第三十四話「好かれる努力の顛末(中学校の思い出)」
中学時代のことである。豊子が全ての権力を手にして支配しているパート内では最低の扱いを受けている上、あまりにも顧問に嫌われていて部で肩身が狭すぎるので、琴音は考えた。せめて顧問からの評価が上がれば部の居心地が少しは改善するのではないだろうかと。
顧問はあるとき
「先生から嫌われてつらいと文句を言う人がいるけれど、嫌われたくないなら好かれる努力をすればよいだけの話ですよね? 好かれるための努力の一つもしないで怠け、嫌われるのが嫌なんてブーブー言うのは筋が通らない」
と言っていた。顧問の一番のお気に入りの豊子は好かれる努力など一つもしているように見えないが、ものすごく好かれているのはどういうことなのだろうと琴音は疑問に思った。だが自分ももしかしたら、努力すれば嫌われなくなるかもしれない。琴音は思い至った。
琴音は顧問に好かれるため、早起きして学校が開くのとほとんど同時に登校して、部活が始まる前に自主練習をするようになった。
二週間ほど経って、朝練の集まりで、顧問が言い出した。
「ここ最近急にやたら早く部活に来て練習して、努力してますアピールしている人がいますけど、心が篭っていないならそんなことをしても意味ないというか。分かるんですよ。真剣に取り組んでいるか、ただやったふりをしているか、音色は嘘をつけません。それどころか、本人の様子を見れば即分かります。あ、この人は本気で音楽に向かい合っているわけじゃないんだな、ただみんなとか先生に見せたいだけなんだなって。先生、そういう媚び方する人大っ嫌いなんで、まあ、本人は言って分かる人じゃないと思うんで放っておきますけど、みなさんは、決して真似しないように。そんなことして先生の気を引けると思ったら大間違い。舐めるなって話なんで」
琴音は羞恥心でいっぱいだった。顧問から明らかにほとんど名指しで批判された。それをみんな知っている。どんな顔をしてここにいればよいのか。頻繁にあることだが全く慣れない。琴音の上には、強烈な痛みが繰り返し突然降りかかるのだ。
部室から各自練習場所へ向かうとき、周りにいる部員がみんな自分の方を見てひそひそ話しているのが分かり、あんまりつらくて琴音は泣き出してしまった。
早く泣き止まなければまずい、パートで責められる。必死に涙を堪えようとしたがそのまま泣き止めない。練習場所の教室で、豊子に
「なに被害者ぶってんの」
と冷たく言われた。琴音は被害者ぶろうとかそういう作為的な気持ちで泣いているわけではなく、感情が決壊して勝手に涙がとめどなく流れてくるのだったが、そうは思ってくれないらしい。この部では、琴音の言動はいつも最悪な方に解釈される。
Cがわざわざ手を挙げて発言した。
「植田先輩が悪いと思います。心が篭ってない努力したフリでアピールされたら、誰だって嫌になると思います」
後輩はいつだって自分を追い詰めてくるのだ。追い討ちの言葉は傷口に塩を塗るものであったし、何より頭に来た。だが耐える以外のことは許されない。
琴音はその場から離れたかったが、仕方なく楽器を口に当て、練習した。嫌でも起こる横隔膜の痙攣により演奏を中断する度に、毎回豊子と後輩が大声で琴音を責めた。身体の反応なので責められてもどうすることもできない。ただ、その手の理不尽はいつものことであった。
媚びているというのは図星だったから琴音の心理的なダメージは大きかった。だが、朝早く来て自主練習をするのが、そんなに悪いことなのだろうか。そこまでみんなに責められなければならないことなのだろうか。
早起きするのは簡単ではなかった。琴音はやりたいことも諦め早く寝て、朝は無理やり起きていた。犠牲を払ってまで努力したのにそんな風に責められるのではやりきれない。
好かれる努力をしても、全く報われなかった。顧問は自分が嫌っている生徒がどんなに頑張ったとしても扱いを変える気はないのだろう。琴音は改めて思い知った。
もう怒られたくないので、琴音は部活の朝練にはギリギリに行くようになった。
一ヶ月ほど経った頃、合奏練習のとき、琴音はまたしても顧問に演奏がなっていないと言われて怒られ、一人だけ立たされて吹かされ、しつこく詰られ、責められていた。あなたのような人は部員でいる資格がない、と寂しくなることをいつものように言われていた。琴音は苦しさと無気力さから無表情になり、俯いて、顧問の激しい叱責を頭から浴びていた。
そのとき、琴音は思いもよらない言葉を耳にした。
「あなたは朝練の前の自主練、一回もやったことないじゃない。努力する気がない人にはこの部にいてもらいたくありません」
琴音は驚いて目を見開いた。ほんの一ヶ月前に二週間も毎日自主練をやったではないか。それを苛烈な言葉で批判してやめさせたのは顧問自身ではないか。もう忘れてしまったのだろうか。
だがそれを指摘することは許されない。顧問の言うことは絶対である。もしこの部活で顧問が2+2=5だと言ったら、2+2=5となるのだろう。部員たちは一斉に2+2=5だと平気で言うのだろう。それ以外の答えは許されない。
非常に不服だが、琴音はただ謝るしかなかった。琴音がいくら謝っても、顧問は満足せず、一向に怒りも収まらないのであったが。
合奏練習の後のパート練習で、やはり後輩のC,Dと豊子に囲まれ、責められた。
「植田先輩一人だけ自主練やんなくて恥ずかしくないんですか?」
「みんなの前でいつも恥をかいているから恥ずかしいとかいう感覚なくなったんですか?」
「自主練くらいできないの? それだけの努力もしたくないの?」
琴音は不思議で仕方ない。みんな一ヶ月前のことを綺麗に忘れてしまったのだろうか。人間そんなに簡単に記憶を改竄できるものなのだろうか。それも、みんなで示し合わせたみたいに同じ方向に。なぜ誰も疑問に思わないのか。私の記憶が間違っているのだろうか。
琴音はいよいよ分からなくなった。自分は自主練をしてもしなくても責められる。明日からどちらを選んだらよいのか分からない。どうせ何をしても自分は顧問に怒られるのだという諦めの気持ちも生まれた。どの道を選んでも苦痛にしか繋がっていない。
遠田先生は私のことが嫌いだから、私が何をやっても怒るんだ。理由なんて後からつければいい。私が何かしても、しなくても、怒られることは最初から決まっているんだ。
先生の中では、私の努力の後ろにはいつも×0がついていて、どれほど努力しても認められることはない。全部ゼロに帰してしまう。
深い悲しみを味わいながらも、明日からの方針は決めなければならなかった。琴音は仕方なく、朝練より少しだけ早めに行って、自主練習しているのかどうか微妙なタイミングを狙うことにした。毎朝それを窺うのがとても徒労だった。
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