第二十話「過去の顛末」

 過呼吸の発作は治まったが、摂食障害のせいで危ない状態に陥ったのは間違いないので、琴音は入院することになった。かかりつけの精神科のある病院へ転院し、最低限の体力を回復させるため一週間くらい点滴治療を受けた。


 入院中にカウンセリングも受けた。カウンセラーは若い女性の先生だった。何度か話すうちに、琴音は中学時代のことをぽつりぽつりと話すようになった。毒と呼べるほど有害な記憶は、身体の中にあるだけで自分を蝕むが、話すことで口を伝って外に出すときも、気道や喉、口に害をなすように感じられた。話すのには勇気がいるのと同時に、痛みを伴った。


 カウンセラーは琴音の苦しい記憶に驚いていた。


「学校で問題にならなかったの?」


「お父さんとお母さんは何も言わなかったの?」


 と気の毒そうな表情を浮かべて尋ねてきた。顧問のやっていることも豊子の仕打ちも一切問題にはならなかったし、琴音が両親にそのことを言わなかったので知られることはなかったというと、


「自分一人で立ち向かわなきゃいけなくて、つらかったね。大変だったね」


 と優しい声で言われた。大げさなようにも思われたが、もしかしたらあの中学校の部活はよほど異常な環境だったのかもしれないとも考えられた。


 琴音は一週間ほどで退院した。



 歌羽は朝、バスターミナルで、神妙な顔をして琴音の様子をうかがっていた。 


「食べてないから具合悪くなっちゃったんでしょう?」


「そうみたい」


「ねえ、やめようよ。こんなことしてたら死んでしまうよ」


 歌羽はすがりつくような眼差しで琴音に訴えかけた。


 琴音はしばらく返答に困っていた。


 そして出てきた言葉は心の奥に隠していたものだった。


「死にたいのかもしれない」


「ええっ」 


 歌羽は驚いていた。


「死にたいの?」


「もしかしたら」


「……なんで死にたいの?」


「私二年前から、あんまり生きてたくないんだよ」


「何かあったの?」


「麻理恵のこと」


 琴音は話し出した。



 麻理恵は中二のとき、急に塾の先生と付き合い始めたの。相手は白田先生っていったけど。向こうから付き合おうと言われたんだって。麻理恵はそれまで男の子と付き合ったり仲良くなったりしたことがなかったみたいで、好きだって言われたのがすごく嬉しかったんだと思う。


 あの子はちょっと幼いところがあってね。よく考えもせず無謀な冒険をしてしまったりする。だから、大人の人が自分みたいな中学生と付き合うのは犯罪だって、たぶん分かってたと思うけど、断らないで付き合い始めちゃったんだ。


 そのことは私にだけ話してくれた。


 それで私はそれを止められなかったの。


 麻理恵は何かに夢中になると、自分の世界が全部それってなるくらいのめり込みやすいの。有名なカーチャってキャラクター知ってるでしょ? 麻理恵はあのうさぎが大好きでね。いつからか忘れたけど、身の回りのグッズはみんなカーチャでそろえているくらい、カーチャが好きで。


 白田先生に関しても、あんな感じで、世界の全ては白田先生ってなっちゃったんだと思う。心の全部で、白田先生を好きになったのが私には分かるよ。 


 それで麻理恵は白田先生としばらく付き合ってた。セックスしたって聞いたときは気持ち悪くなった。私にはそういうことをするのが信じられなかったから。周りには隠してた。そう、普段は塾で二人きりになってこっそりいちゃいちゃしたり、夜に麻理恵の家の前まで白田先生が車で来て、車の中で話をしたりしてたみたい。休日は私と遊んでることにして、ドライブして、白田先生の部屋まで行ったりもしたみたいで。 


 でも裏で、私の友だちが麻理恵に嫉妬していたの。その子は白田先生のことが、恋愛とまではいかないかもしれないけど、好きだったみたいで。まさか本当に麻理恵と付き合ってるとは思わなかっただろうけど、仲がいいのが気に入らなかったみたい。


 あるとき、その子は麻理恵と白田先生がこっそり塾で二人きりになるのを見て、大騒ぎした。私に言ってきて、私は止めたけど、たぶん親を通して塾に密告したの。


 それで白田先生と麻理恵の関係は塾にバレちゃったんだけど、麻理恵は親にバレる前に白田先生と二人で逃げようとした。白田先生はどこまで本気だったか分からないけど、麻理恵は白田先生の車に乗って、家出したの。 


 麻理恵がいなくなったから、麻理恵の親もうちの親も大騒ぎだった。白田先生のことももちろん知られてた。私は苦しくてたまらなかった。私だけは麻理恵に詳細知らされてたからね。親に隠さなきゃいけなくて、つらかった。


 でも一晩経ったら、白田先生は、麻理恵は家に帰った方がいいって言い出したみたい。麻理恵は二人でそのまま遠くで生きていこうとしていたから、思いもよらない話だったと思う。――考えただけで、胸が苦しくなる――最初は私に「助けて」ってメッセージ送ってきてたけど、説得されたのか、諦めたみたいで、夕方伯父さんに帰ると伝えてと連絡があった。


 麻理恵の両親は、麻理恵を探すために遠くの親戚の家にいたから、代わりに私の両親が麻理恵を迎えに行くことになった。私は家にいたかったけど、ダメって言われて連れて行かれた。麻理恵は普通にしてたけど、麻理恵の家の前に着いたき、「お父さんとお母さんには全部話しなよ」って私のお父さんが言って、麻理恵は泣き出した。見送りながら、私のお父さんが麻理恵の悪口を言って、私の心は罪悪感とショックで壊れた。


 麻理恵はそれから学校に来られないみたいだった。連絡も来なくてね。スマートフォンごと取り上げられたんだと思う。


 しばらくして、一度会ったんだけど、麻理恵、見た目がすごく変わっててびっくりした。そのとき話してくれたのは、白田先生に言われたことで、つまり、ちゃんと両親に話をして同棲しよう、高校も白田先生の家の近くにしよう、結婚できる歳になったら結婚しようって、言われたんだって。あの日はとりあえず家に帰って、麻理恵はきちんと学校へ通い、白田先生は同棲の準備をするとかなんとか言われて説得され、帰されたんだって。でも、やはりというべきか、白田先生は段々連絡を返さなくなって、そのときには音信不通になってたみたい。


 麻理恵は静かに泣いてた。でもそれだけじゃなかった。急に大声で泣き叫び始めたから何かと思ったら、妊娠してたんだって。それを伝えても、白田先生は無視したままだったみたい。


 それでまた大騒ぎになった。白田先生を訴えることになって、私のお父さんが、仕事で関係のある弁護士事務所を紹介して、麻理恵の両親は白田先生を訴えた。それで一応白田先生は出てきて、かなり話し合って、白田先生からお金を取る代わりに警察への訴えを取り下げることになったんだって。麻理恵とは二度と会わないことにもなったみたい。


 麻理恵はその間に入院して中絶した。私はその辺りよく聞いていないけど、可哀想でならないよ。


 麻理恵ね、この間会ったとき、リストバンドで手首切った痕を隠してたよ。私には麻理恵の悲しみは想像しきれないよ。世界の全てだった人に裏切られて、痛い思いをして、我が子も失って。なんであの子がそんな思いしなきゃいけなかったんだろうって思う。



 もう学校に着いていた。琴音は話すうちに涙を流していた。


「麻理恵があんなことになって、罪悪感もあるし」


「え、琴音何かしたの?」


「それは言いたくない」


 琴音はきっぱりと拒否した。


「そういうわけで、私はあのときから、あんまり生きてたくないんだよね」


 歌羽はしばらく黙っていた。

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