第10話 あなたの香りに包まれてしまいたい

「何でカケルと一緒に居たの……!?」

「お店に来て……ちょっと話しただけ、何も無い……」 

 怒りに任せて半ば怒鳴る様に言った言葉に対して、カナタの声は低く苦しげな音だった。思わず引き寄せ顔を覗き込むと、青い顔で浅く呼吸している。

 威吠を当ててしまったのか。

 気がついた時にはもう遅い。

「ごめん! そんなつもりじゃなくて、とりあえず家に……」

「今日泊まって」

「え……」

 泊まる?

 明日か明後日がヒートの予定日の筈だ。危険すぎる。一瞬後ずさる俺の手を、カナタが思いの外強く掴んだ。いつもより熱い気がする。眉根は苦しげに寄せているが、俺を見詰める目は怒りの様な、あるいは緊張した様な、強い色を含んでいる。

「泊まって……」

 俺は何も言い返せないまま、カナタに手を引かれてアパートのドアを開けた。


 夕方の、薄暗い部屋の明かりをつける。

 明かりは安心。暗いところは恐ろしい。明るければ大丈夫。俺は冷える様な心臓を必死に鼓舞しながら、アキラをラグに座らせた。

「……あの子と話して、俺はアキラに甘え過ぎちゃってるなって思って」

「カケルがそう言ったの?」

「そうじゃないけど、アキラのこと心配してて……当たり前だよね、俺が散々振り回しちゃって申し訳ない。ごめんなさい」

「そんなこと……」

 俺は震える手で枕元の箱を開ける。中にあるのは革の首輪と手錠だ。優しさから送られたそれに守られ、俺達は何とか一緒に居られた。

「……今晩トリガーのピルを飲んで明日くらいにヒートが来るから、その前に、その、してみよう」

 流石にヒートで心も身体もぐちゃぐちゃの時にするのは怖い。アキラの目が揺れた。何か言おうとして、ギュッと唇を噛む。

 拒否はされていないのだろうか。俺は恐る恐る続けた。

「……ゴム持ってる……? 無かったらコンビニに……」

「いや、あるよ」

 返って来た声は固く、酷く緊張しているように聴こえる。俺も震える手で首輪を手に取った。安心感ではない、本来の用途である自己防衛に使うのだ。


 カケルが何を言ったのかは分からないが、俺は童貞みたいに緊張していた。白い首は確かに男性のものだが、そこをヒートの時に噛んだらこの人は俺のものになる。いや、欲のタガが外れたらヒートでなくても噛み付いてしまいそうだ。現に今でも見ているだけで喉が渇く様な感覚に陥る。唾液を飲んで、いつも通り革の首輪で白い項を覆う。

 手に噛み付いた時の血の味を今でも覚えてる。申し訳ない反面、心の奥に欲の芽が生えているのも事実だ。

「手錠はどうしよう?」

「どうだろう……カナタが急に嫌になっちゃうかも知れないし、俺咄嗟に離してやれないかも知れないから着けといた方が良い気がする」

「そっか……」

「汗かくし、上脱いどいた方が良い?」

「うん」

 俺はTシャツをバサッと脱いで腕を差し出した。首輪と一緒に買ったが、こちらは本来所謂プレイに使うものだ。黒革のそれなりにしっかりした造りで、二十センチ程のチェーンで両手が繋がるデザイン。抱き締められないのは我慢するしかない。

 互いの目から緊張が伝わる。俺は既に一度カナタの中を暴いて、心を深く傷付けている。あの日、俺の下で嘔吐して泣いていたのを思い出すと胸が張り裂けそうだ。カナタは本当に大丈夫だろうか。少しでも嫌がったら途中でも止めないといけない。

 カナタはワイシャツのボタンに指をかけ、恐る恐る言った。

「あの、……今更なんだけど、俺普通にゴツい男なんだけど大丈夫……?」

 不安そうにしているが、本当に今更である。Ωはαに比べると華奢だが、カナタは力仕事もするので細く固くしっかりした筋肉が付いている。何度も抱き締めて寝たから良く知っている。そのシャツの下を想像して何度寂しく一人でしたか分からない。

「見たい」

 自分で思うより強い声が出てしまった。

 カナタは少しビクッとしたが、一番上のボタンを外す。二つ目、三つ目。中は周囲の視線を拒絶する様な、真っ黒な薄いインナーが着込まれている。

 既視感がある。

 そうか、初めて会った時の更衣室で、カナタはワイシャツの下にこんなインナーを着ていた。周囲の視線を耐えて、ごちゃごちゃ人が居る部屋の隅で。そのインナーの下を見たいと思った気持ちも、思い出してしまった。

 そうか、自分で気が付くより前、何年も何年もこの人を見ていたのか、俺は。

 黒のインナーを脱ぐのに少しだけ躊躇が見えた。

「……脱いで」

 無意識に出た言葉に押される様に、その肌があらわになる。部屋の明かりに白く照らされたそれは日に当たらない為か、ただでさえ白い首よりなお白く、まるで白磁で作った彫像の様だった。

 枕元にはゴムと、念の為の抑制剤と水。

 スラックスを脱いで下着一枚になったカナタは、どうしていいか分からないのか、布団の上で膝を抱えた。

「……ごめん、俺何したらいい?」

「……大丈夫、リラックスしてて。怖くなっちゃったらすぐ辞めるから、叫ぶなり殴るなりして教えて?」

「叫んだら近所迷惑だよ」

 やっと笑ったその顔はやはり少し緊張していて、指先は微かに震えている。俺は手錠で不自由な手で、その手をそっと包んだ。今にも壊れてしまいそうで怖かった。

「……カナタは俺に甘えてたって言うけど、俺もずっとカナタに甘えてたよ。俺寂しがりだからさ、沢山話聞いてくれたり、一緒にご飯食べたり、抱いて寝てくれてすごい嬉しかった」

「……かわいい」

 コツンと額がくっつく。キスは沢山したから慣れてる。甘ったるい匂いが鼻をかすめる。ミルクにハチミツをたっぷり溶かしたのに、薔薇の花びらを一枚浮かべたような、そんな匂いだ。抑制剤は飲んでいるのに、何時もより強く感じる。ヒートが近いからか、服を着ていないからか。

 柔らかな舌の感触と味、上顎をなぞるとひくんと震えて、鼻から抜ける声に似た吐息。呼吸が荒くなる。互いの吐息を飲み込む。鎖に繋がれた腕を上からするりと回して、自分の身体に、震えるカナタを閉じ込めるみたいに。

「……目、開けてな? 見えてた方が怖くないよ」

 恐る恐る、濡れた瞳が開かれる。夜の海みたいで綺麗だなと思った。

「あ……」

 顎に口付け首輪を辿り、鎖骨に唇を落とす。窪んだ所をゆるりと舐めると、擽ったそうに身を捩るのが可愛い。背中に回された指先に力がこもっている。

「手、俺の事好きに触って」

 でも無理しなくてもいいよ、と言う前に、何時もより温かい手が俺の背中の筋肉を確かめるように撫でる。背中、肩甲骨、脇腹。

「くすぐったい」

「あ、ごめん……」

「大丈夫」

 下着に指を滑り込ませてサラリとした尻を辿ると、驚いたのかちょっと腰を浮かせたので、そのまま引き寄せて自分の膝に乗せてしまう。座ったまま抱き合う様な体制だ。胸がくっつくと鼓動が伝わってきて、心の中まで透けて見える様な気がした。

 サラリとした唇を吸いながら、心の中でネットで見た知識を反芻する。

 Ωの男性のセックスは、一般的な女性とほぼ一緒。体質にもよるが、ヒートでなくてもお腹の中は自分で潤う。身体の奥には子宮があって……

 

 ああ、甘い匂いがする。


 脳が焼ける。目がチカチカする。指を一本含ませると一気に鼓動が鼓膜を打つ。

 どっちの?

 口を離すと、カナタの呼吸が一気に荒くなった。目の焦点が僅かに遠くなる。

 甘い匂いだ、強烈な、本能をこじ開ける様な。

 この人を孕ませたい。

「うそ、やだ、どうして」

 何か言っているのが聞こえる。

「今ヒートきたの……?」

 唇を塞いで、奥を無理矢理こじ開けた。


 甘い、甘い匂いがする……


続 

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