第八話「画面越しの素敵な出会い」

 夜中に琴音はベッドの中で、スマートフォンのアプリの検索欄に「摂食障害」と打ち込んでみた。たくさんの記事を読み、検索結果の深いところまで潜り込んでいった。


 病気のことを全く知らない人向けのライトな記事群を抜けると、とある団体のホームページに辿り着いた。


 その団体は、摂食障害の患者と家族、元患者とその家族が参加する、とある地域の家族会というものらしかった。読んでみると、会場に大勢で集まって、集団療法という治療を行うらしかった。克服した人の話を聞いたり、当事者として気持ちを告白したりするらしい。


 琴音は自分がそこに参加することを考えてみた。両親は参加してくれるだろうか。父は仕事で忙しいと言って断るだろう。母は怒るばかりで、そんなことになる前に治せと迫るに違いない。私も治ろうとは思えない。参加できないだろう。


 そのホームページにはリンクが載っていた。琴音は好奇心にしたがってどんどんリンクを辿っていった。やがて、摂食障害を抱える当事者たちのコミュニティらしいサイトがあって、その掲示板には交流のスレッドがいくつも立てられていた。スレッドを開いてみると、SNSやブログのリンクが直接貼られていた。琴音は更にそれをクリックした。


 SNSのアカウントは少し読むとすぐ専用アプリを使うよう要求が出てしまい、画面を進められなくなり読めなくなってしまう。琴音は自分がSNSなんて始めたら笑われたり怒られたりするに違いないと考えているので、それらのアカウントを読むのは諦めるしかなかった。しかしたくさんあるブログは検索アプリでそのまま読むことができた。ある有名なブログサイトでは、摂食障害というテーマをもつアカウントはハッシュタグで見つけられることが分かり、それで検索をかけた。


 いくつかのブログの日々の投稿を読みながら、闘病というのはこうもつらいものなのかと琴音は憂鬱な気分になった。


 あるブログでは毎日長文で克明に苦しい闘病生活が綴られていて、読むだけでこちらもつらくなった。成人の女の人が書いているらしかった。結婚していて、夫に助けられながらどうにか生きているといった感じで、自殺を図ったときの投稿を見て、我に返った。あまりにも暗すぎるので他のブログを見ようと思った。


 次に開いたのは男子高校生が運営しているブログで、やはり摂食障害と診断されているらしかった。彼女がいて、表向きは青春を謳歌しているように見えるが、家庭環境が悪いらしく、親への恨み言が執拗に綴られていた。家族と揉めて喧嘩して、何かを投げつけられたらしく物が壊れている様子の写真も載っていた。彼女のことだけは大切だが、他はみんなどうでもよくて、自分のことにさえも関心がなく、捨てているような雰囲気だった。投稿は一日数回と先ほどの女の人のブログよりも頻繁である代わりに文章が短い。一番最近の投稿はその日の夕方で、「学校行きたくねえけど大学生になりてえ。こんな家はやくでたい。バイト認めろよクソ親とクソ高校」と書かれていた。


 続いて発見したのは琴音と同じくらいの歳の女子高生が運営するブログだった。「純天使日記(ピュアエンジェルダイアリー)」というタイトルで、見た目もタイトルに似つかわしい、ファンシーなデザインだった。


 ブログ主は「ネム」という名前を名乗っている。最初に受けた印象がとてもよかった。琴音にはうまく言い表すことができなかったが、全然違和感がなく、自分に合っていると感じられた。波長が合っていると言ってもよかった。


 ネムは摂食障害と、その他にも精神疾患を抱えているらしかった。基本的に前向きに治療に励んでいるようだった。普段学校に行っているはずの時間にも更新されている形跡があるので、学校に行っていないのかと察した。読んでいくうちに、「教室に入れるようになりたい」と書かれているので、教室に入らず学校に行っているのかと考えた。琴音はよく知らなかったが、保健室登校という名称を聞いたことはあって、それかもしれないと思った。しかし毎日通っているわけではなさそうだった。


 こんなに真面目に治療しているならどうしてそんなに病気を抱えているのだろうと考えたところで、他と雰囲気の違う日記を目にした。そこには死への痛々しいまでの憧憬と渇望、自分を傷つけて死を仮体験する様子、周囲の人間への呪詛、過去に自分を傷つけた人間に対する怨嗟、世界への絶望が滾々と湧き出るように書かれていた。琴音は驚いた。


 そして、感じた。


 自分と同じ思いをしている人がいるんだ、と。


 琴音は胸の奥に似たような深い闇をもっていた。しかしそれを言葉にして外に出すことができなかった。しかしこの人は、的確な言葉で私の地獄を言い表している。この人なら、私の気持ちをきっと理解してくれる。


「私の」苦悩を知っている人間だ。


 ネムという人がいるというだけで、救われる気がした。自分の周りには、自分を理解してくれる人はいないし、自分と同じ思いを抱えている人もいないから、ずっと孤独だった。しかしこのネムは、私と似た唯一の人間だ。


 同じように苦しんでいるのは自分だけでないという気づきそして認知は、孤独を癒してくれるものだった。


 彼女が画面の向こうにいるだけでいい。一方的にこちらがブログを読むだけの関係でよいから、繋がっていたい、と強く思った。



 琴音は何日も学校を休んで家で一日スマートフォンをいじっていた。夜になると、ブログを読んだ。いくつか読んでいたが、一番重要なのはネムのブログだった。そこへ真っ先にアクセスする。更新があるのが楽しみだった。「拍手」というリアクションを送れるボタンがあって、それがあるとネムはとても喜んでいる様子だったから、毎晩拍手を押した。それくらいならやってあげたいと思った。たった一クリックでネムの幸福を増やせるなら、いくらでもやってあげたかった。


 ネムの文章は表現力豊かで、読んでいて快かった。教科書や本で読むようなプロの書いた文章以外で、こんなに上手な文章を読んだことがなかった。加えて、内容は克明だった。ネムは大概苦しんでいて、それがどんな風に苦しいのか、具体的且つ情趣に富んだ表現でそれを表したし、嬉しいことは――ネムの嬉しいことは一般的であるとは限らず、彼女にとって嬉しい、特殊な喜びであったが、だからこそ本当に嬉しいのだなと琴音には感じられた――全力で喜んでいて、文章をもってその喜びに花を添えているような印象を受けた。


 琴音は想像がついて共感できるところは共感し、自分の知りうる範囲にないことにはなるほどと感じて学びを得た。ネムの生活は彼女の精神状態の悪さのせいで破綻しているように見え、そのバラバラに壊れた生活の破片をどうにか拾い集めて、形にしているように感じられた。生活の破片はもはや破片でしかないものの、どこか高貴で、上品だった。ネムは常に病んでいるが、品性の美しさは失っていないように見えた。


 琴音はそんなネムのブログに惹かれた。文章にも、克明さにも、琴音の心を惹きつけて放さないものがあった。琴音本人も、言い表しきれないほどの深刻な傷を負い、罪を自覚し、食事を取りやめた結果学校にも通えなくなり、親との仲も険悪になってしまったという悲惨な状況であったが、ネムのブログがある限り、微かな希望をもって生きられる気がした。

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