【02】
「いらっしゃいませ」
光が店の入口に目を向けると、そこには小柄な男がニコニコ顔で立っていた。
沢渡裕(さわたりゆたか)だった。
光は反射的に、手に持った食器洗い用のスポンジを沢渡に投げつける。見事に命中して、沢渡の顔は泡だらけになった。
事情を知らない奥さんが、
「光ちゃん。あんた何てことするの」
と言って、さらに手近にあったお玉を手に取った光の腕にしがみつく。おっちゃんは呆気にとられて声も出ない。
そんな三人に頓着する風でもなく、沢渡は服の袖で顔を拭うと、床に落ちたスポンジを拾い上げた。そしてそのスポンジをカウンター越しに光に差し出しながら、
「光さあん。お久しぶりです。寂しかったですよ」
と猫なで声を出した。
その馴れ馴れしい態度に激高した光が、今にもカウンターを飛び越えそうになるのを、おっちゃんと奥さんが慌てて二人掛かりで必死に抑える。
すったもんだの末、光が漸く落ち着きを取り戻した時には、沢渡はちゃっかりと彼女の前のカウンター席に陣取っていた。
「光ちゃん、この人誰?」
「もしかして、別れた恋人とか」
奥さんとおっちゃんが交互に言うと、光は即座に否定した。
「と、とんでもない。こんな奴が恋人なんて、人類が滅亡して、二人きりになっても絶対あり得ません。こいつはただのストーカーなんですよ!!」
そう。沢渡裕は光のストーカーだった。何年も前から彼女に付きまとって、何度痛めつけられても全く懲りる様子がない。本人はストーカーではなく、光のボディーガードだと主張しているが、光の方が圧倒的に強いので、その主張には全く説得力がない。
「ストーカー?あらま。警察呼んだ方がいいかしらね」
奥さんがそう言いながら電話を取ろうとすると、沢渡は慌てて遮る。
「ち、違います。ストーカーなんかじゃありません。僕は光さんのボディーガードなんですって」
その台詞を聞いて光が再び激高し始める前に、奥さんが笑いながら沢渡を否定した。
「いくらなんでも、それはないでしょう。だってあなた、どう見たって光ちゃんより弱そうだもの」
図星であった。それに勢いづいて光も沢渡に追い打ちをかける。
「そうでしょう。こいつは本当に弱っちい癖に、しつこく付きまとって来るんで、往生してるんですよ。やっぱ警察に突き出した方がいいですかね」
「ちょ、ちょっと待って下さい。されはあんまりですって。光さん」
沢渡が涙目で訴えるのを見て、奥さんがケラケラと笑い出した。おっちゃんは先程からの三人のやり取りを、口をあんぐりと空けて、ただ見ているだけだった。
「ところであんた、何しに現れたの?」
光が訊くと、沢渡は思い出したように答える。
「あ、今日はラーメンを食べに」
それを聞いた奥さんが、
「あらま。お客さんだったの。それは失礼しました。いらっしゃいませ。ご注文は?」
と、見事に手の平を返す。その変わり身の早さに、光は思わず引いてしまった。
「では、醤油味のあっさりで」
沢渡の注文を聞いた奥さんは、「あっさり醤油ね」と注文を繰り返す。おっちゃんも漸く我に返ると、麺を1玉とって鍋のお湯に放り込んだ。
出来上がったラーメンに具を載せて奥さんが光に差し出す。受け取った彼女は、沢渡の前にラーメンの鉢を置くと、
「さっさと食って帰れよ」
と言って横を向いてしまった。
皆が一斉に黙り込む中、沢渡がラーメンをすするか細い音が響いた。
「ごちそうさまでした」
沢渡が食べ終わるのを見計らって、
「お前ちょっと表に出ろ」
と、光は彼を店の外に連れ出した。
「光ちゃん、なるべく穏便にね」
奥さんがその背中に声を掛ける。
外に出た光は沢渡の胸倉を掴むと、
「てめえ、マジで何しに来やがった」
と凄んだ。
「何って。光さんに会いに、ぐっ」
皆まで言わせず、光のボディブローが鳩尾に決まった。
そして、蹲って呻き声を上げている沢渡に畳みかける。
「まさか、この辺に引っ越して来たりしてねえだろうな」
「もちろんです。昨日やっと引っ越して来たばかり、げっ」
今度は沢渡の腿に蹴りが決まった。
「てめえ、いい加減にしろよ。あたしはお前とは金輪際関わるつもりはねえから。これ以上あたしの周りをウロチョロするんじゃねえ!」
蹲って呻き声を上げている沢渡にそう浴びせかけると、光はさっさと店に戻って行った。
入れ替わりに奥さんが出てきて、沢渡に声をかける。
「お客さん、大丈夫?光ちゃんって、顔に似合わず乱暴だね」
「ええ、大丈夫です。慣れてますから」
そう言いながら立ち会がった彼に、奥さんがニコニコ顔で右手を出した。
「そう、よかったわ。じゃあ、ラーメン代800円ね」
***
その夜、光がその日の出来事を話した途端、渚が腹を抱えて笑い出す。
「ぎゃー。ストーカー。沢渡だっけ?まだいたの?」
そう言うとテーブルに突っ伏して、激しく肩を揺らし始めた。相当可笑しかったらしい。光はそれが収まるのを、憮然として待たなければならなかった。
漸く笑いが収まった渚は、顔を上げると、まだ笑いを含んだ顔で聞く。
「それであいつ、今日あんたに引っ越しの挨拶に来たってわけ?いやあ、相変わらず根性あるな。ほとほと感心しますわ」
「あんたね。他人事だと思って、適当なこと言わんでくれる?」
「いや、だって。暴力女のあんたに、あんだけボコられてめげないなんて、相当の根性者だよ。あいつ」
「だあれが暴力女だって?」
「あんた以外に誰がいる?」
「あんたも人のこと言えんだろうが。今まで電車の中で、何人痴漢をボコったのかな?渚さんは」
「あれはあくまで正当防衛。あんたみたいに、何かっつうと木刀振り回す奴と一緒にせんで欲しいわ」
――駄目だ。口喧嘩では、こいつには絶対勝てん。
そう思って諦め顔の光に、渚は嬉しそうに続けた。
「多分ストーカーの奴、これから毎日ラーメン屋に現れるんじゃね?」
「まじか!ん。でも確かにあいつならやりかねんな」
「そうでしょう。あんた、これから毎日あいつと、カウンター越しに顔合わせる訳だ。1回会社さぼって見物に行かねば」
渚のその言い草に、光は切れる。
「あんたね。他人事だと思って、言いたいこと言ってんじゃねえよ。自分だったらどうするよ?」
すると渚は、しゃあしゃあと返す。
「あたしだったら、とっくに病院送りにしてるって」
その言葉を聞きながら光は思った。
――確かにこいつならやりかねんな。
渚は華奢な見てくれをしているが、フルコンタクト系の実践空手を20年近くやっていて、つい最近3段に昇段したばかりの、バリバリ武闘派だった。その見てくれのよさに惹かれて寄って来る痴漢どもを、悉く睾丸を蹴り上げて悶絶させるという、血も涙もない奴なのだ。
かく言う光も、20年以上続けている剣道は4段の腕前である。それに加えて、中高と柔道部に所属していて、こちらも2段の免状を持っているのだった。
そして渚の予言通り、沢渡裕は毎日のように『萬福軒』に現れるようになった。
一応客として来るので、おっちゃん夫婦の手前、追い返す訳にもいかず、光は毎日悶々とした日々を過ごすことになったのだ。沢渡は意外と調子のいい奴で、おっちゃん夫婦に上手く取り入ってしまった。
光にとってみれば、全くやれやれだわ――という状況である。
そんな沢渡が、ある日を境に『萬福軒』に顔を出さなくなった。
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