第一部少年期スラム編

1 非情の下水道

 浮浪児共の匂いが身体まで染み着いて臭い。

 乳臭さの中に甘ったるい匂いと独特な獣臭さがある。汗や血、排泄物。この世界のありとあらゆる汚泥の流れ込むこの下水道がガキ共のねぐら


「ディ。起きたか?」


 暗がりでアビーが立ち上がる気配がして、そろそろ起き出していたガキ共も目を覚ました。

 俺の左半分の身体に抱き着いて居たのが兎耳の少女。歳は四~五歳。右半分は猫耳の少女。十二~三歳。便宜上、兎耳を『兎娘』 。猫耳は『猫娘』と呼ぶ。

 正面から乗っかるように馬乗りになり、遠慮なく俺に抱き着いているのがドワーフの少女。歳は分からない。だが、見た目の小ささに反し、体つきはがっちりしていて重い。

 右足には妙に青みがかった肌をした少女。やけに冷たい。よく見ると、きめ細かい肌が鱗状になっている。こいつは『蜥蜴娘』。

 左足には、ちょっとばかり身体のデカい少女。アビーより少し小さい程度だが、頭にある突起物が腰に当たって痛い。他より少し年長で、十二~三歳に見える。こいつは『鬼娘』と呼ぶ事にする。

 他にも六~七人いるようだが、後は知らん。知りたくもない。


「そろそろ行くぞ」


 アビーが顎をしゃくる気配がして、その後を続くように下水道のような道を行く。


「危ない。手を繋いで」


 『蜥蜴娘』がそう言って、俺の手を力強く握った。

 やけに暗くて見通しが悪い。腐敗した水の匂いに混じって、微かに水音がする。下水道で間違いないようだ。

 蜥蜴娘に手を引かれて、曲がりくねった道を暫く歩いた。迷路のような下水道。元の位置に戻れと言われても、俺一人じゃ戻れないだろう。

 やがて身を切るような寒さと共に、木漏れ日のような光が射してきて、そこで名残惜しそうに蜥蜴娘が手を離した。


「ありがとう。助かった」


「うんうん。いい。ディには世話になる。これぐらいはいい」


「……なんの事だ?」


 やけにデカい下水道だ。トンネル並みにデカい。これがインフラの一つだと仮定すると、割と大きな街にいて、それなりに文明の発達した世界だという事だろうか。

 そんな事を考えていると、『鬼娘』が指先で背中を突っついた。


「早く歩け。後がつかえてるんだ」


 鬼娘の指先は爪が伸びているのか、背中を突つかれた時に少し痛んだ。

 改めて『鬼娘』を見る。

 ガキだろう俺より頭一つは充分にデカい。身体の肉付きも悪くない。筋肉質。額の右に突起物のような『角』があって、瞳は気が強そうに釣り上がっている。酷く喧嘩っ早そうに見えた。

 ぶっきらぼうに言った。


「お前は弱みその人間だからな。でも暖かいし、少しだけ贔屓してやる」


「そいつはどうも……」


 蜥蜴娘と鬼娘は体温の調節が苦手なのかもしれない。漠然とそう考えていると、鬼娘はいかにも腹立たしそうにこう付け加えた。


「でも犬人ワードッグがくれば、お前は用済みだ。あまり調子に乗るんじゃねえぞ」


「……」


 むかつくガキだ。

 出口に辿り着き、俺たちは吹きすさぶ冷たい風の中、下水道の汚れた道を歩いた。

 途中、やけに人懐っこい笑みを浮かべた小人……ドワーフの少女が手を繋いで来たのでそのままにさせておく。

 『ドワーフ』は身なりこそ俺より小さいが、怒り肩で全体的にがっしりとした身体付きをしており、腕力がありそうだ。ぱっちりしたどんぐり目が特徴のガキで、酷く甘ったれているように見える。

 寒さに耐えながら、下水道の端にある通路を歩いた。

 鼻が馬鹿になっているせいと、やたら吹き付ける風のお陰で匂いはあまり感じない。下水が流れている排水溝の向こうには、こちらと同じように狭い通路があった。


「向こうはフランキーの縄張りだ。絶対に向こうに行くな」


 素っ気なく猫娘が言って、鬼娘と同じように俺の背中を突っついた。鬼娘ほどじゃないが、こっちも爪が刺さって結構痛い。


 『猫娘』はやせぎすだが妙に姿勢がいい。やや尻を振りながら歩くのと、長い尻尾が特徴。


 鬼娘と猫娘は仲がいいようだ。隣り合うようにして歩いている。


 こういうのは雰囲気で分かる。二人共、俺の事はあまり好かないようだ。


 ……だったら、俺にまとわりつくんじゃねえよ。


 全くの勘だが、二人は百合に近い関係なのかもしれない。まあ、見る限り女所帯だ。そういう事もあるだろう。


 俺の後ろにもぞろぞろと居るが、そいつらの事は知らん。仲良くしたいならそうするが、こっちからそうしたい訳じゃない。特別、話したい訳でもない。無視するならそれでいい。


 鬼娘が俺を押し退けるようにして前に行き、先頭を行くアビーに耳打ちするように何かを囁いた。


「……駄目だ。まずはゾイに任せる。アシタ、お前の言うことは聞けないね」


「……でも!」


「スイは命に関わる。痩せ過ぎでエヴァは抱き心地が悪いとか抜かしたのは誰だ? 昨夜はよく寝てたじゃないか。新入りの抱き心地はどうだ、アシタ。ええ?」


 アビーが揶揄するように言って、『アシタ』と呼ばれた鬼娘は舌打ち混じりに引き下がった。


「どけ!」


 鬼娘は俺を突飛ばし、猫娘の隣に戻った。

 ……ムカつくな、こいつ……

 表に出す事はしないが、あまりいい気分はしない。

 俺は新入りだ。そう呼ばれるうちの喧嘩は避けたい。力を入れてドワーフの少女の手を握り直すと、ドワーフの少女は口元を緩めて俺の手を握り返して来た。


 飽きるまで何気なく辺りの観察を繰り返す。

 暫く歩き、遠くの壁にかかった縄梯子が見えて来て、アビーが振り返って背後を確認した。

 園児の引率も大変そうだ。

 悪いやつじゃないんだろうが、アビーという少女には、なんとなく冷たい雰囲気が漂う。明るくなって分かったが、こいつの身なりは他とは違う。薄汚れた布の服はガキ共と同じだが、革製の胸当てのようなものを着ているし、腰のベルトには鞘の着いた大ぶりのナイフを二本差している。

 明らかにリーダー格。

 このグループの主導権を握るのは『アビー』。女王蜂クイーン・ビーガキ共の女王陛下。


「……ちゃんと付いて来ているね。それから……まだ聞いてなかった。ディ、お前は何が出来るんだい?」


「……? やれと言われれば何でもやるが、そういう事を言っているんじゃないよな……」


「……」


 そこでアビーは片方の眉を持ち上げ、顎を擦って考え込むような仕草をして見せた。


「あんた、まだ教会に行ってないのかい?」


「教会? 教会があるのか?」


「はん……?」


 一瞬だけアビーは呆れたような顔をして、短いがきちんと切り整えられた髪を掻き回した。

 その髪の間から、ぴょこんと飛び出した獣の耳が見える。細い顎に獣耳。細く鋭い目付き。アビーの顔には『狐』の趣がある。


 誰もが人間のように二本の足で立ち、二本の手を持っている。それらは俺と似ているが、俺と同じような『人間』じゃあない。


 アビーは短く鼻を鳴らした。


「じゃあ、メシを済ませたらその足で教会……いや、一応当たりの可能性があるから、その辺は確かめとかないと、だね……まずはアダ婆に……」


 言葉の後半は、独白に似た小さい声だった。しかし……

 胡散臭い話だ。

 アビーが何か考えているのは確かだ。そして、その考えは彼女にとっての都合であり、俺にとっての都合じゃないのは分かる。それを問い詰めようとして――

 だが。だがしかし、だ。

 目の端に移ったそれに、俺の視線は釘付けになった。


「マジかよ……」


 思わずそう呟いた俺の視線を追って、アビーが顔に疑問符を貼り付けた。


「どうした、ディ。……ん? 死体だね。あれがどうかしたかい?」


「……」


 俺は絶句して言葉もない。だが、驚いた様子のないアビーの顔からして、特別珍しい事じゃないのだろう。


 ――目の前の下水道に、子供が一人、流されて行ってる。


 そいつは少し驚いたような顔をしていて、口は半開きだった。今にも瞬きして、こちらに気付くんじゃないのか何て考えもしたが……

 瞳に光がない。

 あるのは底無しの暗闇と虚ろな眼光だけだ。左胸に血の滲んだ染みがあって、そこを一突き。きっと何をされたか考える間もなく死んだのだろう。


 死体……しかもガキのそれを見るのは生まれて初めての事だった。


「……!」


 喉元に込み上げるものがあり、俺は咄嗟に目を逸らして何も考えないようにした。


「なんだ、ディ。気分が悪いのか? ふうん……」


 アビーは怪しむような半目で俺を見て、それから満面の笑みを浮かべた。


「……そいつはいいなっ!」


 ――いい訳ねえよ。糞ガキが。


 きっと目の前の光景も、元居た世界の何処かじゃあった光景なんだろう。だが、俺は日本人だ。平和な国の人間だ。それがとんでもなく恵まれた事だって事実を叩き付けられた瞬間だった。


「なんだ、だらしねえな。……ってこいつ、フランキーの所のやつじゃねえ?」


 鬼娘が言って、アビーがまた死体に視線を戻した。納得したように頷いた。


「あー、ああ……なんか、うっすら見覚えある。フランキーの腰巾着だ」


 それだけ言って、アビーは興味を無くしたのか、視線を壁に掛かった縄梯子に戻した。


「そいつはいいや。行こうぜ」


 ――だから、何も良くねえよ。


 その言葉と吐き気を何とか飲み下し、俺は小さく頷いて見せた。


 ――死んでんのもガキじゃねえか。


 同じようにガキのお前らが、何でもない事みたいに言うんじゃねえ。


 勘弁してくれよ……


 クソみたいな環境に、クソみたいな状況。


 これが、今の俺が置かれた現状だった。

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