていた。アパートのすぐ横の駐車場から20メートルほど先まで土砂崩れが続いている。言い方を変えれば土砂崩れはアパート横の駐車場で止まったのだ。恐れていたアパート真裏の崖の崩落は免れたが危ないところだった。駐車場の車はみな土砂に飲みこまれ、その向こうの数軒の民家も1階部分に土砂がなだれ込んでいる。前もって2階に移動していなければ命はあるまい。治子が不意に両手でオイラの左腕にすがってきた。目の前の惨状を見て先ほどの崩落時の恐怖がよみがえったのだろう。
「危ないところだったね」
すがる治子の両腕はずっと小刻みに震えている。
「ええ、ひやっとしました」
え? ひやっとした? オイラは左手は治子に預けたまま右手で小さくガッツポーズをした。
この女をひやっとさせたいものだ 仲瀬 充 @imutake73
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