人嫌いとメモワール

卯月ななし

 望月学園は、海沿いの町にある。

中高一貫の私立校で、1つの学年に2クラス、1クラスは20人前後という小規模校だ。

この学校の特色は「基本的に何をするにも生徒の自由である」という校風だろう。

例えばだが、中等部に在籍しながらも高等部レベルの学習をするのも良し、基本的に学習はパソコンで行うため、学園内に居るなら何処からでも授業に参加して良し、勉強に全力を注ぐも良し、スポーツに全力を注ぐならそれも良し。

――といった様な具合で、基本的に何でも生徒の自由である。

生徒個人の自立心を養い、自分が将来なりたいもの、就きたい仕事を具体的に見つけ、それの目標に向けて進むために「自分で選択・判断する」というのが最も重要とされているのだ。

 まぁだから――そんな夢見る生徒たちに紛れた、曲者が時々居るのだけれど。


「……ここが、文芸部……。」

 新学期が始まって少し経った、まだ春と呼べる時期の頃。埃っぽい空気を纏ったその空間の一角に、ぽつりと離れた部屋があった。「文芸部」と雑に書かれた段ボール製の看板を見ながら、生唾を呑んでいる1人の客がその扉の前に立っている。この春から高等部に編入してきた、1年の間宮まみやうつほだ。低めの背丈に、ポニーテールが特徴の、言ってしまえば良く居そうな女子生徒である。空が見ているその看板の下には、「図書倉庫」というプレートが隠れる様に付いていた。

「し……失礼します。」

 ガラガラ、と建付けの悪い引き戸に力を込めてゆっくりと開けると、縦長の8畳ぐらいの空間が広がった。入ってすぐ正面には、古めかしい黒いソファーセットとローテーブルがあり、その奥に大き目の窓が1つ。そしてそのソファーセットを囲むようにアルミラックがいくつか立っていた。そこには大量の資料が置かれていて、埃っぽい空気と、惨憺たる散らかり様を見た空は驚いていた。

「……何か御用ですか?」

1番窓の近くに置かれた1人掛けのソファーに膝を立てて座っていた生徒が、空を見て言った。空は、しどろもどろになりながら中に入り、扉を閉めてから告げる。

「えっと……文芸部に入部したくて……。」

「……はぁ、まぁ分かりました。」

 その生徒は姿勢を少し正すと、空を見つめて短く言った。

「――文芸部部長の、弓塚ゆみづかです。宜しく。」


 弓塚シノ、という人物は――何というか、変わっている。

高等部2年。背中ほどまで長く伸ばした癖のある黒い髪に、少し切れ長で目付きの悪い双眸、着崩された男子制服の中にインナーとして黒いハイネックを着て、いつでも黒いパーカーを羽織っているのが特徴的な女子生徒だ。

人当たりの悪い不愛想な性格に、喉からは女子にしては低く掠れ気味の声、かなり高めの背丈、その上――両耳に黒系統のゴツめなピアスがいくつか空いている。

 言うなれば、見てくれは典型的な不良なのだ。しかしまぁ、本質はただの根暗。単純に人とのコミュニケーションがド下手くそで、ちょっとばかり己の趣味が悪っぽく見えることが手伝って、近づきづらい生徒という印象が強い。

 このなりで――文芸部部長と言うお淑やかな肩書の持ち主である。恐ろしい話だ。

(……話で聞いていたけど、やっぱりちょっと怖いなぁ……。)

 突然の来訪に驚いてはいたものの、シノは空にソファーに座るよう促してから、窓際に置かれたサイドテーブルにある湯飲みに緑茶のパックを放り込んで、湯飲みの傍に並んだ電気ポットでお湯を注ぎ入れた。それを2つ作って、1つを空の正面のローテーブルの上に置いた。もう1つは、シノが手で包み込むように持っている。

「……それで、入部希望という話でしたっけ。」

「は、はいそうです。」

 シノはソファーに膝を立てて、三角座りの体勢になりながら緑茶を口に含んだ。まだ湯気が上り続けていて、明らかに熱湯の温度だと思うのだが、それを全く感じさせない澄まし顔で緑茶を飲んでいた。空は思わず、目の前に置かれた湯飲みに目が釘付けになる。ゆっくりと手を伸ばして表面に触れると――脊髄反射が働いた。

「あぁ、まだ熱いんで。冷ましてから飲んだ方が良いかと。」

 そうさらりと言っている張本人は普通にその緑茶熱湯を飲んでいるのだが。空はそっと手を引っ込めてシノに向き直った。

「私……、あの、部活紹介の放送を聞いたときに、文芸部って面白そうだなって思って、それで来たんですけど……。」

「……はぁ、それは……、驚きです。」

 部活紹介の放送、というのは実に3日前のことになる。

新学期は決まって、新入生向けの放送を昼の自由時間に流しているのだが、そこで部活紹介の放送をやるのが部活を行う上での規則の1つになっている。

『――あー、えと、これから文芸部の紹介をします。』

 剣道部の紹介が終わった後、少し長めの間をおいて文芸部の紹介が始まった。声の主は部長のシノである。

『ちょっとシノ、もうちょっと心込めてよ。』

『はぁ?心込めるもクソも無いだろこんなん。』

『ちょ、っと2人ともマイク入ってんだから早く!』

『え?あぁ――えーっと、文芸部は、1年を通して、読書に親しむことが、主な活動です。』

『……っふ、くっ、ねぇ莉羅りら。シノの読み方小学生っぽくない?……ふっ、ははっ。』

『……黙れ黎介れいすけ。こっちの方が人払い出来て良いだろうが。』

『シノちゃん!これあくまでも勧誘のための放送なんだからね?』

『はぁ……。分かった分かった。込めればいいんだろ、込めれば。』

『もう既に心を込めようっていう気が無いよね、シノちゃん。』

『――またこの他にも、部員同士で小説についての意見交換を行ったり、小説を自作したりの活動も行っております。――で、何だっけ。』

『すげぇ、シノあんなアナウンサーっぽく喋れたんだ。』

『最後は……あ、ほら、シノちゃんがせーのって言うの。』

『あぁ、――せーの。』

 とても面白い部活ですので、是非とも文芸部に遊びに来てください。

『……できれば誰も来て欲しくないけど。』

『シノー、まだマイク入ってるよ?』

『あぁ?……ちっ。――体験お待ちしております。では、お昼の放送でした。』

 ブチッ、というかなり乱雑なマイクのスイッチを切る音がして、スピーカーは静かになった。その後直ぐに、若干気弱そうな男性教諭の声で放送が入った。

『文芸部の3人。ちょっとお話がありますので、顧問の所まで来て下さい。』

 1年の教室は、一連の出来事に驚いて静まり返っていた。

「――あの放送で、本当に面白そうな部活だなって思って……。体験だけでも良いので、お邪魔したいんです。」

「……一応聞きますが、本は好きですか。」

「え、あ、はい。好きです。」

「そうですか。」

 自分で聞いておきながら、あんまり興味の無さそうな声でシノは言った。空は居心地の悪さを感じながら湯気が収まってきた湯飲みに手を伸ばして口を付けた。――その時唐突に、部室の扉が開け放たれた。あの建付けの悪さからは想像が出来ない様なスパーン、という小気味良い音と共に外の風がふわりと入って来る。あまりにも突然だったため、空は飲もうとしていた緑茶が気管に入った。

「よーっす、――あれ、何かお取込み中?」

「……たった今お前が入ってきたせいで余計にお取込み中だ。」

「げほっ、げほっ、はぁ……、すいません。」

 反射で謝る空にシノは心配そうな、というよりは呆れた様な視線を向けてから、今しがた乱暴に扉を閉めて部室の中に入ってきたその人を睨み付けた。

「こちら、あぁ……入部希望の方だそうだ。」

「えぇマジで?凄いじゃんそれー。」

 そう嬉しそうに言いながら、その人はシノの隣に腰を下ろした。背もたれの後ろに学生看板を放り投げて、そのまま背を預けて溜め息を付くと、がばりと起き上がって空の顔を覗き込んで微笑んだ。

「あー、俺、さかき黎介れいすけ。新入生さん、シノに虐められなかった?何もされてない?大丈夫?」

 榊黎介。目にかかるぐらいの薄い茶色の前髪と揃いの目のせいか、パッとした顔立ちをしている様に見える。左目の下に泣き黒子があり、人当たりの良い明るい笑顔を浮かべている。――ほんの少しおっとりとした印象がある、明るい人だ。

「やかましい。私がいつ人を虐めてた。」

「えぇ、中等部の時、コマッチと一緒になって莉羅の事困らせてたくせにー。」

「今はやってないだろ。」

 物凄い勢いで会話が繰り広げられる。空はそれを見ながらただ驚いていた。

(は……入れない。)

 黎介はシノの隣で今にも中等部時代の話で盛り上がろうとしている。シノはそれを制してから空に向き直った。

「……言い忘れてましたが、文芸部はさして面白くないですよ。」

「へ、と言いますと……?」

シノは困り顔で空を見ながら、ゆっくりと首を横に傾げた。それから何かに迷いながら、苦い声で短く呟く。

「まぁ……見て貰えば分かるか。」

 空は、はてなマークを脳裏に浮かべながらただシノを見ていた。シノは諦めたように首を軽く振って、黎介を見た。それからちょっとだけ嫌そうに言った。

「それはそうと、黎介。お前今日どうするんだ?」

「え、何が?」

「……音無おとなしを待たせてるんじゃないのか?」

「あ、そうそう。忘れてた。」

 そう言って黎介は立ち上がって部室の扉に駆け寄ったかと思うと、シノと空の方を振り返って悪戯っぽく笑った。

「一緒に来てよ。そっちの方が面白そうだし。」

「……めんどくさい。……あ、間宮さん興味あればどうぞ。」

「え、っと……何がですか?」

黎介は部室の扉に背を預けて片目を閉じて、カッコつけながら空を見て笑った。

「まぁ……復讐しに。」

「……へ?」

「……行けば絶対巻き込まれますけど、面白いとは思いますよ。」

 シノは面倒そうにそう言って、湯飲みに少し残っていた緑茶を飲みきって、黎介が居なくなったソファーに寝そべって唸った。

「あぁ行くんだったら……後でもう1人の部員が、そっちに行くと思いますから。そいつに保護して貰って下さい。」

「保護、ですか。」

「えぇ。どちらにせよそうなるかと。」

 空はゆっくりと立ち上がって黎介の方に近づいた。後ろからシノがひらりと手を振りながら、棒読みで一言だけ言う。

「お気をつけてー。」


「あの、今から何処へ……。」

「んー?職員用駐車場。」

「は、はぁ……。」

 意気揚々と歩く黎介の後ろを恐る恐るついていく空。知らない廊下を歩いた先に、職員用の駐車場と思わしき場所に出た。そこには1人の男子生徒が壁にもたれて腕を組みながらぼんやりとしていた。

「あ、りゅうー。」

 黎介が親しげに手を振りながらその人へと近づく。柳と呼ばれたその人は、黎介に気づくと溜め息を付きながらこっちに向かってきた。

「さーかーきぃ……。遅いぞ。」

「ごめんごめん。シノと喋ってたの。」

「相変わらず仲良いなぁ。――そちらは?」

「え、あぁ、弓塚先輩に付いて行くと良いって言われたので……文芸部の入部希望者です。あの……間宮って言います。」

「間宮……。へぇ……。俺音無って言います。宜しくね、間宮ちゃん。」

「あぁ駄目だからね、間宮ちゃん。コイツほんっとに女癖悪いから。そそのかされちゃ駄目だからね?」

「だっ、余計なこと言うなよ榊……。」

「へっ、事実だろうがケダモノめ。」

 音無おとなしりゅう。長めの襟足を1つに括っており、先ほどシノが付けていたのと似たピアスを空けていた。もっとも、数の方はシノが上だが。優しそうな顔をしており、空の方に柔らかな笑顔を向けている。

 ただただ愛想笑いで事の成り行きを見送る空。それからその2人の先輩を困り顔で見た。2人共上背があるため、空は見上げる形になる。

「あぁ、せっかくだから間宮ちゃん。手伝ってくんない?」

「全然良いですけど……何するんですか?」

「このね、赤い『20-39』っていう車、端から見てって探して欲しいんだよね。」

「分かりました……。じゃあ、あっちから。」

「うん、ありがとー。」

 空は、さっき黎介が言っていた「復讐」というワードに気を取られながらも車を見て回った。それから直ぐに見つけた。赤い塗装に『20-39』というナンバープレート。車に関する知識の浅い空でも分かる様な高級車だった。黎介は駐車場をキョロキョロ見回していて、柳は携帯で誰かに連絡している。空は少し緊張しながらも黎介に声を掛けた。

「あの、榊先輩、ありました。」

「んー?――おぉ、速いね。」

「いえ、赤い車って少なかったので。」

 『20-39』のナンバープレートの前で屈みこむ黎介と柳。2人は暫くその姿勢から動かなかったが、柳が黎介に携帯の画面を見せて何かを呟いていた。空はただそれを後ろから見ていたが、屈んでいた2人が突然立ち上がったのに少し驚いた。2人はゆっくりと振り返って空を見ると、ニンマリとした笑顔を顔に浮かべた。思わず怯む。

「あ、居た!」

すると突然後ろから、良く通る声が聞こえた。空が振り返ると、少し離れたところから栗色のショートカットの少女が小走りで来ているのが見えた。

「おぉ割と早かったねー、莉羅りら。」

「なぁんで柳君もそっち側なの……。止めてよ……。」

「いやぁ、ちょっとな。――あ、間宮ちゃん、その人も文芸部員だよ。」

「え、あぁ、っと……。入部希望の、間宮と言います。」

「へ……、えぇ!ほんとに!わぁ……、ありがとね来てくれて。――もしかして、シノちゃんに付いて行けって言われたの?」

「あ、まぁ、そうです。」

「はぁ……何してんのよあの部長は……はぁ。――あ、そうだ間宮ちゃん。」

「はい?」

「ここだと巻き込まれちゃうからさ。あっちで少しお話しても良いかな?」

「あ、はい。分かりました。」

「あ、莉羅ー?」

「んん”、なに?」

「チクんないでねー。頼むから。」

「……はいはい。」

 荻堂おぎどう莉羅りら。シノが言っていた、空を保護する役回りの部員である。頸椎の真ん中辺りまでの長さの栗色の髪と、可愛らしい顔。――何というか、どことなく生徒会長っぽい雰囲気がある。莉羅が指さした先は渡り廊下のすぐ近くの日陰だった。脚の方に少し苔の付いたベンチが1つ置かれている。莉羅と空はそれに座って、ほっと息を吐いた。それから莉羅は少し考えて、口を開いた。

「えっとねぇ……、何から聞きたい?」

「……はい?」

「何でもいいよー。あのアホ2人が何しようとしてるのかでも良いし、文芸部って何なのかでも良いし、シノちゃんって何者かなのでも良いし。」

「……全部気になります。」

「あはは、それもそうだね。じゃあ――1個ずつ説明するよ。」

 あのアホ2人――黎介と柳は、先ほど空が見つけ出した赤い車に黒い油性ペンで落書きをしていた。それを呆れながら見る莉羅。それから言った。

「あの車の持ち主、この学校で1番理不尽な先生でね。あの2人が実害食らったわけじゃないんだけど、なんか、生徒からの相談が多いらしくてね。仕方なく、っていうか面白がって、進んで「復讐」だーって言って聞かなくてさ……。ほんと、馬鹿っていうか、短絡的にもほどがあると思うんだけどね。」

「なる……ほど。」

 少々やりすぎにも見えるその落書きに目を細めながら空は頷いた。次に莉羅は少し考えてから、文芸部について話し始めた。

 文芸部が設立されたのは去年の事だ。

部長である弓塚シノは極端な人嫌いであるため、望月特有の授業方法も手伝って、基本的に教室に居ることが全くと言って良いほどに無い。

よって、図書室や空き教室などから授業を受けることが多かったのだが、件の授業方が邪魔をして、図書室にも沢山の学生たちが出入りするのだ。

できるだけ1人で居られる場所が欲しい、という事でもうほとんど使われていない「図書倉庫」を陣取りたかったが、権利が無い。

まぁだから、文芸部はそんなシノのためだけに出来た部活なのだ。

部活が部活として認められるためには、最低でも3人の部員が必要だった。

よって、シノが小学生から腐れ縁だった黎介と、中等部に入ってから仲良くなった莉羅の2人が駆り出されて、めでたく文芸部が立ち上がったらしい。

ちなみに柳はゴリゴリの陸上部員だ。

要は――文芸部という部は形だけだ、と言って莉羅は話を結んだ。

シノがあまり部員を積極的に受け入れようとしないのはそのせいだと、莉羅は自嘲的に笑う。空は少し俯いて視線を泳がせた。

「そうなんですね……。じゃあ、私来ない方が……。」

「いや、全然そんなことは無いからね。――っと、シノちゃんの事だっけ。」

 顎に手を当てて、可愛らしく悩む莉羅。

「――うーん、クズ、かな。」

「……失礼な。」

「うひゃあ!」

莉羅の背後に突然シノが現れた。シノはパーカーのポケットに手を突っ込みながら呆れた様な目で莉羅を見たかと思うと、視線を車の方に移した。

「……はぁ、手ぬるいな。もう少し派手にやってるかと思ってきたのに。」

「ちょっとシノちゃん、あれも結構酷いからね?」

「酷い酷くないじゃないさ。面白くないって言ってるだけだ。」

 それから空の方にチラリと目を向けて直ぐに逸らした。そこには嫌悪感も好意も籠っておらず、コイツ誰だっけ、みたいな感じが薄く見えた様な気がした。

「はぁ……、期待外れとはこのことだな。あぁそう、間宮さん。」

「へ、はい。」

「悪いが、あのアホ2人見てて頂けないか?」

こくり、と空が頷くと、シノは莉羅の腕を掴んで立たせた。莉羅の目が丸くなったが、シノはお構い無しにその場を後にした。

「はへ……?」

呆気に取られたが、事態を飲み込んだ空は視線を黎介と柳の方に戻した。すると――遠くから車の持ち主と思わしき風体の教師が近づいているのが見えた。

「あっ……。」

 拙い、と思って黎介たちに声を掛けようとするが――もうとっくに2人は居なくなっていた。驚いて辺りを見回すと、車の直ぐ近くに先程まで柳が使っていた油性ペンが落ちていた。空はとりあえずあの2人が逃げおおせたことに安堵する。

「どこ……行っちゃったんだろ……。」

 思わずそれを拾い上げ、直ぐに空は自分の選択ミスに気付いた。

『行けば絶対、面白いとは思いますよ。』

 シノの台詞が頭に響いて、その意味を今更ながら理解して後悔した。

「……あ。」

 空は車の持ち主とばっちり目が合い、ただ苦笑いを浮かべた。


「ね、ねぇ。」

「……あ?」

シノと莉羅は文芸部の部室に戻って来ていた。莉羅は窓から駐車場の方向を気にするように見ている。もっとも、部室から駐車場は見えないのだが。

「さっき、もうあの2人撤退した後だったの、シノちゃん気づいてたでしょ?なんで間宮ちゃん置いてきたの?」

「あぁ……。いや、間宮空って人にこれ以上関わりたくなかった。それだけだ。」

「へ?」

莉羅は驚いてシノを見た。シノは何食わぬ顔で、新しく淹れ直したあの熱湯に等しい緑茶を飲んでいる。それから莉羅を少し見つめた後、目を細めた。

「間宮空。高等部1年。さっき音無から連絡があって、あの人は運動部を一通り体験して荒らした後、結局どこにも入らなかったという前科があるらしい。」

「荒らしたって……具体的には?」

「部の備品が無くなるとか何とか。実際陸上部も被害に遭っていて、音無も間宮空と面識があったらしいが、向こうは覚えて無かったそうだ。」

「そう……なんだ。」

 少し沈黙が訪れたが、直ぐに部室の扉が開け放たれた。黎介と柳が息を切らしながら部室に入って来る。

「はぁ……。はぁ……。あっぶねぇー、ギリギリセーフ。」

 黎介はシノの隣に座ると息を整えてから、シノの湯飲みに入っていた残りの緑茶を飲み干した。幾分か温くなっているらしい。シノは不服そうな顔をした。

「あぁ……弓塚。ありがとな。」

 柳は向かい側のソファーに座りながらシノに言った。シノは軽く首を振って伏し目がちに呟く。

「別に構わない。こっちも厄介な新入生抱えずに済んでラッキーだ。」

「……え、もしかして騙されてたの、私だけ?」

莉羅が心底嫌そうな顔をした。それを見たシノはふっと笑う。

「まぁ、あれは騙されても仕方ないだろ。私も音無に言われるまでは分からなかった訳だから。」

「でもさー弓塚。あの短時間で濡れ衣大作戦思いつくのすげぇな、お前。」

「あぁ……1度やられたことがある手法だからな。」

「あ、コマッチ?」

「……はぁ、まぁそうだな。」

 空が黎介と共に、柳と駐車場で合流してから車を探し始めたのと同時に、柳はシノに電話をしていた。

「あ、もしもし弓塚?」

『……なんだ、失敗したのか?』

「違う違う。あの、お前がこっちに送った間宮って子なんだけど――」

『――はぁ?おい、とんだ厄介娘じゃねぇか。』

「だろ?ま、だから絶対文芸部には入れない方が良いと思うぞ。」

『そうだな。助言感謝する。――あ、音無。』

「ん?」

『良い事を思いついた。――もう1つ知恵を貸したい。』

 そこまでの成り行きを聞いた莉羅は目を丸くした。

「え、どういうこと?シノちゃん、最初の落書きの計画立てて、復讐だって騒いでた時から1枚噛んでたの?」

「何言ってんだ荻堂。逆にコイツが噛まないとでも思ってたのか?」

「そういや莉羅には言って無かったね。」

 その標的の教師が車に金を掛けていること、その車の特徴と、教師が駐車場を使っていること、その教師は部顧問をしているから部活時間がやり時であること、――要は、この悪戯を成立させるために必要な情報は、全てシノが調べたのだ。

「まぁ、面白そうだったからな。噛んだとて別に危なくないと思った。」

「……はぁぁぁぁぁ。」

 莉羅は深い溜め息を付いてシノをじっとりとした目で見た。シノは悪戯っぽく、と言うには余りにも性格の悪い笑顔で莉羅に微笑む。黎介がシノの隣で得意げに笑いながら言った。

「で、シノには初手から協力して貰ってて、一応逃げ切れれば何でも良しって事にしてたんだけど、この際、あの厄介娘に全部背負って貰おうって事にしたんだよね?柳が途中スマホで説明してくれたけど、そういうことで合ってる?」

「そういうことだ。それも想像の3倍は良い完成度の結末での成功だ。」

 そう答えてからシノは、新しく緑茶を湯飲みに作った。莉羅は窓際で鈍く痛む頭を抱えて呻いた。莉羅はこういう問題ごとに巻き込まれることが好きではない。

「……もう天野あまのちゃん居ないから流石に大丈夫だと思ってたのに。」

「何を言ってるんだよ莉羅。別に私は、駒が居たから暴れていた訳じゃないぜ?」

「居ても居なくてもだよねー。2人居たら厄介ってだけでさ。」

「天野もとりわけこういうのに対してはノリ良かったしな。」

「まぁそれと、バレなきゃ犯罪じゃねぇんだよ莉羅。」

 うんうん、そうだそうだと、黎介と柳とシノが頷きあう。莉羅はまた鈍い痛みを頭に感じて溜め息を付いた。

「まぁ……落書きについては不服だがな。もっと派手やると思っていたのに。」

「いやぁ、ちょっと日和っちゃって。」

「まぁでも、ミラーとか窓とか、結構がっつり塗りつぶしてきたから。」

「いつの間に?俺それ知らないんだけど。」

「ふふふ、抜け目がないと言ってくれたまえ。」

 悪ガキ、というか本当にただの嫌がらせだ。莉羅は楽しそうに今回の悪戯に着いて談義している3人を恨みがましく見ながら、どことなく楽しくなってしまっている自分に気づく。

「……はぁ、私もそろそろ駄目だな。」

 こうして、文芸部は新入部員が1人たりとも入らなかった。


「……で、どういうこと?」

「いや、だから入らなかったんですよ。」

「うーん、それを聞く限り、僕には『追い出した』っていう方が正しい気がするんだけど。」

「それはまぁ、受け取り方って奴じゃないですか?」

「はぁ……。まぁうん。活動については部長に全任せだから何でも良いけどさ。」

 下校時刻になり、シノは職員室に寄って1人の教師と喋っていた。勧誘用の放送の最後、部員を呼び出したあの気弱な男性教師――まどか杏平きょうへい、まごうこと無き文芸部顧問である。シノは部活動の記録日誌なるものを部長として書く義務があるため、嘘八百というか、毎日代り映えのしないどうでも良い事を書いたその日誌を杏平に提出しなくてはならないのだ。杏平はその日誌にさらっと目を通してから雑にサインを書き込んで、小さく溜め息を付くとシノに微笑みかけた。

「でも部員入って来なかったら、弓塚さんたち卒業した時、即廃部だよ?」

「はい。」

「はいって……。」

「というかそれが目標ですので。」

「何それ。――さて、送るよ。」

「どうも。」

 杏平は半ば呆れながらもで大きく伸びをしながら立ち上がった。シノは鬱陶しそうに長い髪を扱って小さく欠伸をする。2人は靴箱に向かう廊下を歩き始めた。

「あ、ところで円先生。」

「ん?どうかした?」

「間宮空っていう新入生ご存じですか。」

「あぁ、一応その子のクラスの授業持ってるけど。何かあった?」

「彼女、部活体験で色々とやらかしているらしいですよ。」

「へぇ、そうなんだね。なんか今日生徒指導に連行されてくの見たけど。」

「……そうですか。」

「あれ?弓塚さん、なんかした?」

「人聞きの悪い事言わないでくれますか。何もしてませんから。」

「そう、まぁなら良いんだけど。――まぁ色々程ほどにね?」

「はぁ、肝に銘じときますよ。」

 杏平はシノの事を靴箱まで送ってから、職員室に戻った。シノは自分1人で暮らしている、海が見える広めの1軒家を目指して自転車にまたがった。生暖かい夏めいた風が吹き、下り坂をかなりのスピードで走り抜け、長い髪とパーカーが風に靡く。

「……私の楽しみを取んなっての。」

 こうして春は短く、直ぐに終わりを迎えた。

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