第14話 王子様(女)は未経験
あり得ない光景、あり得ない状況を見たり、体験したりすると、人間の体というやつはどうも硬直してしまうらしい。
それは、単純に腕や足、目や口に限った話ではなく、思考も同じだ。
俺――三代林太の頭の中は、今真っ白になっている。
理由は簡単だった。
男だと思い、命をも狙っていた王子様系体育教師・八女春来先生が、女性モノ下着を履いて目の前にいる。
夢か何かか、とも思った。
呆然としたまま、口を半開きにさせた状態で、手だけを自分の頬に持っていき、それを引っ張る。
けれど、やっぱり眼前の光景が変わることはなくて、代わりにそこにいた八女先生が涙目になり、口元をわなわなさせていた。
「なっ……! なっ……なっ……なぁぁっ……!?」
俺も、彼……いや、彼女の動揺声を聞き、我に返る。
すぐさま謝罪し、扉を閉めてその場から立ち去る。
これがここでの正解行動だったんだろう。
でも、パニックに近い状態だった俺だ。
そんな賢い選択が取れるはずもなく、しかしこの場をどうにか乗り越えないといけない、なんていう考えだけは先走る。
気付けば、俺は目の前にいた八女先生へ、こんな言葉をかけていた。
「そ、その下着……可愛いですね……!」
言った瞬間にわかった。
失言という名の地雷を盛大に踏み抜いてしまった、と。
「き…………き…………」
「き……? あ、あぁ、いや、可愛いじゃなかったですね! 綺麗だ! 綺麗だと思います! 色のチョイスも先生に合ってますね! あ、あは、あはははは!」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
夜遅いファミレス。
そのトイレ内にて、八女先生の悲鳴が響き渡るのだった。
●〇●〇●〇●
「ひっ……! ひっ……! 瑠衣ちゃん……! 瑠衣ちゃんっ……! 僕は……! 僕は……!」
「よしよし。泣かないでください。八女先生」
「僕はもうお嫁に行けないよぉ! 生徒に下着を思い切り見られちゃったからぁ!」
地獄。
それ以外に、この状況をどう呼ぼうか。
思いつかない。
地獄以外の何ものでもなかった。
一つのボックス席に俺と瑠衣姉が向かい合って座り、瑠衣姉の横で、王子の面影などまるでない様子で、八女先生が泣いている。
周りからはチラチラ見られ、俺の注目度は最高潮だ。
もちろん、不名誉でしかない注目のされ方をしているので、穴があれば入りたい。
いや、今すぐここから逃げ出したかった。
さっき、斜め前の席の女の子が、友人同士でこちらを見て「変態」と言いながらニヤニヤしていたのが心に刺さってる。
逃げ出すじゃまだ甘いか。死んでしまいたいレベルだ。なにこれ、拷問?
「……それにしても、りん君……?」
「ひっ……!」
聞いたことがないほど低い温度で俺に声を掛けてくる瑠衣姉。
向けてきているその瞳は、いつもみたいにハートマークを浮かべてたり、媚びてるようなものじゃない。
完全なお叱りモード。
教室内で見るような瑠衣姉の状態で、俺に語り掛けてきていた。
思わず悲鳴を漏らしてしまう。
「どうして八女先生が使ってる最中のトイレの扉を開けちゃったの? 私が理解できるように、完結に、真っ当に、正当性を込めて、百文字ほどで答えてくれる?」
「あ……あの……青山先生……? お言葉なのですが……今ここは国語のテストの時間じゃなければ、問題集を解いてる状況でもないような気がするのですが……」
「答えてくれる?」
にこり、と微笑みながら語調を静かに強める瑠衣姉。
俺ももう、四の五の言わずに答えることにした。
命が危ない。
「単純にトイレに行きたくなったからなのはもちろんのこととして、個室に鍵が掛かってないまま扉が閉められてたんです。男女共用で、中には誰もいないと思って、思い切り開けたら、そこには男だと思っていた八女先生がいました。僕も究極に驚きました」
「……へぇ。じゃあ、わざとじゃないんだ?」
「当然です。もちろんです」
「八女先生の秘密を知ってて、それで突撃したわけじゃないんだね?」
「はい。断じて」
「八女先生の隠してること、皆に暴露するために扉を開けたわけじゃないよね?」
「はい。断じて」
「いやらしい目的でもないんだね? 先生の下着姿を見たいから、舌なめずりして、とか」
「はい! 断じて! 断じて違います!」
特に最後のだけは絶対に。
アピールしたいから、声を大きくさせてしまった。
また周りから注目を浴びる羽目になる。
けれど、瑠衣姉はそんなの気にしてないようで、瞳のハイライトを消失させ、まるで浮気した彼氏を問い詰めるかのように、淡々と、しかし笑顔のまま頷く。
隣に座ってめそめそしてる八女先生を撫でながら。
「なるほどね。じゃあ、完全に事故だったんだ。りん君が八女先生の使ってた個室を開けたの」
「そうです。完全な事故です」
語調を強めて言い、俺はさらに続ける。
「というか、こっちからすれば八女先生が女性だったって事実が驚きだよ! 俺以外の生徒もその事実には気付いてないんじゃない?」
あの男性恐怖症の瑠衣姉が普通に接していられたって時点で怪しむべきではあったんだけども。
「別に隠してるわけじゃないよ? 普段から学校内でも女子トイレを使ってるし、周りの先生だって女性として対応してる。勘違いしてたのはりん君だよ。生徒でも、知ってる人は知ってたと思う」
「で、でも、王子って言われて、女子の間でも人気で……」
「それはよくあることだよ。女の子にモテる女の子っているし。何なら、八女先生は――」
「それが嫌だったんだよ! 僕はそれが嫌だったの!」
瑠衣姉の発言を遮るようにして、目を見開きながら俺へ言ってくる八女先生。
驚いてしまう。
すごい訴え具合だ。
「そ、それが嫌だった……というのは……つまりどういう?」
機嫌を伺うように問うと、彼女は鼻をすすった後、語り始める。
「僕だって、本当のところは好きでこういう男性みたいな恰好をしてるわけじゃない。瑠衣ちゃんみたいにスカートを履いて授業をしたいし、可憐な女性でありたいとすごく思ってるんだよ」
「え……。じゃあ、そうすればいいのでは……?」
八女先生、王子って言われるだけあって、顔はめちゃくちゃ美形。
女性って意識したら、女性らしい服装に身を包んでいれば、俺はまともに近くで彼女を凝視できる自信がない。
けれど、簡単に言ってのける俺が気に食わないらしく、彼女は眉間にしわを寄せて言ってきた。「簡単に言ってくれないで!」と。
「わからない!? 三代君!? 僕は体育教師なんだよ!? 授業中はいつだってジャージだし、授業の合間に毎回律儀にスカートを履くわけにもいかない! スタンダードスタイルが男性っぽいんだよ! だから無理なの! 女性っぽい恰好を学校でするのが!」
「あ、あぁ~……」
なるほどな。確かにそれはそうだ。
「だったら口調は? 先生、一人称が『僕』だし、俺もそれで騙されてた節があるし」
「そ、そこは……今改善してる最中……。瑠衣ちゃんにも指摘されて直してる……」
しおらしく、「うぅ」と恥ずかしそうにする八女先生。
それがどことなく可愛い。改めて見ると、まつ毛も本当に長かった。素直に綺麗だ。
「そういうことなの、りん君。私今、八女先生の本格女性化計画をお手伝いしてるんだ」
「……なるほどね。なんとなく全部の経緯が予測できた……」
だったら、俺は俺で、一人勘違いしてたってことだ。
瑠衣姉をたぶらかすイケメン王子がどうとか言って。恥ずかしいな。
「せ、生徒にこんなことを話すのも気が引けるんだけど……君は僕のとんでもないところを見てしまったから、もう言うよ……。僕、瑠衣ちゃんみたいになりたいんだ」
「瑠衣ね……青山先生みたいに?」
俺が訂正すると、八女先生は首を横に振る。「いいよ」と。
「君と瑠衣ちゃんの関係は知ってる。小さい時からの知り合いなんだろう? 家が近かったっていう」
「あ……は、はい。ま、まあ……」
危ない。一瞬ヒヤッとした。
俺と瑠衣姉の関係を知ってるって、仮恋人の契約を交わしてることを認知してるのかと思ったじゃないか。
「瑠衣ちゃんはね、僕なんかと違って、すごく女性らしくて、気品に溢れてて、可憐で、いつだって可愛い。歳も同じだし、直接聞いたんだ。どうしたらそんなに女性らしくなれるの? って」
「……う、うぅ……そんな……別に私……」
「まあ、確かにですね。瑠衣姉は綺麗ですよ。小さい時から見てる俺もそう思いますし、異論はないです」
言ってハッとする。何を口走ってんだ、と。
ゴホゴホと誤魔化すように咳をし、「お姉ちゃんみたいに思ってるんですけど」と言い直しておく。決して恋人としてとか、異性として見てるわけじゃないことを装って。
でも、チラッとすぐに瑠衣姉の方を見ると、彼女はその豊かな胸の前で手をもにょもにょさせて、顔を赤らめていた。
こっちも死ぬほど恥ずかしくなる。つい、頭を掻きむしる。
「と、とにかく、瑠衣姉が綺麗なのは俺も同意です! クラスメイト達もそう言ってますし!」
「……だよね。僕だってそう思うもん。本当に僕が男性だったら、きっとまともに目を合わせて会話できてないと思う」
「間違いないです。俺だって体と体の距離が縮まるだけで心臓がバクバクしますし」
だから俺は何を言ってる。
さっきから乗せられてばかりだ。いい加減、変な関係なんじゃないかと怪しまれるぞ、八女先生から。
「でも、僕はそれが羨ましかった。別に男性からモテたい、とまではいかないんだけど、お付き合いできるくらいには、女性としての魅力を上げたいな……と思って」
「お付き合い……」
「瑠衣ちゃんは百戦錬磨だけど、僕もそれに近付きたくてね、だから弟子入りしたんだ。今年で二十九になるのに、今まで男性とお付き合いしたことないから……」
「え……」
それ、瑠衣姉とまったく同じじゃん。
というか、百戦錬磨って。
全然そんなことないのに……。
「……っ!」
瑠衣姉の方を見ると、彼女はバツが悪そうに俺から目を逸らす。
きっと強がって言っちゃったんだろうなぁ。何人かと付き合ったことがあるって。
まあ、見た目だけで言えば、それも全然嘘に聞こえないからいいんですけど。
「笑える……よね? やっぱり、高校生の男の子からしたらなおさら。おばさんのくせに、って」
自虐的に薄ら笑いを浮かべながら言う八女先生。
俺は「いやいや」と首を横に振る。
「おばさんなんてそんな! 全然そんなことないですよ!」
「……じゃあ、僕がもしも、三代君と恋仲になって欲しい、とお願いしたらどうする?」
「そりゃもう最高ですよ! そんなお姉さんから相手にされるなんて、普通は――って、……え……!?」
今、なんて……!?
「ちょっ、う、うぇぇ!? や、八女せんせ!? い、いいい、いったい何をぉ!?」
ガタタンッ、と机に体をぶつけ、動揺しながら隣に座ってる八女先生の方を向く瑠衣姉。
それはそうもなる。
俺だって椅子から転げ落ちそうになった。
今、この人とんでもないことを言った。
「も、もちろん仮に、だ! 仮に……僕が君へ告白したら……君は何て答えてくれるのだろう? ……と、つい気になって……」
「え、ええぇっ!?」
「だ、だって、偶然とはいえ、君は僕の下着を見たんだ! こ、こんなの……もう……本当なら責任を取ってもらうしか……」
「な、な、な、なら私だってぇ! 私だってりん君にあんなことやこんなことをされたし、約束もして――んぶっ!」
向かい合ってるところから身を乗り出し、瑠衣姉の口を強引に塞ぐ。
何を張り合ってるんだ、あなたまで!
ここで暴露したら、状況が余計ややこしくなる。
冷静じゃなくなってしまうのはわかるけど、それだけは死守しなくちゃいけない。
「ど……どう……かな? 君の応え……聞きたい……」
「っ……! そ、そんな……俺は……!」
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