第十三話「心は上昇、身体は下降」
以来歌羽は本当に態度を改めた。以前のような意地悪を言わなくなった。琴音はかなり安堵した。歌羽はその代わり、病気の心配をして口出しをしてくるようになった。
「ちゃんとご飯食べなよ。見る度やつれていってる気がするよ」
「痩せるのはいいことだから、成果が出ているのは嬉しい。もっと痩せていきたい」
「ダメだよ。こんなこと続けていたら餓死しちゃうよ。死んだら困るでしょ?」
どうだろう。私は自分が死んだら困るんだろうか。生に執着する気持ちはあるのだろうか。琴音は分からなくなって返事を返せなかった。
歌羽は続けざまに言ってくる。
「琴音はどう見ても痩せすぎだよ。入学したての頃は普通だったけど、今はあの頃と全然違う。他の子に太ってるとか痩せてるとか言うのはよくないとは思うけど、限度を超えてると思うから、私ももっと食べなと言いたくなるんだ」
「心配してくれるのは嬉しいよ。ありがとう。でも私は大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ。今朝も学校まで歩くの大変そうだったじゃん」
歌羽は自分の弁当箱を琴音の方に押し出した。
「ほら、ご飯半分くらい取って食べなよ。お箸つかっていいから。まだ私口つけてないから」
「そんな、大丈夫だって」
「お弁当用意しなきゃダメだよ。とりあえず今日はこれ食べな」
「いい、いい」
そんなやりとりをしていると、突然教室の入り口で声がした。
「植田琴音さんって、いる?」
琴音の名前を呼んだのは上級生の男子だった。大きい体格で、顔にはニキビが目立ち、薄く茶色に染めた後ろ毛を伸ばしている。琴音は若干の恐怖とともに一瞬何かと思ったが、そうだ、あれは今日の約束だった、と思い出した。
「私です」
琴音は恥ずかしかったが聞こえるくらいの大きな声を出し、手を挙げた。
彼がこちらへ近づいてくるので、琴音は立ち上がって彼のところへ行った。教室にいる他の生徒の視線が気になったが、とくに注目はされていないようだった。
「あんたが植田琴音さん?」
「そうです」
「そう。俺のいとこ、花澄っていうんだけど、あんたとライン交換したいんだとさ。話行ってるよね?」
「はい。聞いてます」
彼はメモ用紙を差し出した。
「これが花澄のラインのID。確かに渡したからな。向こうにそう伝えてくれよ?」
「分かりました。わざわざありがとうございます」
琴音が頭を下げると、彼は「いいっていいって」と言うように、もしくは「じゃあな」と言うように、曖昧に手を振って、去って行った。
琴音は渡されたメモ用紙を手の中でそっと開いてみた。花澄とはネムの本名で、彼はネムのいとこだ。
ネムと、会って遊んでみたいね、と最近話していた。慎重に互いの住んでいるところを伝え合うと、意外と近くであることが判明した。そして、ネムのいとこが通っている高校と琴音の通っている高校が同じであることが明らかになった。
ネムはいとこに頼んで連絡アプリのアカウントを教えると言っていた。これでブログのDMではなく、プライベート用の連絡アプリで繋がることができる。
インターネットで知り合った人間と会うのは危険が伴うので、このように互いの言っていることが本当で、二人とも高校生であることを「認証」したのだった。
知らない上級生と話した後、満足げに微笑む琴音に、歌羽は怪訝そうな顔で尋ねた。
「今の誰?」
「友だちのいとこの人」
「へえ。何の用だったの?」
「友だちから私に渡すものを経由してくれたの」
「ふうん」
琴音はスマートフォンを取り出し、早速ネムのアカウントへ繋がるための申請を送った。するとすぐネムが承諾して繋がることができた。
嬉しく二人で最初のやりとりをしたが、歌羽が無表情で黙ってお弁当を食べているのを見て、琴音はまた後で、と切り上げた。
歌羽は確かに琴音には優しくなったが、麻理恵のアカウントは相変わらず監視しているようだった。あるとき琴音はおそるおそる尋ねてみた。
「麻理恵のアカウントまだ見てるの?」
「うん……」
消極的に肯定したあと、歌羽は
「琴音にもこの人にも、直接迷惑かけたりしないから」
と言い訳したのだ。
状況が改善したのは確かだった。歌羽は一時期のような意地悪なことを言わなくなった。だが悪い趣味は一向にやめそうにないし、琴音の心の傷は全く癒えていない。最初は大きく改善したように思われたが、いざそうなってみれば、まだ不足ばかりだと気づいた。
きっとこれ以上よくはならないんだろうな、と琴音は静かにがっかりした。
ネムとのやりとりは琴音にとって純粋な救いであった。このところ愛情に乾いた砂漠のような世界で生きていたので、優しくしてくれる相手に出会えたことが奇跡としか思えなかった。
であればこそ、琴音はその世界にいつまでも浸っていたくなった。この引力は逃避であったのだろうか。現実から逃げ、甘やかしてくれる世界に閉じこもっていようとする臆病な衝動であろうか。それとも友だちと積極的に関わろうとする、今の生活において唯一の前向きな態度と呼ぶべきであったか。あるいは両方か。
かつては困難と苦悩と痛みが世界の全てに思われた。いくら苦役を続けても待っているのは苦役でしかなく、周りの人間には与えられる報酬は自分には用意されていないし休息さえもなかった。
光が届かない深海の底にずっといて、太陽の恩恵など忘れ去っていた。極寒の水に浸されて、強烈な水圧に潰されかけていたら、シルエットが恐ろしくグロテスクになってしまった。
慣れない光と温もりは琴音の中にある屈折を生み出した。
来る日も来る日も激しい攻撃にさらされているうちは、緊張しているために往々にして意外と調子を崩さずにいられる。だがその緊張が解けたとき、それまで感じなかった痛み苦しみが一気に明るみに出る。豊子と顧問と後輩による直接の圧迫から完全に逃れた琴音は安堵した。その暴力性があまりに激しかったので、そこから逃れられたときの弛緩は精神の範囲を超え。身体全体で引き起こされた。
琴音の、摂食障害という名の反抗は、すなわち安堵の証拠であった。安全な場所に辿り着いたために安心して調子を崩したのだ。
琴音の体重は著しく減った。もう少しで女子小学生の平均レベルまで落ちてしまいそうだ。身長は同学年の女子の平均くらいなので、異常に痩せて見える。胸の下には肋骨が浮いて見え、腹部は凹んでいる。腕や脚は折れそうなくらい細くて、微弱な筋肉だけがかろうじて関節と骨を繋いでいるようだ。頬はますますこけて病的で、顔色はずっと土気色のままである。いくら眠っても隈が取れない。肌や髪、爪には艶がなくて乾燥している。
この病気に関しては周りの人間誰もが嫌悪し、食事を拒否する琴音を改めさせようとしてきた。だが唯一ネムだけは食べろ食べろと言ってこなかった。「食べたくない気持ち、分かるよ。つらいときは、どうしても食べる気が起きないんだよね」と理解してくれる。
琴音はネムを頼りにして、ますます頑なに食事を拒むようになった。みんな食べろってうるさく怒ってくるけど、私にはネムという味方がいる。他の人たちなんて放っておけばいい、と考えるようになった。
このようにして、琴音は安堵のうちに病気を悪化させた。
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