第三十六話「仮初の努力」
琴音は入院から二十日経って退院した。すぐには学校へ通えないので、自宅で療養する。
母は強い調子で琴音に言った。
「身体を治さないと、また入院することになるからね。少しでもお粥食べなさい」
「食べるよ」
琴音の素直な返答に、母親は驚いた顔を見せた。少量だけ作った七部粥を怪訝そうに琴音の前に置いた。琴音が懸命にスプーンで粥を掬って食べ、時間を掛けながらも器の中身を完食したのを見て、母親は更に驚いたようだ。
「どうしたの、急に食べる気になったの?」
「まあ」
「いいことだよ。食べなきゃ病気に勝てないからね」
母は琴音の食器を片付けるためにキッチンへ戻った。その背中の丸まり具合に困惑を隠す気持ちが窺えた。
またね、と名残惜しそうに手を振るネムを病室で見送ってから、琴音のなかで心境の変化が起こっていた。なるべく早くネムと会って遊びたい。そのためには身体をよくしなければならない。十分に体力が回復したら学校へ復帰することになっているが、今までのように食事を拒否していたら学校へ戻れないしネムとも会えない。
琴音は葛藤していた。正直治りたくない気持ちも強くある。心の中に様々な相容れない思いがあるが、病気を手放したくないという単純な気持ちもある。自分のあり方としての病気を失うのがなんだか惜しいのだ。
琴音は母の作る粥を食べるようになった。少しずつ米の分量を増やしていく。退院直後に食べた粥はまるで液体のようであったが、水分を減らしていくことで、少しずつ米の一粒一粒弾力ある形が感じられるようになった。米の味をきちんと味わったのは久しぶりであった。
ネムと会うという目標のためだけに琴音は粥を飲み込んだ。当初は一時的な目標にしようと思ったが、次に会うときだけでなくその後もネムとは会いたいので、また食べるのをやめるのは難しいのではないかと気づいた。どうしたらよいか分からなくて、琴音は考えるのを先延ばしにした。
母は以前のような喧嘩腰で接してこなくなった。まだ状況を理解しているわけではなさそうだが、琴音のために粥の味を様々に変えて提供した。娘が同じ味の粥に飽きて、また気まぐれを起こし食べるのを拒否することを恐れているらしい。琴音にはそう見えた。
やがて母は少しずつ粥以外も琴音に食べさせるようになった。よく煮たうどんややわらかいパン、缶詰に入ったシロップ漬けの桃、プリンなど、消化によいものを出して、琴音の反応を見た。琴音はどれも口にしたので、母はその度安堵した表情を見せた。琴音は食べられるものを確実に増やしていった。
ある週末に、麻理恵が両親とともに琴音の家を訪れた。琴音の退院祝いである。
麻理恵は琴音の様子を伺いながら、笑顔で話しかけてきた。
「琴音、退院できてよかった。思ったより顔色いいみたいだな」
「来てくれてありがとう。会えて嬉しい」
「この前会ったときよりよさそうだ」
「最近、ご飯少しずつ食べるようになったんだ。この間話した子――ネムっていうんだけど――と会いたいからね。そのために回復したくて、頑張ってる」
すると麻理恵は安心したのか、深く息を吐いて少し身体の力が抜けた様子を見せた。そしてこう言った。
「琴音は夏に旅行で会ったときから、ずっと身体がガリガリで身体が折れそうで、ウチ心配してたんだ。今までは何て声かけたらいいか分かんねえからそっとしといたけど、このまま元の元気を取り戻してほしい。健康になってくれ」
今まで摂食障害に関して口を出してこなかった麻理恵にまでお願いされてしまった。琴音は照れると同時に戸惑いを覚えた。
いよいよ後に引けなくなった。琴音は自分で外堀を埋めてしまった気がした。もう諦めて病気を手放そうか。琴音はまだ決心しなかった。だが周りはもう、琴音は治療に励むことにしたのだと疑いなく考えているらしかった。
体力がある程度回復したので、琴音は思いきって学校へ言ってみることにした。無理なら早退してしまおうと決めていた。両親も、途中で帰ってきてもいいから、と言っていた。
いつものバス停で降りると、歌羽が待っていて、駆け寄ってきた。
「おはよう、琴音」
「おはよう」
「来られるようになったんだね。よかった」
「一日全部出られるか分からないけど」
「帰りのホームルームまでいられるといいね」
琴音は教室でクラスメイトたちに次々と声を掛けられた。
「入院してたんだってー? 退院できてよかったね」
「植田、風邪大丈夫か?」
「ずっといないから何かと思ってた。心配した。顔見られて安心した」
普段あまり話さない生徒からも優しい言葉を掛けられ、琴音は照れくさかった。みんな私のことなんてろくに覚えてないと思っていたけれど、ちゃんと見ていてくれたんだ。長く欠席していることに気づいていたんだ。
担任は朝のホームルームの後、やはり琴音に声を掛けてきた。
「元気になった? 肺炎じゃ相当苦しかったでしょう。ずっと心配してたよ。今日からはまた一緒に勉強できますね。最初は無理せず身体を慣らしていこうね」
担任が話すと、後ろで結んだ髪が気さくに揺れるのだった。
授業はどれも分からなくなっていた。どの科目も記憶にあるものとは全然違う内容が展開されていた。歌羽にノートを借りて、追いつかなければと琴音は考えた。歌羽がそんなにきちんとノートを取っていないのは知っていたが、頼れるのは彼女しかいなかった。
「後でノート貸してくれない?」
「いいよ。もし多くてあれならコピーしなよ」
「ねえ、ちゃんとノート取ってた?」
歌羽は気まずそうに笑った。
「微妙」
「もうー。集中しなきゃダメだよ」
「ごめーん、書いてないところは先生に聞いてね」
学校の時間の最初は身体も精神もつらい気がしたが、時間が経つと慣れてきて、昨日までのブランクなど感覚として感じられなくなった。琴音は一日の課程を全て終えられた。
歌羽と一緒に帰りながら琴音は、学校思ったより大変じゃなかったな、と感じた。
「琴音、最後まで学校出られたね」
「うん。なんとかなった」
「結構なんとかなるもんだよ」
バスターミナルでの別れ際、歌羽は琴音の様子を伺いながら、こう聞いてきた。
「明日からも一緒にいられるよね」
「そりゃそうでしょ」
「だよね。よかった」
歌羽は一度黙って下を向いてから、もう一度琴音に顔を向けた。
「琴音が入院してる間、私一人でずっと寂しかった。これからはまた二人で過ごせるんだよね」
「大丈夫だよ」
「うん。そうだよね。じゃあまたね」
歌羽はそんなに寂しかったのか、と琴音は意外に思った。私がいなくても、他の誰かと一緒にいるから平気かと思っていたのに。なんであんなに必死に私が側にいることを確認するのだろう。
バスの中で、琴音は歌羽のことが、なんだかいじらしく思えた。
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