第十九話「発作再び」

 夏休みは終わり、学校に行く日々が戻ってきた。あっという間に一ヶ月が過ぎ、十月の文化祭が開催されていた。琴音は学校の名前がついたお祭りの初日、歌羽とともにクラスや各部活の出し物を回っていた。


「午後一で吹奏楽部の演奏あるんだ。聞きに行こうよ」


 と歌羽が学食で、昼食のうどんを食べながら提案した。


「吹奏楽部?」


 琴音はその響きだけで嫌な気持ちになった。こちらは手元に何もない。相変わらず何も食べていないのだ。


「吹奏楽、かっこいいじゃん。私結構好きなんだ。体力ないから自分では演奏したくないけど、聞くとかっこいいなと思う。琴音も去年までやってたんだし、好きでしょ? 行こうよ」


「そうだね」


 琴音は嫌で嫌で仕方がなかったが、断れなくて承諾した。



 パンフレットに従って二人は吹奏楽部の演奏会場へ行った。会場には、生徒や保護者、学校外の人たちなど、大勢観客が集まっていた。


 やがて幕が開き、催し物が始まった。金属製のきらめく楽器と編成を見ると、琴音は鳩尾のあたりに圧迫感を覚えた。身体が身構えてしまう。


 部活の雰囲気はT中のそれとは全く違っていた。三分の一くらい男子生徒で、指揮は教師ではなく部員が交代で行っていた。指揮者は女子が二人、男子が一人と三人いて、それぞれ指揮をしないときは楽器を演奏していた。


 全体的にラフな雰囲気だった。曲目を演奏するだけではなく、演奏の前に毎回指揮者が中心となって軽くトークを行い、観衆を笑わせていた。指揮者の発言に、演奏者たちは嬉しそうに足を踏み鳴らして応え、盛り上げていた。


 男子の指揮者は次に演奏する曲を発表してから、トークに移った。


「この曲は皆さんご存じの通り、『初恋のプリンセスへ』という恋愛ドラマの主題歌です。先日、部員のRさんに、このドラマの主演のアイドル歌手の相模くんに声が似てるねって言われました。僕が浮かれていると、Rさん、『声だけは似てるね、声だけは』って『だけは』をしきりに繰り返すんです」


 ここで一同が笑った。部員たちは手を叩く代わりに一斉に足を踏み鳴らした。


「でも僕は個人的に、彼にシンパシーを感じます」


 と指揮者がしたり顔で言うと、トロンボーン担当の男子生徒が


「声だけ相模くん」


 と叫び、再び笑いを誘っていた。


 トークで場を和ませた後、演奏に入った。彼らの奏でる曲は見事だった。T中の演奏とは全くの別物だと琴音は感じた。レベルが高いだけではなく、部員たちがリズムに乗って、楽しんで活き活きと演奏しているのが、表情からも仕草からも音色からも感じられた。T中の部員たちのような苦しい必死さがなかった。


 こんな吹奏楽もあるんだ、と琴音は感心した。


 ところが、聞いているうちに、恐れていたことが起きた。


 何曲目かが、去年のT中の文化祭で演奏されたのと同じ曲だったのだ。琴音が一人だけ部室からも舞台からも締め出されて、遠くで悲しい思いをしながら聞いた、あの曲だった。


 そして演奏を少し聞いただけで、あのときのT中の吹奏楽部と全く同じ楽譜を使っていることが琴音には分かった。


 顧問の冷たくて厳しい叱責、豊子の執拗で意地悪な仕打ちとそれに同調する後輩、独りぼっちで廊下でマウスピースに唇を当て続けたあの寂しい時間。堰を切ったように何もかも、否応なしに思い出された。


 琴音は具合が悪くなった。栄養不足の状態で無理に動かしている身体の苦しさが急に何倍にも増した。だがここで迷惑を掛けるわけにはいかない。


 幸か不幸か、それが催しの最後の曲だった。



「明日も同じ時間に私たちの演奏があります。今日とはまた違う曲をお聴かせしますので、皆さんぜひ明日も来てください」


 全員起立している指揮者と他の部員は頭を下げた。お開きになった。


 琴音はたまらずもう目から涙を溢れさせていた。涙を見せるわけにはいかない。みんなから隠れるために、目立たないところを探そうと走り出した。


「ちょっと、どこ行くの!?」


 歌羽は急いで人混みをかき分け、後を追ってきた。


 周りに人が少ない廊下の端に辿り着くと、琴音は大声を上げて泣き出した。感情が決壊していた。思考は停止し、代わりに直視に堪えない苦しい記憶が脳裏になだれ込んできた。耐えがたくて、子どもが泣くように泣くことしか琴音にはできなかった。パニックを起こしたといってよかった。


 記憶と現実の区別がつかなくなって、琴音の意識は中学生の頃の自分に戻っていた。


 当然歌羽は何が起こったか分からないようだ。


「どうしたのよ、ねえ」


 と狼狽して、しゃがんだ琴音の背中をさすってくる。だが琴音は答えられない。


 むせび泣くうちにやがて、身体の奥から一番恐ろしい兆候が現れるのを琴音は感じ取った。


 ダメ、それだけは、いけない、先生に怒られる、豊子ちゃんにも怒られる、退部になる、高校行けなくて人生が終わる、みんなから見捨てられる、だから、早く止めなくちゃ、息をしなくちゃ、他はどうなっていいからそれだけは……。


 琴音は混乱しながら呼吸を整えようと一生懸命息を吸った。吸えば吸うほど呼吸ができなくなって、苦しくなっていく。琴音は廊下に仰向けで倒れてしまった。身体に全然力が入らなくて、起き上がれなかった。


 早く治めなくちゃ、息をしなくちゃ、立って歩かなくちゃ……。


「大丈夫? どうしたの? ねえ琴音」


 歌羽は更に困惑して琴音に話しかけていた。呼吸の様子が明らかにおかしくなったので慌てた様子だった。そして周りを見渡し、どこかへ走っていた。数十秒後、琴音の頭の後ろで大声がした。


「どうしたー!」


 歌羽は近くにいたらしい坊主頭の体育教師を連れてきていた。


「過呼吸か?」


 琴音は頷こうとしたができなかった。


「医務室へ行こう。おぶされるか?」


 体育教師はしゃがんで背中を向け、促したが琴音は起き上がれない。


 すると今度は足の方から別の声がした。


「田野川先生、手伝いますよ。二人で運びましょう」


 そう穏やかに言ったのは、琴音が教わったことのある男性の地理教師だった。通りかかったところらしかった。


「小岩先生、ありがとうございます。それじゃ、行きましょう」


 田野川は琴音の肩を支えながら背中をもち、小岩は


「ちょっと腰をもつよ。他意はないからね」

 と言いながら琴音の脚を折りたたむようにして腕と胸に抱え、腰の下を両手でもって支えた。



 琴音はそのまま二人の教師によって医務室へ運ばれた。医務室には年配の養護教諭と彼女よりは若い学校保健師がいた。


 ベッドに横たわった琴音に、養護教諭は


「植田さん、息を、吐いて、吐いて」


 と自分も短く息を吐きながら働きかけた。


 学校保健師は


「植田さん、あなた痩せすぎよ!」


 と琴音の肩をさすりながら悲しげにやや激しく指摘した。


 最初は過呼吸の発作だったが、収まらないうちに、本当の呼吸困難に陥っていた。


「こんなに痩せてるから、体力が足りなくて、自力で回復できないんだろうね」


 と養護教諭が言った。その言葉が終わるか終わらないかのうちに琴音の脚は痙攣しだした。琴音は息ができない死にそうな苦しみのうちに意識が薄れていた。


「これは救急車だな」


 養護教諭が言うと、間髪入れずに若い学校保健師が、指先だけごく軽く動かして、固定電話のボタンをまるで試しに押してみるかのように静かに百十九番通報をして、救急車を呼んだ。


「もうすぐ救急車来るからね、大丈夫よ植田さん」


 二人は側から離れず、苦しがる琴音を励ました。



 救急隊員は到着するなり慣れた様子で琴音の身体を持ち上げ、直ちにストレッチャーに乗せた。


「チアノーゼ」


 救急隊員の一人の声が琴音の頭の上で響いた。それを聞いたところで、琴音の意識はそのまま遠のいた。



 気がつくと、琴音は病院のベッドに横たわっていた。発作は治まっていた。目を開けた琴音を見て、傍にいた母が


「気がついたみたいです」


 と医者に言った。


「また発作出ちゃったね」


 母は向き直って、優しいが心配の色が滲んだ少し悲壮な声で言い、琴音の頬をなでた。琴音は何度か息を吸って吐いて、本当に呼吸ができることを確かめた。


 養護教諭が救急車に同乗して来たらしく、病室にいた。


 少ししてから、教頭と担任教師が病室に現れた。教頭は


「琴音さんは本日、笹野さんという同じクラスの女子生徒と、文化祭を見て回っている途中、午後になって急に体調を崩したようです」


 などと母に説明をした。担任は母に琴音の荷物を渡した。琴音には励ます言葉をくれた。


 琴音はここへ来て、ようやく冷静さを取り戻した。もう中学校は卒業したから、過呼吸の発作を起こしてしまっても、誰にも怒られないし嫌がられないんだ。部活をやめさせられたりしないんだ。


 安堵したら、身体がまた苦しくなり出した。発作によって体力が奪われ、起き上がれないほど疲弊していた。

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