第十話「一つの答え」
琴音が学校へ行く気になったことを母は喜んだ。琴音は前の晩に、母に言っておいた。
「お弁当は作らなくていいから、その代わり昼食代をお金でちょうだい。自分で好きなものを買って食べたい」
母は
「本当に食べるのね? 約束だからね」
と何度も念を押して承諾した。朝から弁当作りをするのはどうしても負担なので、作らないで済むならその方が楽だろう。だから反対しないだろうと琴音は踏んでいたが、その通りになった。
もちろん琴音は渡された昼食代で昼食を買って食べる気はなかった。せっかく作ってもらったのに中身を捨ててしまうのが申し訳ないし隠すのも面倒なのでお金でほしいと言ったのだ。
次の日、琴音は久しぶりに登校した。季節は梅雨も終わりに近づいていた。この日は曇り空だった。熱気を纏った湿気が地表を覆っていて、ずいぶんと蒸していたが、風が肌寒かった。夕方からまた雨が降るというので、傘をもっていった。地面は昨日降った雨が乾ききっていなかった。泥臭い雨の匂いがする。
バスターミナルに着くと、先に来て待っていたらしい歌羽が駆け寄ってきた。久しぶりに登校することはもう連絡してあった。彼女も傘を片手にもっていた。
「おはよう、琴音! 久しぶり」
「おはよう。久しぶり」
「ずっと休んでるからどうしているかと思ってたよ。何かあったの?」
琴音は一瞬答えに困った。まさか歌羽の相手をするのがつらいから来なかったのだとは言えない。
「病気になっちゃってね」
「病気!?」
「そう。それで病院を受診したりなんかして、来られなかったんだ」
「何の病気か聞いていい?」
「うん。摂食障害だって」
「摂食障害って」
歌羽は視線を斜め上にやって、何かを思い出そうとしているようだった。
「確か、ご飯食べられなくなっちゃうやつじゃなかった?」
「そう」
「だよね、だよね。えー」
歌羽は琴音のことをじっと見てきた。目線を上下に動かして、全身を観察していた。
「やっぱそうだよね。琴音、お昼も全然食べてないもんね。痩せすぎだし。ずっと思ってた」
「そう」
「心配だよ。私にできることがあったら言ってね」
歌羽がこんなに気遣ってくれるなんて、と琴音は驚いた。私のことなんてどうでもいいと思っているかと思ったら、食べていないことをきちんと見ていたし、心配してくれた。意外だった。
昼休み、自分の席までやってきたのに何ももっていない琴音のことが、歌羽は気になるようだ。
「お弁当はどうしたの?」
「作ってもらわないことにした。その代わりお金もらうんだ」
「じゃあ買ってこないと」
「いいよ。食欲ないし」
「そんなこと言ってたら病気悪くなっちゃうよ。待っててあげるから購買でも言ってお昼買ってきなよ」
「大丈夫」
歌羽はもう二言三言食い下がったが、琴音が固く断ると、諦めたようだった。
夜に、歌羽から電話が掛かってきた。
「夕食は食べたの?」
「あんまり食欲がなくて」
「ねえ琴音、私謝りたい」
琴音は戸惑った。
「何を?」
「私、最近調子に乗ってわがまま言い過ぎたよ。琴音に迷惑掛けちゃった。反省した。もうわがままなこと言わないことにするよ。ちゃんとする」
琴音は安心した。これで歌羽の機嫌を取ることに全エネルギーを費やさなくてよくなるだろう。高校生活の負担も少しは減りそうだ。このまま毎日通っても、大丈夫かもしれない。
「それでさ、琴音の病気が早くよくなるよう私も願ってるよ。協力もする。早く治しちゃおうよ」
そちらはどうだろうと琴音は考えた。別に治りたくない。このまま食べないでいたいし、面倒だから誰にも余計な口出しをされたくない。
なんて返せばいいだろうかと考えていたら
「じゃあ私はもう寝るね。おやすみ」
と向こうから会話を終わりにしてくれた。言いたいことは全て言い切ったのだろう。琴音の話す余地を計算に入れていないのは歌羽らしかったが、返答に困っていた今は都合がよかった。
琴音はベッドに腰掛けていたが、座っているのがつらくて、そのまま横たわった。何も食べていないせいか、お腹がしっかりしなくて、上半身と下半身の繋がっているところがちぎれて取れてしまいそうだった。身体を捻ると、安定しなくて倒れそうになる。みぞおちの辺りがとても嫌な感じに圧迫された。
全身の節々が痛いし、お腹の奥も痛くて、変に力が入るのか浅い部分も筋肉痛を起こしていた。吐き気も相変わらず続いていた。喉が苦しいという症状もある。頭が重くて揺れてしまう感覚もあった。
この頃は毎晩眠りが浅かった。夢を見ていても意識が半分残っているし、すぐ目が覚める。極端にお腹が空いているという感覚が眠っている間も消えない。しかも悪夢ばかり見る。たまに異常な吐き気に見舞われて目が覚めた。そういうときは胃液が口の中まで逆流してくる。お腹から食べ物は何も出てこなかった。ほとんど食べてないから当然ではあるが。琴音は夜が怖かった。毎日欠かさず寝る時間が訪れるのがつらい。だからといって昼間も楽しくはなかった。しかも眠りが浅いせいか寝不足の感覚が常にある。
ネムとの会話だけは純粋な希望だった。歌羽もこれから優しくなるなら、希望になるかもしれないと一瞬考えたが、その前に麻理恵のネットストーカーをするのをやめてもらわないと、希望とは程遠いだろうと気づいた。
学校に行った週は久しぶりに書道教室へも行った。墨汁の匂いを嗅ぐと、書道教室の雰囲気を思い出した。師範には
「ずいぶん痩せたね。病気だったって聞いたけど、よっぽど悪かったのね」
と心配された。
半紙に向き合ったとき、字がうまく書けないのを感じた。休んでいたために勘が戻らないのかと思ったが、いくら書いても以前のように書けない。不穏な感覚だった。書いても書いても、思うような形にならないし、書こうとする文字が頭の中にうまく描けなくなっていた。
書けば書くほど、下手になっていく。我に返ると、席の周りが書き損じだらけになっていた。
仕方なく、下手なのを承知の上で師範に見せに行った。
「私、全然書けなくなっちゃったんです」
と琴音は俯いて告げた。
「この調子だと、今月は進級は難しいかもしれない。でも気長にやっていこう。肩肘張ると余計よくないよ。書いているうちにいつの間にかスランプは脱するものだから、大丈夫。最初から上手な人なんていないよ」
と師範には励まされた。しかし琴音はスランプとか勘とかそういう問題ではないのを感じ取っていた。
自分の中で、確実に何かがおかしくなっている。
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