(2)

「予想が外れたわね」

 何とはなしに呟くと、近くにいた琥珀が不思議そうな顔になった。切ってきてもらった人参を受け取りつつ、マロンの口へと持っていく。ぼりぼりと良い音を立てながら人参を頬張っているマロンの顔を撫で、口を開いた。

「陛下が必死に手を尽くされているから、珊瑚妃は直に良くなるだろうって蒼玉様とも話をしていたの。でも、それから二週間以上経っても珊瑚様の容態は変わらない。その関係で蒼玉様を始めとした官吏達は普段以上の仕事に追われているし、怒った皇帝が宮廷医を全員入れ替えたなんて噂まであるし」

「医者を入れ替えたのは事実みたいです。揃いも揃って何事か、無能は要らんとまでおっしゃって、切り捨てかねない様子だったそうで」

「自分だって仕事を放り出してるくせに、どの口がそれを言うのかしらね……確かに、ここまでやって全く改善の予兆がないというのは心配ではあるけど」

 お義母さまの一件から宮廷医達とは話すようになったので、様子は気に掛けていた。だから、彼らが寝る間も惜しんで珊瑚様を一生懸命治療していたのは知っている。以前お義母さまを診て下さった先生も、あらゆる文献を調べて薬湯を変えたり食事を調整したりと奮闘して下さっていた。継続診療するからこそ判明する事実もあるとは思うので、せめて人員追加の方が良かった気はするが。

「……心配と言えば、紅玉様も心配なんです」

「紅玉様も?」

「はい。最近、めっきり厩舎に現れなくて……最初は忙しいのだろうなって思っていたんですけど、あの方、そういう時こそいきなり現れていきなり乗っていきなり帰っていくような方なので」

「琥珀達からしてみれば、それってかなり迷惑じゃない?」

「それでも、何も無いよりは良いです。馬達もどことなく寂しそうで可哀想ですし……ここの仔達は皆紅玉様に懐いているので」

 自馬を持たない紅玉様は、ここの馬達に満遍なく乗っているらしい。そのため個々の性格や癖も把握しているそうで、それに合わせて皆を可愛がる紅玉様は厩舎の馬達のスターなのだそうだ。誑しているのはマロンだけではなかったらしい。これもある種の才能なのだろうか。

「この前外乗した時も、ちょっと様子が気になったのよね。どんなにマロンが催促しても撫でてあげてくれなかったし、笑顔も無かったし。馬には優しい方なのに」

「案外人間にも優しいですよ……まぁ、それは別に良いんですけど、厩舎に顔を出さない期間がここまで長い事も今まで無かったので、そういう意味でも心配ではあるんです。とは言え、厩務員の身で皇子宮にはいけないですし」

「蒼玉様にお伝えしてみるわ。黄玉様や黒玉様も心配だし」

 あの黒玉様も最近はめっきり大人しいと聞くし、唯一の皇女である黄玉様も病床の母を心配しているらしいという噂を聞く。私にとっても二人は弟妹なので勿論気に掛けてはいるのだ……一応、紅玉様も義弟ではある。向こうの方が一つ上だけど。

「ありがとうございます。感謝致します」

「琥珀にはいつもマロンがお世話になっているもの。いつ見ても毛づやが良いし、目も輝いているし歩様も良い。丁寧に手入れされているのが良く分かるわ」

「そうおっしゃって頂けるのは厩務員冥利に尽きます。これからも、精一杯務めさせて頂きますね」

「宜しくね」

 伝えた後で、琥珀へと微笑みかける。琥珀は、漸く少しだけ笑ってくれた。


  ***


「そうか。公務はこなしていたが……実母があの状況じゃ無理もない話だな」

 早速お伺いしたい旨を伝えようとしたら向こうから呼び出しが掛かったので、月餅とお茶を携えて彼の部屋にやって来た。蒼玉様は、目の下にうっすら隈を作ってはいるが、ひとまずは元気そうである。

「紅玉様は公務をきちんとされているのね」

「何だかんだ生真面目な奴だからな。態度は相変わらずだが」

「やるべき事をちゃんとやってるなら許されるでしょ。その辺は父親に似なくて良かったわね」

「教育係が良かったんだろう。子供の教育に関しては、たとえ父上相手でも珊瑚妃は引かなかったからな」

「なるほど。私がシトリンのお陰で理不尽我儘令嬢にならなかったのと同じね」

「ああ……前にちらっと言っていたな。自分が異母姉兄を見下すような傲慢令嬢に育たなかったのは、彼女の賜物だと」

 その言葉に嬉しくなる。何かの雑談のついでに話しただけだったのだが、覚えていて下さったのか。

「私がお父さまに感謝しているのは、教育係をシトリンにしてくれた事だけだもの。お父さまがいなければ私が産まれてなかったのは間違いないけど、実際に産んで下さったのはお母さまの方だし」

「それを言われると、男親は肩身が狭いな。将来、俺も気を付けるとしよう」

「蒼玉様は大丈夫でしょう。私のお父さまは、私を可愛いと言って溺愛するくせに、私の幸せを斜め上に勘違いして勝手な事をしようとする人だったもの」

「……どこかの父親の話を聞いているようだな。最も、その父親が溺愛しているのは娘ではなくて妻の側妃の方だが」

「紅玉様や黄玉様、黒玉様の事は可愛がってらっしゃらなかった?」

「違いないが、やはり珊瑚妃の方に比重が寄っているな。三人の事も、珊瑚妃が産んだ子供だから可愛がっているという感じだ」

「それで、黒玉様はお義母さまや蒼玉様にも懐いてらっしゃるのかしら。子供って案外聡いから、本気で自分を心配してくれているのか、本気で自分を思ってくれているのか結構分かっている印象があるわ」

「そうだろうな。特に、黒玉は他者の心の機微に聡いところがあるから」

 呟いた蒼玉様が、机の上の月餅に手を伸ばした。今日は小豆と胡桃かと聞かれたので是と答える。いつも具沢山だから、今回は敢えてシンプルにしてみたのだ。無事に美味しいの一言を頂けたので、ほっと胸を撫で下ろす。

「自分の母親が病床に伏せると言うのがどれほど辛い事かは、俺も身に染みている。俺は一人息子だから自分の事だけで良いが、紅玉は同母の弟妹がいるからそちらにも気を配らないといけないし、猶更大変だろう」

「……そうね」

 正直、私は自分のお母さまが倒れたと言われても、ここまで心配するだろうかという気持ちである。大事には思っているし感謝もしているが、お母さまはお母さまでお父さまの方ばかりに目を向けていて、自分の置かれた境遇に嘆いてばかりで、共感は出来かねたから。血の繋がった家族の中で私個人をしっかり見て下さっていたのは、気に掛けて下さっていたのは、やっぱりお姉さまとお兄さまだけだ。だから、きっと私は、二人に何かあった時に同じ気持ちになるのだろう。

「……父上も楊家当主も、当面珊瑚妃に掛かりきりだろう。今なら、私用でも紅玉を呼び出して話が出来るかもしれない。君の都合にも合わせるから、どうか協力してもらえないだろうか」

「私も? 何で?」

 彼の力になれるならば、出来る事は勿論協力する所存だが。紅玉様と話をするだけならば、蒼玉様だけでも良い気がする。

「馬達や厩務員の皆には申し訳ないが、紅玉を呼び出して話をするなら厩舎が良いと思うんだ。それに、君がいてくれれば万が一楊家の人間に見つかったとしても……いつも通り馬の話をしていたと言って押し切れるだろう。加えて、俺と一対一では紅玉が素直に色々話してくれるとも思えないし」

「そんな事は無いと思うけど……でも、対策しておくに越した事はないもんね。良いわ、勿論協力する」

「ありがとう、マリガーネット」

 蒼玉様はそうおっしゃって、お茶をごくりと飲み干した。月餅をもう一つ食べても良いかと聞かれたので、大丈夫と伝えて一つ手渡す。

「……以前、一段落したら避暑に行こうかと君が言っていただろう」

「そうだったわね。せっかく別荘を整えてもらったんだもの、広い草原もあると聞いているし、マロンも連れて行きたいわね」

「楽しみがないと頑張り続けるのもしんどいからな。それを目標に、頑張ろうか」

「良いの?」

「ああ。自分の領地なんだし、視察も兼ねてと言えば大丈夫だろう」

「分かった! 楽しみにしてるわね!」

 緩む頬を隠さずに、元気よく返事をする。彼の手が月餅の上でそわそわと動いていたので、さっと手に取って彼の口元まで持っていってあげた。


  ***


 数日後。私と蒼玉様は、準備を整えてマロンのいる牝馬厩舎で紅玉様を待っていた。紅玉様が来ると馬達が構ってもらうために騒ぎ出すからと言って、マロン以外の仔達はパドック放牧に出ている。彼は一体どこまで馬誑しなのだろう。いっそ厩務員になった方が……とは思ったが、それはそれで馬達による仁義なき戦いが起こりそうなので、このままの方が良いのかもしれない。

「紅玉様、来て下さるかしら」

「正直五分五分だな。行く義理は無いと言って来ない可能性もあるし」

 そんな会話をしていたら、厩舎の扉が音を立てた。琥珀の先導で入ってきたのは、紅玉様で間違いない。心なしか以前よりもやつれている気がするが、大丈夫だろうか。

「何だ、揃いも揃って呆けた顔して」

「いや……ちゃんと来てくれたんだなと」

「呼び出したのはそっちだろ。わざわざ来てやったんだから、感謝してくれても良いくらいだろうに」

「ああ、来てくれてありがとうな」

「……ふん、いつになく素直じゃないか。何を企んでいるんだか」

 相変わらず緊迫した空気だが、会話が途切れた途端マロンが嘶いた。張り詰めた空気が一気に霧散し、マロンが紅玉様へ向けて一生懸命首を伸ばす。仕方のない奴だなと言って紅玉様がマロンを撫で始めたのを見ていると、顔が凄い事になっているぞと蒼玉様に突っ込まれてしまった。

「さっきまであんなに耳を絞っていたのにな。そんなに俺を歓迎してくれるのか」

「……良い気にならないで下さい。マロンの主は私ですからね」

「負け惜しみは虚しいぞ」

「違うわ、事実よ!」

 そう叫んで、紅玉様へ恨みがましい目を向ける。落ち着いてくれと蒼玉様が宥めて下さるが、嫉妬心というのはそう簡単に抑えられるものでもない。

「……本当に、お前は賢いな。お前が俺に懐いているのは、俺は大好きな主を連れて行ったりしないって、自分から奪ったりしないって、分かっているからだろ」

 紅玉様はマロンの方を向いたまま、そんな事をおっしゃった。煮えたぎっていた心が一瞬で鎮火し、思わず蒼玉様と顔を見合わせる。その瞬間、マロンの唸り声が聞こえてきたのでそちらを向くと、マロンは顔を紅玉様に擦り付けつつも、はっきりこちらを向いて耳を絞り威嚇体制に入っていた。

「相変わらず、俺はマロン号に認めてもらえていないという事か」

「逆だろ。逆だからこそ、主の気持ちがこちらから離れるんじゃないかと危惧してるんだ。そんな心配は無用だと思うが、こいつは四六時中マリガーネットと一緒にいられる訳ではないからな。この国の中では、マリガーネットはあんたと一緒にいる方が圧倒的に多いだろうし……そうだよ、馬達だって認めてるんだから、もうそれで良いじゃんかよ」

「紅玉様?」

 彼が不思議な事を言い出したので、思わず名前を呼んでしまった。しかし、彼はそれには答えず……力を失ったかのように床へと座り込む。どうしたのかと思って近づこうとした私と彼の服を咥えて引っ張り上げようとしたマロンを、蒼玉様が同時に制した。

「紅玉、どうした」

 蒼玉様は一歩近づいて、紅玉様の前に跪く。彼の肩に触れた蒼玉様の手は、振り払われなかった。

「琥珀が人払いをしているから、今お前の言葉を聞いているのは、俺とマリガーネットとマロン号だけだ。お前の中だけに、押し込める必要はない」

「……」

「何か言いたい事があるんだろう? 自分でも話したい事があるから、ここまできてくれたんだろうと思ったんだが」

「……なぁ」

 その声は、今まで聞いた事のある彼の声の中で、一番掠れて小さい声だった。絞り出したかのようなその声が、彼らしからぬ心細そうな声が、只ならぬ空気を醸し出す。

「なぁ、もう、あんたが今すぐ皇帝になってくれ」

「……え?」

「父上を玉座から引きずり下ろすための証言なら俺が出来る。欲しいなら、俺の領地だって衣装だって金品だってあんたにやる」

「紅玉、順を追って話してくれ。どういう事だ」

「そのまんまの意味だよ! あんたがこの国の皇帝になって、そこのマリガーネットが皇后になって、母上を後宮から解放してくれ!」

 悲痛な叫びが厩舎内にこだまする。想定外の彼の言葉に、蒼玉様も私も立ち尽くすしか出来なかった。

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