第30話   声の海 

『老人は暖かな海中を本物の魚のように泳ぐ。すべては両足に装着したフィンのお陰だ。あのレオナルド・ダ・ヴィンチの絵にアイディアが描かれていたというフィンをつければ、人間も魚のように海の中を泳ぐことができる。老人は泳ぎながら周囲を見渡した。

 様々な魚の群れが老人の横を通り過ぎ、黒っぽい砂地の水底に幾つもの海藻がへばりついている。ふと気づけば巨大なエイが頭上を過ぎ去る姿が見えた。そんな海の神秘を肌で感じつつ老人は泳ぎ続けた。泳いで泳いで泳ぎ続け、やがて自分の身体が水に溶けていくような錯覚に見舞われたときだ。老人は身体の向きを変えて珊瑚が目立つ海面から水面を見上げた。無数の気泡が白くぼやけた太陽目掛けて昇っていく。あの白い太陽が見えている限り大した危険はない。

 しかし、今日の老人は危険を承知で海に潜ったのだ。老人は静かに両目を閉じ、愛する妻や友人たちに心から謝罪した。おろかな自分を許してほしい、と。そうして最後の一人に別れを告げると、老人は再び身体の向きを変えて泳ぎ始めた。まるで好物の餌を発見したシャチのような凄まじいスピードで』


 夜一の朗読は不思議と君夜に鮮明な光景を見せた。


 老人が愛する者たちに今生の別れを告げたと同時に、太陽の光が届かない場所へ向かう光景がである。


『どれほどの時間が経っただろう。衰えた肉体に鞭を打って泳いでいた老人の横を一匹の魚が通り過ぎた。口先が鋭く尖り、細長い円筒形の身体。全長百六十センチを超える大きさのバラクーダである。他にも四肢で水を掻き分けて進む海ガメの姿も目視できた。ここだ。ここに間違いない。水温も先ほどから冷えたり暖かくなったりと変化が激しい。だからこそ老人は確信した。この先に必ず自分が目指す場所――ブルーホールがあると』


(これは何? 私は一体何を見ているの?)


 君夜は目蓋を閉じたまま激しく狼狽した。


 暗闇しか見えないはずの視界に群青色の海が広がっていたからだ。


 フィンを自在に操って海中を泳ぐ老人の姿や、老人が口に咥えていたスノーケルから吐き出された無数の気泡が風に乗って空中に舞う蛍の群れに見えた。


 それだけではない。


 君夜は老人の見ている光景を共感していた。


 バラクーダや海ガメが老人と自分の横を通り過ぎていく。


『ブルーホールとはたとえるなら海中のブラックホールだ。地質学的にも完全な解明が成されていない海の神秘。一説には人類が誕生したという約百七十万年前から約一万年の間を指す更新世に形成された鍾乳石や鍾乳洞が関係しているという。だが今の老人にとってブルーホールの誕生秘話など外国の天気に等しかった。

 要はブルーホールが存在していれば構わない。老人は期待と不安に胸を躍らせながら徐々に激しくなって来た潮流に逆らって泳ぎ続ける。

 そして老人は水中眼鏡越しにはっきりと見た。今まで誰も底を確かめた者のいないブルーホールが生む渦潮の姿を』


(駄目! そこへ行ったら帰れなくなる!)


 老人とシンクロしていた君夜は、ブルーホールに向かって猛泳する老人を止めようと必死に耳元で呼びかける。


 あそこは危険だ。


 今なら間に合う。


 一刻も早く引き返して、と。


『老人はブルーホールを前にして死を覚悟した。これまで何人もの優秀なダイバーを溺死させたブルーホールである。心身ともに衰えた自分が潜れば確実に生還できない。それでも今の老人に恐怖は無かった。なぜなら、老人の隣には一匹のイルカがいたからだ。一定の距離を保ったままイルカは老人に従うように泳いでいる』


 すると老人は君夜に顔を向けて口を半月状に歪めた。


 心配してくれてありがとう。


 でも、私はあそこに行くために海へ潜った。


 だから行かせてほしい、と。


 老人は言葉ではなく目で訴えてきた。


 自分と一緒に泳いでいる君夜に向かって。


『老人はイルカに顔を向けて口ではなく心で語りかけた。ありがとう。私のことを心配してくれたのかい? でも私はブルーホールの底を確かめるために海へ潜ったんだ。君は私のことなど放って家族の元へ帰りなさい。老人はイルカの心配を他所にブルーホールの入り口へ辿り着いた。周囲は微生物の死骸が腐敗したことで水温が上昇していた。摂氏三十度ぐらいか。いよいよ死を引き換えにしたダイブの始まりだ。老人は咥えていたスノーケルを外し、残された体力を使い切るつもりで縦一直線に潜っていく』


 君夜の忠告を無視して老人はブルーホールの深奥目指して潜る。


 海中で息を続けるために必要なスノーケルを口元から離して。


『十メートル……二十メートル……三十メートル……十メートル潜るごとに老人は両肩に海全体の重さを感じた。スノーケルを捨てたので息が苦しい。さりとて素潜りにスノーケルは邪魔以外の何物でもなかった。だから老人は自分に鼓舞し続けた。ノーシンキン、ノーシンキン。息苦しいと考えるな。呼吸したいと考えるな。生きて帰りたいと考えるな。ただブルーホールの底にあるという伝説を求めて潜ればいい』


(苦しい……青い……怖い……)


 君夜は老人の後に続いた。


 もう自分の意志かそうでないかの区別はない。


 上も下も右も左も分からなくなる青色の深海に潜る。


 太陽の日差しなど微塵も届かない青色の深海に潜る。


 巨大な怪物の口内に入り込んだような奇妙な感覚に囚われていた深海に潜る。


 水圧によって全身の皮膚が垂れ下がり、酸素の急速な同化作用を促す青色の深海に潜る。


 老人は人間を死に誘う青色の深海に潜り続けた。


『誰も到達したことのないブルーホールの底を目指して、老人は両足に装着していたフィンで水を蹴る。しかし、ここで予想外の事態に老人は陥った。ついに体力が限界に達したのだ。無理もない。海辺からブルーホールまで二キロ近くを懸命に泳ぎ、そこからさらにスノーケルを外して潜水したのである。

 常識から考えて齢六十を超える老人の身体が無事でいられるはずがなかった。現に老人は手足に痺れを感じていた。潜水を続けることで起こる知覚障害だ。さらに潜り続ければ肺破裂を引き起こす肺圧症になり、最悪の場合はマティーニを一杯飲むような催眠作用――窒素酔いに襲われる。そうなれば老人の身体は海の藻屑と消えるだろう』


 それでも、と夜一は感情を込めて朗読した。


『老人が潜水を続けられたのは、先ほど別れを告げたはずの一匹のイルカが傍にいたからだ。イルカは老人が何をしたいのか分かったのだろう。自分の背びれを老人に掴ませ、イルカはブルーホールの底に邁進していく。脇目も振らずブルーホールの底に向かって』


 いつしか君夜は完全に夜一の朗読に心を支配されていた。


 君夜が感情移入したのは老人ではなく一匹のイルカだ。


 雄か雌かも分からない一匹のイルカ。


『やがて老人は大きく目を瞠った。青から黒に変わった深海の底には宝石を散りばめたような星空が広がっていた。本物の夜空に浮かぶ星空よりも美しい群れ星の瞬き。老人は息苦しさを忘れて身震いした。

 母なる海が自分を息子だと受け入れてくれたからだ。老人は最後の力を振り絞ってイルカの背びれを力強く掴む。名も知らぬイルカよ。君にも感謝している。君のお陰で自分はここへ来ることができた。ありがとう。海の神が遣わせてくれたイルカよ。さあ、自分を主人の元へ届けて送れ。海神であるポセイドンの元へ』


(違う。ブルーホールの底にあるのは神の住まいじゃない。底にはあるのは――)


 Prrrrr…………。


 君夜はかっと目を見開き、空想世界から現実世界に帰還を果たした。


 ミキサー卓の上に置いていた小型時計のアラーム音が鳴っていた。


 秋彦が十分間に設定していた小型時計のアラーム音がである。


「嘘でしょう……本当にアドリブで乗り切ったの……たった一人で十分間も」


 額から大量の脂汗を流していた君夜に構わず、小型時計のアラームを切った秋彦がスタジオブースの中にいる夜一に言い放った。


「OK。夜一、十分間よく頑張ったな。そろそろ締めていいぞ」


『やがて老人はイルカとともに暗く深い海の底へ消えていった。ポセイドンが住んでいるという伝説のブルーホールの底へと……以上。これにて朝霧夜一のアドリブ朗読――声の海を終わります。最後までお聞きくださり本当にありがとうございました』


 一人で十分間もアドリブをこなしたので精も根も尽き果てたのだろう。


 夜一はエクトプラズムでも吐き出しかねないほど大きく息を漏らす。


「声優の……凄さ……か」


 しかし、精も根も尽き果てたのは夜一だけではない。


 自分が朗読に登場する一人になったと錯覚するほど感情移入していた君夜も同様だった。


 君夜は身体の力を抜いて長机の上に顔を預ける。


 左頬から伝わってくる長机の感触は熱を吸い取ってくれるほど冷たく気持ちよかった。

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