第28話   10分間のアドリブ

 再びスピーカーから拍手喝采のSEが流れる。


(何の冗談だよ。俺のアドリブコーナー? 時間は十分?)


 夜一は何度も自分の台本を確認した。


 けれども台本には『声優志望の朝霧夜一がお届けする十分間アドリブ頑張って』などという単語は一字たりとも存在しない。


 次は間違いなくフリーコーナーのはずである。


「おおっとパーソナリティの夜一君が慌てております。無理もありません。このコーナーは声優を目指している朝霧夜一君が本当に声優になれるのか、プロ声優である上里円清さんの前でアドリブ力を披露してもらうドッキリコーナーです。実際に慌ててもらわなければ企画したプロデューサーの面目が立ちません」


(プロデューサーだって?)


 夜一は表情を曇らせながらブースの外に目線を投げた。


 ミキサー卓の前で陣取っていたディレクイターの秋彦にではない。


 秋彦の後方で緩く両腕を組んでいたプロデューサーの君夜に対してだ。


 君夜は酷薄した笑みを浮かばせていた。


 爪先から頭上まで数百万匹の蟻が這い上がってくるような不気味さが夜一を襲い始める。


(あの女……何の目的でこんなことを)


 瞬きする間のわずかな時間に夜一は必死に思考を働かせた。


 奈津美が居丈高にコーナー名を告げたということは、奈津美の台本に『声優志望の朝霧夜一がお届けする十分間アドリブ頑張って』に関する事柄が書かれているのだろう。


 しかし、夜一の台本には書かれていない。


 ドッキリコーナーと視聴者には伝えておいて、実は台本通りという構成ではなかった。


 本来ならば君夜に対して罵詈雑言を浴びせたかったものの、本番収録の真っ最中である今にそのような行動は取れない。


 この番組は生放送番組と同じ一発録りなのだ。


 エンディング間近になって番組を潰すなど言語道断だった。


 けれども考えずにはいられない。


 なぜ君夜はこんな番組を潰しかねない企画を秘密裏に進めたのだろう。


 秋彦たちも秋彦たちだ。誰も止めようとは思わなかったのだろうか。


(待てよ……)


 不意に夜一は二日前の記憶を蘇らせた。


 視界全体が一瞬で九頭竜邸の離れに変わり、蟲惑的な私服姿の君夜が桃色の唇を動かす光景が飛び込んで来る。


 ――あなたに声優の凄さを見せてもらうのは後日改めてということで


(ふざけるな! いきなり十分間の尺を持たせろなんて無理に決まってんだろ!)


 確かに二日前、君夜に声優の凄さを見せると約束した。


 それは生まれて初めてヤクザに拉致された恐怖以上によく覚えている。


 だが、こんな大事な番組収録時に見せろとは君夜の脳みその構造を疑ってしまう。


「パーソナリティに対するドッキリ企画か……私も新人の頃に受けた覚えがあるな。そのときは別の声優さんが司会をしていたラジオ番組だったんだけど、ゲストで行ったはずなのにディレクターから「君、今日はパーソナリティだから」と頼まれたときは帰りたくなったよ。後から聞いたらドッキリを思いついたのは昨日だったって告白されたしね」


 仲睦ましく喋る二人の会話を聞きつつ、夜一は側頭部に走る鈍い痛みを強烈な意志の力で抑えつつ下唇を噛み締めた。


(まさか、あの女は最初から番組をぶち壊すつもりだったのか)


 そうとしか考えられなかった。


 卒業後も秋彦たちと一緒に過ごしたいと臆面もなく言っていた君夜ならばありうる。


 君夜がエンディング前のフリーコーナーをドッキリコーナーに変更したのも録り直しが利かない状況を考えた末に出た結論だったのだろう。


 一方、奈津美と円清は夜一に構わず順調に会話を弾ませていく。


「へえ、それは奇遇ですね。実はうちらが夜一君を騙すドッキリを企画したのも何と昨日なんですよ。昨日、夜一君が部室からいなくなったときに君夜ちゃ……うちのプロデューサーから提案があったんです。せっかくプロの声優さんをゲストに招くんだったら、声優志望の夜一君の実力を本番中に試さないかって。最初はうちらも反対したんですよ。でも、プロデューサーに聞いたら夜一君なら十分間ぐらい大丈夫だって太鼓判を押されてもうて」


(部室からいなくなった……あのときか!)


 昨日、夜一が部室からいなくなったのは一度きり。


 朝霧夜一宛てに電話がかかり、職員室へ呼び出されたときに退室した一度だけだ。


 やられた、と夜一が眉をきつく結んだとき、ずっと頭の片隅に残っていた疑問という名前の霧が綺麗に晴れていく。


 おかしいとは思っていた。


 普通に考えてあじさい幼稚園から学校へ電話がかかってくることなど無い。


 仮に叔母の宏美がかけてきたとしても学校よりも携帯電話にかけてくる。


 ならばあじさい幼稚園から学校にかかってきた電話自体が真っ赤な嘘だったのだ。


 強面のヤクザたちを自由に操る権限を持っていた君夜である。


 ヤクザたちを使って事前に身辺調査を行うことなど朝飯前だろう。


 そうして自分があじさい幼稚園と強く関連していると突き止めると、誰かにあじさい幼稚園の名前を騙って学校へ電話をかけさせた。


 一時的に夜一を部室から出て行かせ、今回のドッキリ企画を皆に提案するために。


「それじゃあ時間も押しとることやし、ボチボチ最後のコーナー行ってみましょうか。最後のコーナーはフリートークのコーナー改め『声優志望の朝霧夜一がお届けする十分間アドリブ頑張って』ドッキリコーナーです」


 本気でやばい。


 今は君夜を弾糾するよりもコーナーを乗り越えることのほうが先決だ。


 そうしないと円清の拘束時間が解かれて番組自体が成立しなくなってしまう。


 それに〈オフィス・リング〉には円清のゲスト出演が冗談ではないことを証明するため、すでに円清のギャラは全額振り込んだと聞いている。


 完全に後には引けない状況である。


 だが、夜一に与えられた時間は一人でアドリブをこなすには長すぎる時間だった。


(ちょっと待てよ。アレなら行けるんじゃないか)


 一瞬、夜一は外郎売りなら時間を稼げるのではないかと心中で呟く。


(駄目だ。どんなにゆっくり喋っても外郎売りじゃ十分も持たない)


 声優やアナウンサーの卵が滑舌、聴覚、発声を磨くために行う練習法の一つ――外郎売り。


 江戸時代に生まれた市川団十郎の二代目が舞台で上演し、それから巧みな弁舌が話題となって歌舞伎の十八番になった有名な演目である。


 夜一も実際の外郎売りに扮してあじさい幼稚園で行っていたものの、仮に外郎売りを一語一語読み取れるような速度で口上したとしても五分が限度だった。


(ここは駄目元で収録を一旦止めてもらおうか)


 などと夜一が絶体絶命のピンチを全身で味わったときだ。


 まるで夜一の心情を理解したかのように助け船を出してくれた人間がいた。


「一人で十分間のアドリブか。考えただけでも胃が痛くなる。それでも十分の時間を稼がなければならない状況になったら……私ならば朗読だな」


 夜一は顔を上げて斜向かいに座っていた円清を見た。


「朗読だったらそれなりに時間を稼げる。しかし、声優を目指している人間だったら棒読みはいただけない。それなりの技を見せてくれなくてはな」


「でも本が無いと朗読なんてできませんよ?」


 奈津美の質問に円清は一拍の間を置いて答える。


「確かに本や詩を声に出して読むことを朗読と言うね。でも、口から声を出せるのならすべてのことが朗読になるとは思わないかな? たとえば心に浮かんだ文章とか」

 円清は夜一に真剣な眼差しを向けた。


「愛読書を自分なりにアレンジして朗読するとかね」


 その言葉がキッカケとなった。暗雲が垂れ込めていた夜一の心に一条の光が差す。


「どうかな? 朝霧君。そろそろ準備が整ったかい?」


「はい。自分なりに精一杯やってみます!」


「おお~、夜一君が突如としてやる気を見せてくれました。これは期待大かもしれません。それではラジオ放送部ホープの朝霧夜一君による『声優志望の朝霧夜一がお届けする十分間アドリブ頑張って』コーナーです。張り切ってどうぞ!」


「待った。その前にお願いがある。ディレクターさん。BGMを流してくれませんか?」


『BGM?』


「前に流してくれた曲ですよ。南国の海辺を思い浮かべるような曲」


『ああ、武琉が勝手に入れた曲か。いいけど……すぐに流すか?』


「お願いします」


 もう後戻りはできない。


 夜一は大きく深呼吸して肺に新鮮な空気を循環させると、カメラに向かってにこやかな笑みを浮かべた。


 するとスピーカーからは風紋が浮かんでいる海辺に寄せては返す小波を想起させるような曲が流れる。


「どうも朝霧夜一です。なにぶん若輩の身なので至らぬ点やお聞き苦しい場所があるかもしれませんが、どうか最後まで聞いてください」


 夜一は一か八か脳内で勢いよく賽を投げ放った。


「朝霧夜一のアドリブ朗読――声の海」

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