第3話 ついた場所。
馬に乗るのは生まれて初めてだった。ランスが黒馬に馬具を付けている間、レイは背の高いその馬をじっと見上げていた。短い毛はつややかで、しなやかな筋肉に合わせて光沢を放っている。ランスによく馴れているのか、馬はじっと動かずに鼻を鳴らしている。
馬の目は綺麗だ。長いまつ毛に縁どられた、わずかにうるんだ瞳。それを眺めているうちに、ランスがレイを振り返った。
「馬は初めてですか?」
「はい」
ランスが傍へ寄ってきて、黒い手袋を嵌めた手でレイの手を取って手綱へ導く。それを握らせると、ランスはてきぱきと指示してくれる。
「片足をあぶみに乗せて、背中に乗ってください」
あぶみに足を乗せたはいいが、生き物なのだから馬もじっとしていない。レイの重みで傾いた馬は不安定で、なかなかまたがることが出来ない。ぶるぶると馬が鼻を鳴らした。
「失礼します」
ランスが後ろから声をかけてくる。直後、レイの腰にランスの腕が伸びてきた。腰の両側に手が添えられ、ぐっと力がこもった。レイがまたがろうとする力に沿うように、ランスはレイを持ち上げてくれた。
そうされている間、レイはふと気づく。ランスと触れ合うことに、前ほど緊張しなくなっている。触れられると、穏やかな熱が身体に広がっていくのは変わらないが、今は緊張より安心の方が勝る。
「ありがとうございます」
馬から見る景色は、思いがけず高かった。いつもは頭上にあるランスの顔が、今は下にある。彼の紅玉石の瞳と視線を合わせた瞬間、馬が一歩動いた。とたん、レイはバランスを崩し、短い悲鳴を上げて馬の背にしがみついた。
ランスが素早い動きで馬に飛び乗り、レイの後ろから腕を伸ばして手綱を取った。ぎゅっと手綱を引き、どうどうと穏やかな声をかけてやりながら、ランスは明るい声で言う。
「支えていますから、背を伸ばしてみてください。乗り手が怯えると、馬も怯えます」
ゆっくりと背を伸ばしても、やはりぐらぐらする感覚は消えない。ランスの腕がしっかりとレイを支えてくれている。必然的にランスに抱えられる格好になりながら、レイは頬が熱くなるのを感じる。ランスと触れ合っているせいで、この鼓動が伝わってしまわないだろうか?
ランスが馬の脇腹を軽く蹴ると、黒馬は動き出す。まだ並足だが、馬が動いているだけでぽんぽんと身体が跳ねそうになる。
身体の下で、強靭な筋肉が躍動しているのを感じながら、レイはそっと馬の首に手を触れてみた。温かい。短い整えられた毛並みはやわらかで心地よい。この繊細な細い脚で、二人も乗せて大丈夫なのだろうか。
そんなことを考えているうちに、馬は敷地を出ていく。迷わず森の中に進むランスに、レイはランスを振り返った。魔物は大丈夫なのだろうか。その思いを読んだように、ランスはうなずいた。
「大丈夫です。ここから先は一度結界を抜けますが、そこから近いところに再び結界が張られていますから。襲わせる隙は与えません」
その言葉は明朗で、もし襲われても大丈夫だという自信を感じさせた。ランスは目の届かないようマントの裏に隠していたようだが、レイは気づいていた。ランスのベルトに下げられた両刃の剣に。
しかしレイの心配は杞憂に終わり、二人は魔物に襲われることなく二つ目の結界にたどり着くことが出来た。木漏れ日が差す木々の間を抜けると、そこに広がっていた景色にレイは歓声を上げた。
そこは、巨大な湖だった。湖まで続く見晴らしの良い芝生に覆われた地面は、わずかに傾斜している。ランスは馬の手綱を絞って並足に戻すと、その芝生を降りていく。芝生の上に突き刺された太い木の棒は、手綱を結ぶためのものだろう。ランスアが馬を止めてひらりと飛び降りる。そしてレイに手を差し出し、腰を支えて下ろしてくれた。
「森の中にこんな場所があるんですね……」
レイは目を閉じて頬を冷ましていく風を感じる。目を開けると、ランスも目を細めて湖の向こうを眺めていた。ふだんはオールバックにまとめられている銀の髪が、風に吹かれて額から頬にかかっている。
「ここはディアナ湖です。夏になると、ここでボートレースや水泳大会が開かれるんです。私もよく――家族でここに来ていた」
レイは、ランスの端正な横顔からそっと目をそらす。彼の口から家族の話が出たのは初めてだ。邸にかかっている肖像画を何度か見たことがあるが、ランスの父は彼と同じ豊かな銀髪をしていた。しかしどちらかといえば、ランスは病死したという母の面影がある。同じ紅の瞳がそう思わせるのかもしれない。
ランスは息を吸い、湖を指さした。古い月の女神の名をとった湖の水面は、鏡のように静かだ。風が吹くとわずかにさざ波が立っている。
「ボートに乗りませんか? この季節は少し風が冷たいですが」
「ええ、ぜひ!」
目が合い、二人は微笑み合う。坂を下りていくランスについていくと、湖の端に数隻のボートがつながれていた。淡い青で塗装されたボートの中には数枚の落ち葉が積もっている。ロープをほどき、湖の浅瀬にボートを押し出した。まずレイがボートに乗り、続いてランスが向かいに腰かけてオールを握る。
ボートは滑るように湖に向かって動き出す。
滑るように動き出したボート。オールがクラッチの中で軋む音だけが一定のリズムを刻んでいる。レイは風で顔に張り付いてくるおくれ毛を抑えながら、湖の上から見える景色を眺めた。
湖畔に広がるのは、冬を迎えるというのに葉を茂らせている常緑樹たち。どこまでも広がる森を包み込むように、はるか遠くにそびえたつ山脈。黒々と切り立った頂上にはすでに白い雪が積もっていた。
ボートに乗っているだけだというのに、吹く風のせいで頬の表面の感覚がなくなっている。厚手のビスチェのおかげで寒さはそこまで感じなかったが、髪の中を通り抜けていく風は冷たい。レイの向かいでボートをこぐランスの銀の前髪も、小さくはためいている。
湖の中央まで来ると、ランスはオールを動かす手を止めた。
「ランス様は、ボートを漕ぐのがお上手ですね」
レイが言うと、ランスは小さく笑う。
「ええ、昔はここでよく遊んでいましたから」
「そうなのですね。……それにしても」
レイは目を閉じて大きく息を吸った。きんと冷たい空気が全身に満ちていくのを感じながら、もう一度目を開ける。
「静かで、いいところですね。また来年も一緒に――」
レイは舌先までついて出た言葉を慌てて飲み込んだ。
一緒に来たい。
たったそれだけの言葉を発することが、レイにはためらわれた。アロアに送られてから数か月が経とうとしているのに、気後れする気持ちが抜けない。王子に追いやられた身であるレイと、押し付けられた形になるランス。どちらも望んだ形ではないことが原因だろうか? 根本的な自信のなさだろうか? どちらにせよ――。
不意に、膝にそろえた手の上に暖かな手が触れた。顔を上げると、そこには穏やかなランスの瞳があった。レイは思い悩むのをやめて、目の前にある光を逃すまいと瞬きすらも止める。
ああ。
いつだってこうだったのに。
(ランス様は……)
いつだってレイをまっすぐに見てくれていた。王都の人間のように、女であるというだけで目つきを変えたりしなかった。こんな感覚は生まれて初めてで――。
「また来年も、再来年も一緒に行きましょう。春も、夏も」
真摯なランスの言葉に、レイはうなずく。何度も、何度も。自分の手に触れているランスの手をそっと握り返すと、レイはその大きさに驚く。手袋に包まれていても、外見の秀麗さからは想像もつかない武骨な手がそこにあった。
「うれしいです」
けれど、そう返すことが精いっぱいで、そんな自分がもどかしいレイだった。こころの中にはまだまだたくさんの思いが渦巻いているのに、うまく言葉にできない。
レイは右手の手袋を脱ぐと、身を乗り出してボートから水面に指を触れた。指が痺れるほど冷たい水は、底まで透き通っている。これ以上覗き込むと引き込まれそうだった。ここがディアナ湖と呼ばれる意味がよくわかる。月の出る夜は、月光が鏡のような湖面に反射して、それは美しい景色を作り上げるのだろう。
途端、ばしゃん、と水しぶきを上げて何かが跳ね上がった。きゃっと声を上げたレイの頬に服に、水のかけらが降りかかる。目の端に映った大きな魚は、アイシャが前教えてくれた淡水魚に似ていた。
ふとランスと目が合った。ハンカチを差し出そうとしていたランスと、今しがたハンカチを取り出したレイ。その構図がなぜかおかしくて、レイは小さく吹きだした。レイにつられるように、ランスも笑い声をあげる。
揺れるボートの上で、二人の距離が縮まっていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます