タニイ
王家の船が行くのを、ナイルからの風を浴びながら眺めて小さく溜息を吐いた。
先日にナイルの氾濫があったからか、ナイルの青は限りなく黒に近く、水面の下を泳いでいるだろう魚の姿は一切見えない。
もう一度口から溜息が落ちていく。
早く対岸に着かないだろうか。居心地が悪くて、早くこの船を降りてしまいたい。
嵐が去ったような心地で船縁から一人でナイルを見下ろしていたら、不意に誰かの手が肩に置かれ、咄嗟に飛び上がって身構えた。
「見事な瞬発力だね」
いつの間にいたのだろう。背がすらりと高く、年はアネンと近いくらいだろうか、かなり大人びて見える女性が私の後ろにいた。
そしてこの人もまた美しかった。高い鼻筋に、細く流れるような目元。頬はしゅっと引き締まり、陽に焼けた褐色の肌が煌めいている。長い髪を後ろに緩く束ね、肩に掛けた姿は何だか勇ましい。
テーベには綺麗な人しかいないのかもしれない。
「ムノのご令嬢……ティイ、だったかな?初めまして。洗礼を浴びたね」
顔を覗き込まれて咄嗟にたじろいだ。
「……初めまして」
「悪いけれどさっきの一部始終は見させてもらったよ。強い子だね。気に入った」
清々しく彼女は白い歯を輝かせて笑った。
「あなたは、どなた?」
初対面の人だった。また何か言われるのかとどうしたって身構えてしまう。
「私はタニイ。宰相ラモーゼの娘。あんたの父君兄君にはお世話になってるよ。よろしくね」
宰相ラモーゼ。王に仕え、王の次に偉い人物。父や最高神官が王の左腕と呼ばれるのならば、宰相ラモーゼは右腕と称される。
「タニイ殿……どうぞよろしく……」
気が抜けて、ぽかんとしてしまう。男性並みに背の高い彼女を見上げて、言葉を探した。
「あの、他の皆様とは随分……」
「違うって?それはあんたと一緒。だからあちらの仲間には入れない。別に気にしてはいないけれどね。挨拶は返すのが礼儀だと思うし」
屈託のない、まるで少年のような彼女に、ほっとする部分があった。
「そんな気を張らなくていいよ。私はあいつらの仲間じゃないし、あれだけあんたがはっきり言ったら、あいつらはもう何も言ってこない」
はあ、と気の抜けた返事をした。するとタニイは私をじっと見つめ、それからニカッと口角を上げて私の頭を撫でてきた。
「ああ、可愛い。妹がいたらこんななのかなあ。ねえ、ティイって呼んでも良い?私のことはタニイって呼んでくれて構わないから」
「……ええ、タニイ」
呼ぶと、彼女は嬉しそうに私の肩に手を置いた。
「ティイ、どうせ聞きたいことが沢山あるんだろう?好奇心だけは負けないとアネンからは聞き及んでいる」
「アネン兄様から?」
兄との会話を思い出す。確かその中に、豪快な考えを持つ女性の話があった。文字を読むことができ、知識もある宰相の娘とよく話す仲なのだと。
「あなたの話、前に聞いたことがあるわ。宰相の娘は面白いと……」
彼女はそれを聞いて「面白いとは心外だね」と豪快に笑った。
宰相の娘となれば、王宮に仕えているアネンとは近い存在になり得る。兄の知り合いなのだと分かると、無条件に親しみを感じた。
アネンは時々タニイの話をしていて、もともと私と気が合うのではとよく言っていたのだ。
「あのね、タニイ。言っても良いかしら」
「何でもどうぞ」
その即答が、とても心地良くて笑みが零れた。
「ここってものすごく大変なところね」
あちらの女性陣に聞こえないように小声で囁いた。
「仕方がない。皆、王子の気を惹きたいのさ」
王子の目にとまりたい。王子に気に入られたい。そうして得られるであろう立場は一つだ。
「……もしかして、王子のご側室になりたいの?」
「察しが良い」
王家ではない者は正妃とはなれない。
自分のような貴族の身分が王の妻になるためには、側室になるしか道はない。
だが、側室になるなどまるで考えたことがなかった。加えて今の王子は外国の王女たちしか側室に迎えないと専らの噂だ。
「あそこの真ん中で踏ん反り返っているやつがいるだろう。あの中では一番の美人の、ほらあれ」
彼女が示したのは、先程皆を集めたあまりに美しい人のことだった。誰をも寄せ付けない美貌がこれでもかと輝いている。今も悠々と皆に囲まれて船遊びをしているが、どうしてもつんと済ました様子だ。
「あれはヘルネイト。王家に仕える最高神官の愛娘だ」
最高神官と言えば、父イウヤと対等にいる人物だ。神官側では神々に使える神官たちの長であり、絶対的な権力を持っている。その娘が彼女。恐ろしいほどに美しい娘であると噂を聞いたことがあった。
「私の、対等にある立場」
そうだね、とタニイは頷く。
「テーベで暮らしている分、王族と接する機会が多いからティイより実質上もしれないが」
「……ああ、なるほど。そういうことなのね」
これは家柄の関係なのだ。自分たちを父親たちに置き換えると、ここでの人間関係が見えてくる。同じ貴族とは言え、ヘルネイトの最高神官一族、タニイの宰相一族、私の軍事司令官一族は他とは別格として数えられ、神官側と軍人側の仲は険悪だと兄から聞いたことがあった。
他の貴族家はどこかに賛同してその地位を保持するが、彼女たちはテーベにてほぼ最高の権力を誇る有力貴族、ヘルネイトに従う他ないのだ。
ヘルネイトが側室に選ばれれば、もしかすれば自分も一緒に側室になれるかもしれない。そんな考えになるのだろう。
「だからこそヘルネイトはティイに冷たい。まるでいないように扱う。あいつらをけしかけたのも大方あの女だ。女は怖いね」
ヘルネイトが「気に入らない」と言えば、周りはその対象を蹴り落とそうとするのだろう。家に関する戦いのようなものがこんなところにもある。
「ティイを受け入れれば、ここでのヘルネイトの一番は揺らぐ。それはヘルネイトにとっていいことじゃない」
「彼女は家からそう言われているのかしら」
家のために王子の側室となるようにと。
「かもしれない。今や神官側の手が及ばないのは王家だけだからね。王子の側室になって、王子を取り込めれば家も安泰だ」
「娘が王家に嫁げば神官が王家に入り込む隙にもなり得る、ということね」
神官の一族を、何よりも王家に近い一族とするために。
事実、私の一族からも過去に王の側室に入った女性はいる。だからこそ祖父や父は自分の実力と共に今の地位まで上り詰め、そのまま保持できていた。
「あとは何よりヘルネイトが王子に惚れ込んでいるんだよ。どうしても王子に選ばれたい。家のことがあろうがなかろうが、ヘルネイトは王子の側室になりたいって必死なんだ」
ああ、と息をすると同時に感嘆が漏れた。
彼女が王家の乗る船を見つめていたのはそういうことだろうか。
側室を選ぶ王子本人が乗っているから。自分の想い人が乗っているから。
「王子はまだあまり公に顔を出してないが、顔はいいからね。そして次期王位を約束された男と来ている。恋やらをしてしまう令嬢が多いのさ。若いねえ。私はまっぴらごめんだけど」
愛やら恋やらを私も夢見ていたが、自分が嫁ぐべき相手と自分が好いている人が同じであることはとても羨ましいようにも感じた。
「他のご令嬢たちが彼女の言うことを聞いているのは、今王宮で神官たちが大きな力を持っているからなのね。そしてヘルネイト殿が私を嫌っているのは、彼女と私がほぼ同じ身分にあるから……父たちに置き換えれば、私たちは政敵なんだわ」
真剣に考えていると、彼女は深く感心した様子で大きく頷いた。
「本当に頭が良い。さすがアネンの妹だ」
彼女は令嬢たちがどこの誰だかを教えてくれた。それさえ分かれば、娘たちの立場は大体理解できた。皆、次王となるはずの王子の側室の座を狙っているのだ。
「でも何故、」
そこまで理解して、ぽつりと沸いた疑問が口をついて出た。
「うん?」
タニイはまるで姉のようにこちらの質問を待ってくれている。
「私は王子のご側室になりたいだなんて思ったことはないわ。父にもそう言われたことがないの。ご側室になろうと思っていない、その可能性もない私を彼女たちは何故放っておいてくれないのかしら。仲間はずれにしていればいいだけの話だわ」
こちらに来てわざわざ貶すこと言う必要はあったのか。放っておいてくれれば、お互いに嫌な気持ちにならずに済んだだろうに。
こんな煌びやかな世界にいるだけでも息が詰まる私が、王家になど入ったらきっと死んでしまう。そもそも自分が王子の目にとまると思ったことはない。
そんな素朴な疑問を呟くと、彼女は再び豪快に肩を揺らした。
「そりゃ、あんたが綺麗だからだよ。そしてその身分だろう。側室に選ばれる素質は十分あるって彼女たちに見られたんだ」
「わ、私が……?」
思いがけない言葉に、きょとんとしてしまう。
「ティイは綺麗だ。だから皆が嫉妬して、揚げ足を取るように嫌味を言った。ヘルネイトが一目でティイを嫌いになって、皆をけしかけたことだって、ティイの誇り高い身分と古から隠れたように繋がる血筋、そしてその顔があったからなんだよ」
ヘルネイトや他の皆の態度はてっきり父たちの関係と、私がムノというテーベから離れた田舎から来たためだと思っていた。
綺麗だと言われたのはお世辞くらいだ。なんて返したらいいか分からなくなる。
「私、そんなんじゃないわ。ここにだって場違いで……何より、タニイの方が、綺麗だもの」
「そりゃどうも。でもあんたに言われるとお世辞に聞こえるよ。実際ヘルネイトは私のことは放っておいてるじゃないか」
そんなつもりはなかった。タニイは美しいのだ。凜としていて、豪快でいながら繊細、知識もあって強い美しさを宿している。その物腰柔らかな表情は安心感を生んだ。簡単に言ってしまえば同性ながら惚れ惚れするほど格好いい。
「ティイ、あんたは胸を張りな。ここにいる誰よりも綺麗なんだから」
実感が沸かない言葉に、はあ、としか返事ができなかった。
船が戻る間、彼女から多くのことを聞いた。
王家の乗る船を見たときは、誰が王で誰が王子で、誰が宰相で誰が神官なのかを教えてくれたが、遠すぎるために皆が影のようで私には区別がつかなかった。
それでも私たちとは離れたところで面を爛々とさせた娘たちが熱い視線を送っている。
タニイの隣で話を聞きながら、尊い神のための、そして先祖たちのための祭りを眺めていた。
とても賑やかで煌びやか。ムノもそれなりに大きな都市であったが、ファラオがいる王都テーベは比べ物にならないほどのものがある気がした。
祭りが緩やかに終わりを迎え、東の岸に船が着いた。降りた先で、従者とアネンを侍らせた父がこちらに手を振っていた。その傍らにはタニイの父宰相ラモーゼがいた。
最後にタニイへ「まだテーベの町を見たことがない」と言うと、ひどく驚いて首を横に振った。
「そりゃいけない。行った方が良いよ、抜け出してでも。テーベの都っていうのは、他の都市とまったく違う、素晴らしい場所なんだから」
また会えるかと尋ねたが、「ティイがテーベに来てくれればきっと」と彼女は笑ってくれた。
テーベにまた来られたら良いと願わずにはいられなかった。
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