永遠ラプソディー

John B. Rabitan

第1話

 俺の下宿の机の上には、がくに入った少女の写真が飾ってある。

 今どき珍しいセーラー服だが、これが俺と菜穂の出身高校の女子の制服だった。白い半そでのシャツに紺のセーラーカラーという夏服で、三角タイも白だ。

 いつも教室ではツインテールにしていることの多かった菜穂だったけど、この写真の時は肩よりも少し長い髪をおろしている。ひたいも眉上までの前髪で隠されていた。


 もう二年も前の写真だ。

 こんな写真を飾っているからといって、菜穂はもう思い出の中の存在……というわけではない。

 むしろ今も驚くほどそばにいる。

 地方の高校だけに卒業後も地元に留まる人は少ない。だが大多数は同じ地方の他県かせいぜい関西圏の大学に進学する。

 本当に偶然なのだけど、関東の大学に進学したのは俺と菜穂だけだった。

 もちろん、大学は違う。

 それでもわりと頻繁に会っている。

 実際、次の日曜も二人でハイキングに行く約束をしている。


 菜穂とは高校時代は特別な関係であったわけではない。

 同じクラスのクラスメートであり、いつもつるんでいた仲良しグループの一員、それ以上でもそれ以下でもなかった。


 でも今は……


 いや、今でも全くそのままである。

 俺たちの関係は高校時代と全く変わっていない。

 少なくとも、菜穂の俺に対する見方は……


 そう、少なくとも、菜穂の方は……


 でも……


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「暑い!」


 菜穂は木々の間の土の坂道を上りながら、息が荒くなっていた。それでも笑顔である。


「ひろくん、待って!」


 俺は少しばかり菜穂の前を歩いたけれど、菜穂を置いて一人で先に登っていっていたつもりはない。


「ほら、早く来いよ」


「え、だって、おいてくんだもん」


「おいてってない。じゃあ、手ひいてやろか?」


「だいじょうぶ!」


 振りかえった俺に、菜穂はあざとい笑みを浮かべる。

 それにしても確かに暑い。今日も猛暑の予報だ。だが、周りを木々に囲まれた森林の中の、人がやっとすれ違えるくらいの細い土の上り坂なだけに町中よりはましかもしれない。

 それに高度が増すにつれ、風も強くなってきている。木々のお蔭で直接の陽ざしも遮られていた。


「ついさっきまで住宅街の中を歩いてて、このハイキングコースの登り口の階段やっと見つけて急にこの森の中だもんな」


 登りながら背後についてくる菜穂に、俺は語りかける。結構急な坂だ。整備されていなくて自然の道で、時々木の根や大きな石などを踏み越えて登っていかなければならない。時折左右から木々が枝を道の上まで伸ばしてきたりする。

 途中、道の脇の岩の壁に小さな洞穴があって、のぞくと石仏とか小さな石像が並べられたりしていた。

 穴も石仏も緑のコケに覆われたりしていて、かなり古そうだ。


 俺の背中は汗でTシャツがびしょびしょだ。その汗を、首から下げたタオルで拭った。

 時折、下ってくる人とすれ違ったりする。その時はどちらかが道を譲らないとうまくすれ違えないが、たいていは登っていく俺たちの方を優先させてくれた。


「こんにちは。ありがとうございます」


 俺がそんな人に声をかける。


「ありがとうござます」


 後ろで菜穂もかぶせるように言う。


「はい、こんにちは」


 道を譲ってくれた人たちも、必ず挨拶を返してくれる。みんなハイキングを楽しんできた人たちだ。どちらかというと年配の人が多い。

 登っているのは町を三方から取り囲む山の連なりだが、丘と言ってもいいくらいの高さだ。

 だからものの二十分くらいで坂は登り切った。


 ここで山の尾根を結ぶハイキングコースと合流だ。ここからは尾根伝いになるので、そう高低差はないはずだ。


 そこに道案内の看板とともに、何段かの木の階段の上に背もたれのないちょっとしたベンチがあった。ベンチというよりもただ丸太を組み合わせて座れるようにしているだけだ。俺は菜穂と並んで、そこに座った。


「暑い。でも涼しい」


 そんなことを言って菜穂は笑った。


「風があるものな」


「とりあえず水分補給」


 俺は背中のリュックから麦茶のペットボトルを出すと、口をつけて飲んだ。菜穂も同じようにしていた。


「ここ、いいとこね。なんか田舎を思い出しちゃった」


「ああ。首都圏にもこんな大自然があるなんてな」


「もっと早く来たかったね。暑くなる前に」


「たしかに。でも、あの頃は梅雨だったがぁ。今年は雨少なかったけど、梅雨の頃の天気ってわからないよな」


「梅雨が明けたら大学の前期試験もあったし」


「こんな暑いんだったら山じゃなくて海にすればよかった? この町には海水浴場もああけん」


「やだあ」


 菜穂は前の道を見て、ひとしきり笑った。


「水着見られるの恥ずかしい」


「なに言っちょうかね。高校の時は体育の水泳の授業でさんざん見たがぁ」


「あれはスク水でしょ。それでも男子の目が恥ずかしかったんよ。なんでうちの学校はプール男女一緒なんって思ってた。男女別々の学校もあるらしいのに」


「たしかに。あの時はそんなものだと思うちょったけど、大学に入っていろんな高校から来たやつの話とか聞くと、プールなんかなくて水泳の授業もなかったって学校の方が多いみたいだな」


 そんな話に興じているうちに、さっとまた風が木々の枝を揺らした。セミが鳴きだすのはまだもうちょっと先のようだ。


 二人は立ち上がった。今度はほぼ平坦な、それでも木々の茂みの中の自然のままの土の道を歩いた。

 左の方が時折谷となっていて、木々のスロープの下にさっきまでいた住宅街が見えたりする。そして遠くの方には三方を山に囲まれたこの町の、唯一開けた方角の向こうに遥かに海が見えたりもした。


 しばらく行くと、ちょっとした展望台のようになっている所があって、俺たちはその柵の手前に並んで立って遠くの海を見た。


「こんな遠くでも、海きれい」


「だな。でも、実際に行くと海水浴客でごった返しちょう」


「駅のとこもすごかったね。しかも外国人ばっかし」


「さすがにここまでは外国人は来ないね」


 俺がそう言って展望台から景色を見ているほかの人たちをちらりと見た。すると、すぐ隣に俺たちと同じ世代のカップルが来て、この猛暑の中なのにべったりくっついていちゃいちゃしている。


 俺はほんの少し、菜穂との距離を縮めた。お互い下げている手の甲と甲が微かに触れあった。


「俺たちも手、つなぐ?」


 俺が少しおどけた様子で言うと菜穂はすぐに手を引き、その指で自分の片目の下を押さえた。


「べえ」


 それからまた菜穂は、けらけら笑いだした。


「行くよ」


 今度は菜穂が少し先を歩く。こんな山道でもハイキングを楽しむ人たちは多く、大勢の人とすれ違った。


 しばらく行くと、右側の方が視界が開けた。ところが驚いたことに左が町まで木々のスロープなのに対し、右側はこの道の高さまで宅地造成されて、道の際まで整備された住宅街だった。


「え? なんで?」


 菜穂は思わず立ち止まって、驚きの声を発している。


「ああ、たぶんこの辺りはこの道が市の境界線なんだな。道の右側はもう別の市だけん普通に開発されて住宅地になっちょうだよ、きっと」


「じゃあ、こっちは?」


 奈緒が左側を見る。


「こっちはなんか法律か条例かがあって、開発が制限されているみたいだね」


「観光地だから?」


「観光地というよりも古都だからか、あるいは自然保護区だからか、知らんけど」


「へえ」


 すぐに道は市の境界線ではなくなったのか再び森林の中に入っていき、右側の住宅街も見えなくなった。

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