第三章 翠玉と藍と紅
(1)
最後の書類にもサインをし終えたので、筆を置いて伸びをする。最初は線が曲がったり文字が潰れてしまったりで上手く書けないでいたが、大分読める文字になってきた。
「あら、もう書類全てにサインされたのですか?」
「うん。筆にも大分慣れてきたわ。会話でも困る事は無くなったし」
「流石ですね。私は漸く口喧嘩が出来るようになったくらいですのに」
「そうなのね……って、何でそんな物騒な例を」
「感情的な会話が出来るという事は、その言語を理解しているという事ですから」
「そうなの、ね……?」
ベリルの理屈はさっぱり分からないが、彼女も現地の人々と普通に会話していたから帝国語を習得したのは確かだろう。少し前に一緒に市場に行ったが、その時もひたすら値切り倒して大体成功していた。あれも、言語を理解して使いこなせるようになったからだろうか……いや、性格か。
「少し休憩なさいます? お茶淹れますよ」
「ありがとう。ついでに相手もしてくれる?」
「それじゃあお言葉に甘えますね。少々お待ち下さい」
そう言って厨房に向かったベリルを見送り、何とはなしに窓の外を眺める。最近は雨が続いていたが、今日は綺麗な青が一面に広がっていた。
『月晶帝国の皇帝は同時に複数の后を持つ事が出来るんだ。その中の最高格が皇后で、基本的には出自や功績等によって序列が決まる事になっている』
『皇后は通常上級貴族や近隣諸国の王族皇族から選ばれる。母上も、高官を多数輩出している名門の一族、張家当主の正妻の娘だ。当時の大臣が張家当主だったからだろう』
先日、蒼玉様に教えて頂いた話を思い出す。母国では公爵家令嬢という立場だったのでそれなりに貴族世界の複雑さは知っているものの、エスメラルダでは妃や妻は基本的に一人だけだ。なので、正式な后が複数いるというのはそれだけで大変だろうと思う。
『父上が即位して一年後くらいに俺が産まれた。皇子の誕生に国中が喜んだと聞いてはいるが、母上はあまり体が強くないから出産後一気に体調を崩したらしい』
『そこで、父上は側妃を迎える事になったんだが……一人だけだと揉めそうだからと言って三人同時に迎える事になったらしい。珊瑚妃は、その三人の内の一人だった』
その辺りの詳細は朝議にて決まり、陛下と藍玉様に伝えられたらしい。陛下も……そして、藍玉様もそれで大丈夫だと了承していたそうだ。
『しかし、父上が実際に三人と対面した際、文字通り珊瑚妃に一目惚れしてしまったらしいんだ。それだけならまだしも、珊瑚妃以外は不要だと言って他の二人を追い返すという事態にまでなってしまったそうだ。勿論、母上も大臣も、他の官僚達も説得しようとしたらしいが、止めるならば打ち首にするとまで言ったそうで……そこまで言われてしまえば、流石にどうする事も出来なかっただろう』
『挙句の果てには、母上を廃して珊瑚妃の方を皇后にするとまで言い出した。流石に、珊瑚妃の母は貴族でない事と彼女自身の功績が無い事で話は消えたが』
『しかし、それ以降楊家は明らかに重用されるようになった。大臣は珊瑚妃の父親である楊家当主に代わり、楊家出身の貴族や楊家に仕えている貴族が台頭して……今はまだましになったが、油断ならない状況は続いているな』
『そんな状況だから、当然張家と楊家の仲は険悪になった。それに付随して他の家同士の交流にも影響したそうだ。母上と珊瑚妃も、直接対立している訳ではないが女官レベルでも接触があると互いの実家……特に楊家側がかなり過敏に反応するから緊張状態が続いているな』
『……』
話して下さった蒼玉様にどう言葉を返したら良いか分からなくて、話し終えた彼へ何も言えずにいた。話して下さった蒼玉様も、怒っているような、悲しんでいるような、そんな複雑なお顔をなさっていた。
「お待たせしました」
お盆を抱えたベリルが戻ってきたので、一旦思考を打ち切った。ありがとうと伝えながら、テーブルの準備をしている彼女の方へと向かう。
「浮かない顔ですね。考え事ですか?」
「考え事……というか、思い出していたというか」
「ああ、先日の殿下のお話ですか?」
「うん……男の人って、やっぱり……一度この人が好きだって思ったら、周りが見えなくなるものなのかしら」
「必ずしもそうではないと思いますけれどね。でも、どうしてか、マリガーネット様の周りはそういうお方が多かった印象です」
「多いわよね。エメ兄さまはお姉さまを幼少期からひたすら想い続けているし、先王は政略結婚だったけれど王妃さまをとても大事になさっているし、お父様だって気に入った女性は追っかけて何人も愛人にしてたし」
「……旦那様の話で全てが台無しになっている気が」
「事実だもの。その内の一人が身籠った時には、大騒ぎになったわよね」
「なりましたね……結局生まれたのは女の子でしたし、彼女は旦那様と別れて辺境の貴族の方に子連れで嫁いでいったから事なきを得ましたけど」
「二人の穏やかな暮らしを願うばかりだわ。お父様が下手に引っ掻き回さないよう、お姉さまやエメ兄さまが見張っていて下さってるはと思うけれど」
「もしかしたら、もうルベライト様に代替わりされてるかもしれませんね」
「むしろ、そっちの方がランウェイ家のためになると思うわよ。お姉さまとお兄さまの優秀さが認められるようになって、髪色が緑系でない人々への当たりも弱くなったし」
「マリガーネット様も奮闘なさっていましたものね。それが見届けられたのは、良かったんじゃないですか?」
「……そうね」
あんなにも強くて、美しくて、愛情深いお姉さまが周りから冷遇されているのが許せなくて。だから、お姉さまは凄いんだって、お兄さまは凄いんだって、周りに認めさせたくて必死になっていた自覚はある。私が称賛されるようになれば、そんな私がお姉さまは凄い、お兄さまは凄いと伝え続ければ、皆の目が変わると。あの時は本気で信じていた。
結局、私が頑張っただけでは周りの目を変えるなんて出来なかったけれども。
「でも、珊瑚妃ご自身はそんな野心家には見えませんでしたよね。そもそも、側妃になる前は地方で暮らしていたという噂も聞いた事があります」
「らしいわね。それに加えて、困っていた私に羽織を貸して下さったし、蒼玉様の事を宜しくっておっしゃっていたし……楊家当主は野心の塊みたいな人だったけど」
婚礼の儀式が終わった後で、挨拶する機会があったので少しだけ話をしたのだ。したのだけど、本当にあの珊瑚妃と血が繋がっているのかと疑いたくなるような人間だった。一応態度は丁寧なのだが、言葉の端々に傲慢さが滲み出ていて……間違いなく、珊瑚様は母親に似たのだろう。
「お姉さまは、小さい頃に王子妃や王妃になるって決まっていたから、ある程度心の準備が出来ていたっておっしゃっていたわよね。そして、お父様が暴走した時も、エメ兄さまが迷いなく自分を選んでくれたから、自分も迷わなかったって」
あの国で尊ばれやすい緑系の髪と目の私が産まれて、お父様は大層喜んだらしい。ようやく生まれたまともな娘、この子の方が世界に愛されている、世界に望まれた公爵令嬢なんだ……だから、次期王子妃、王妃に相応しいのもこちらの方だと。そう考えて、エメ兄さまとお姉さまの婚約を破棄して私を代わりに嫁がせようとした。私が九歳の時だ。
だけど、そんなお父様の思惑とは裏腹に、お姉さまを手放す気なんてなかったエメ兄さまはお父様の申し出に激怒した。送られてきた手紙を破り捨て、こうすれば手っ取り早いと言って、その日の内にお姉さまを王宮に呼び出しそのまま式を挙げたとか。とんでもない行動力である。
「王に、皇帝に、愛されて望まれたという意味では二人とも一緒よね。そして、何の因果か二人とも赤い髪をお持ち。だけど……同じように幸せなのかは疑問だわ」
「私達が知らないだけで、陛下と珊瑚様が仲睦まじい可能性も十分ありますけれどね。それならそれで、皇后陛下の心中を思うと何とも言えなくなります」
「……本当にね」
ベリルの言葉に頷いた。藍玉様と珊瑚様。皇后と側妃という立場の違いはあるけれど、二人とも皇帝陛下に仕える后である事に違いはないのだ。そういう意味では、待遇も扱いも同等……むしろ皇后である藍玉様の方が良くてもおかしくはないのに、現実は反転している。夜渡りに関しては藍玉様の体調を慮ってと言えなくもないだろうが、時折見掛ける後宮への陛下の下賜品は、全て珊瑚様宛だ。
「……ベリル?」
カップに残っていたお茶を飲み干したベリルが、ふふふと楽しそうに笑っていた。今までの話のどこに、そんな面白い要素があっただろうか。
「いえ、今のマリガーネット様は皇太子妃です」
「そうね」
「ですので、義理の母に当たる藍玉様を気遣っても誰もおかしいとは思わない」
「そうね……?」
「でも、マリガーネット様が皇后陛下を気にされているのは、自分の立場が、とかそういう理由じゃないですよね。それが、貴女らしいなって、変わらないなって」
「……ああ、なるほど」
私が藍玉様を気にしているのは、もっとずっと単純な理由だ。きっと、私がただ一人を愛して愛されて強くなった女性を知っているから。一方で、何度も浮気されて、その度に落ち込み傷つき自分に不足があるからだろうと言って泣いていた女性を見てきたから。
『皇帝陛下の一番が珊瑚様なら、藍玉様を母とする貴方は嫌ではないのかなと』
以前蒼玉様に問い掛けた。彼は、父親の明らかな贔屓に苦言を呈しつつも特には気にしていないと答えていた。
……でも、藍玉様ご本人は、どうなのだろう。
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