貴族の娘たち


 美しき谷の祭りでは、テーベ地方の死者慰霊祭として夏の第二月、新月の晩から行なわれ、多くの人々がこの王都に集まる。

 この祭りが初めて催されたのは、今から随分昔のファラオ、メンチュヘテプ2世の時代。王族や王宮に仕えるごく一部の者しか目にすることができないアメン像を神官たちが担ぎ、西の地にあるハトホル女神の礼拝堂を訪問する。

 アメン神像の後ろについて進むのは古の王たちの像だ。

 多くの観衆に囲まれながら、それらの列は現在のファラオの葬祭神殿を最後に回っていく。その行方を追っていくのが今回の祭りの概要だが、ただ像を移動させるだけかと思いきや、多くの行事がその合間に執り行われる。

 例えば、太陽神への燔祭、生け贄や供物、花束の献上、神官や歌手達の故人を慰める歌の披露など他諸々。

 故人や国の民はこの祭りにおいて普段は見ることのできない尊いアメン神を拝むことができ、アメン神からの供物にあずかることができるとされている。


 早朝から参加の私とは違い、兄二人は王家に仕える者として昨晩から参加して像の傍についていた。そのため私は父と行動を共にすることになり、とりあえず多くの貴族の方々と交流しながら行列に参加してテーベの都をチャリオットに乗って進んでいった。

 一斉に皆がチャリオットで進んでいく光景は圧巻だった。

 風を感じようと日除けの上着を脱ごうとしたら、父に叱られてしまった。

 私たちの位置は王族たちのすぐ後ろだったが、王族を守る兵の数が尋常ではなく、すぐ前にいるはずの王族の姿は影さえも見えなかった。


 ナイルを渡ることになると、王族とは別の大きな船に他の貴族たちと一緒に乗り、母なる大河を渡った。

 父は軍事的に大きな力を持っており、ファラオからも一目置かれている存在であるがために、自分たちに設けられた場所は身分の高い人々が集まる所だった。

 そんな父の隣に娘として付き添っていても、ムノの地で生まれ育ち、ただでさえ都の活気に驚いている私には、活気のど真ん中に出された自分がとてもちっぽけな存在に思えた。後ろについてくる自分より身分が低いという人々を眺めても、私は決して彼らより偉い人間ではない。それと同時に父の傍にいる意味がわからなくなる。この場所は自分の割に合わない、と。

 それに加え、他の貴族の面々が少し離れた所にいたが、自分と同じ身分であろう若い女性の姿があっても、皆つんとしてあまり気軽に話せるような人達ではなかった。もう少し笑顔を振りまいていてもいいと思うのに、この都の女性たちは皆気位が高いようで、見知らぬ者と慣れ合うことを好まないのだろうか。都に住む、同じくらいの身分にいる女の子と仲良くできたらいいとラジヤと話していたのが、遠い昔に感じるくらいに彼女たちはつっけんどんだった。ムノに閉じこもって好き勝手生活していた私は、彼女たちにとって特異な存在に見えたのかも知れない。

 祭りの最中、時折話しかけてくる同じ年頃の男性もいた。挨拶のみで真面に話すことはなかったが、昨日父の所へ挨拶にきて私にも声をかけた人の息子であろうことだけは推測できた。ただ、男性が私に話しかけようとするたびに父が男性から私を遠ざけようとするのを見ていて、父の頭の中には本当に私の夫となる人の存在があるのだと確信した。


 一通り父と眺めていた祭礼が終盤に差し掛かると、父は私に一隻の船を指さした。王家の女官たちが乗っており、王家の花であるハスをナイルに流し、歌っている。あたりの船と比べても一段と煌びやかだった。


「貴族の娘たちのために用意されたものだ。お前も同年代の娘たちと語らってきなさい。そういう交流も今後大事となろう」


 でも、と口籠もった私には気づかず、父は一人の王家の女官を呼んだ。呼んだ相手が軍事司令官イウヤであると知った女官は恭しく頭を下げ、敬意を示した。


「娘を頼もう」


 そのまま父に背を押される。


「イウヤ殿のご息女ティイ様、こちらへ」


 戦友たちと昔話を楽しむ父と別れ、私は促されるままに船へ乗り込んだ。王家の女官と、船こぎの男たちが船縁に等間隔で並んでいる。花が飾られ、木造の船は美しく彩られていた。

 私が乗り込むや否や、先に船遊びを座って楽しんでいた娘たちがこちらへ視線を向けたのに気づいた。父と乗った船にも同乗していた、つっけんどんだと思えた面々。刺さるような視線に居心地の悪さを覚えながらも愛想良くやらなければと、できる限りの笑顔で会釈をした。


「ムノのイウヤの娘、ティイでございます。よろしくお願いいたします」


 7人の娘がいた。年が近い者もいれば、年上の者も、まだ10になったばかりくらいの少女もいる。

 皆がどこの誰であるかは知らないが、同等の身分を持つ者たちなのは確かだ。王家に連なる貴族たちの中でも力を持つ一族の娘たち。古の王から賜ったムノにいる私を除いて皆テーベに居住しているはずだ。そう考えると、彼女たちは互いに見知った仲なのだろう。


「あら、ムノの御方?」


 一人が甲高い声をあげて、私の前までやってきた。それを皮切りに他の娘たちも歩み寄ってきて私を取り囲んだ。


「初めてお目にかかりますわ」

「テーベは初めて?」

「ムノには行ったことがないの。ちょっと遠いでしょう?」

「行ってみたいのだけどお父様たちが許してくださらないのよ」

「ムノはどんなところなのかしら。大都市と聞くわ。テーベと比べてどうなのかしら」

「馬鹿ねえ、テーベはファラオがお治めになる聖なる土地よ。ここより栄えているはずがないじゃない」


 口々に皆が声を立てる。ひどく華やかな世界だと思った。目眩がするほどに。

 皆が美しい。これでもかと煌びやかで麗しい。花の香りがする。アイがよく私に言っていた貴族の令嬢らしさとはこういうことなのだろうか。

 剣の柄さえ握ったことのないような繊細な手。長い指。黒々とした、宝石のような黒い目。日焼けなど知らない滑らかな肌には、これでもかと装飾品が煌めいている。髪も整えられ、最新のものであろう、たわわとした鬘を高価な飾り紐で結われていた。

 こんなにも眩しい世界を、私は知らなかった。王家に近い者たちは皆、こんななだろうか。


「行きの船では冷たくしてごめんなさいね。あそこで愛想を振りまいてしまうと殿方が見境無く寄ってきてしまうのだもの」


 そういうことか、と合点がいく。確かにあの場では貴族の年頃の男子たちも乗り合わせる。


「いつ条件の良い縁談が持ちかけられるかわかりませんし」

「私たちがそこらの格下の人に嫁ぐ訳がないもの」


 自分が気に入らない男性には見向きもしないし、そういう素振りも見せない。だから皆話しかけてくる男性たちを冷たくあしらっていたのだ。


「あなたも気をつけた方が良くてよ、ムノのご令嬢」


 突然指摘をされて、首を傾げた。


「あなたったら、話しかけてくる殿方にまんざらでもないような様子で返事してらっしゃったじゃない。勘違いされたらどうされるの。お父上が代わりに殿方を遠ざけていたようだけれど」


 そう思われていたのかと驚く。


「いえ、そういうつもりではないのです。挨拶をしただけで、込み入ったお話しはしていません」


 慌てて否定した。


「挨拶も返すべきではないわ」

「それは……存じ上げませんでした」


 私の返答を聞いた一人がわざとらしく悲鳴に似た声をあげた。あまりにも驚かれるものだからこちらが驚いてしまう。

 挨拶には挨拶を返すのが礼儀だと思っていた。テーベでは違うのだろうか。

 自分に向けられた皆の視線が冷え切ったものになっていく。同時に向けられたものが敵意だと知る。いや、それは初めからあったようにも思えた。ただ、隠れていただけで。


「知らない!?そんな世間知らずなことがありまして?」

「貴族の娘としてお生まれになったのに?本当にムノのご令嬢なのかしら」


 娘たちに攻め寄られて、いささか恐怖があった。さらに息苦しくなって一歩下がってしまう。


「不快に思われたのであればこの場で謝罪いたします。ただムノでは、このような催しはあまりなくて……」

「ムノは随分と田舎なのねえ」


 私の言葉を一人の娘が遮った。


「王家と同じくらいの歴史を持つという一族のご令嬢がこれでは、落ちぶれたという噂は本当なのかしら。せっかく王家からムノという大きな都市を任せられているのに」


 家を馬鹿にされているのだと気づき、唇を引き結んだ。


「だから、父君は兄君たちを王宮に入れているのよねえ」

「あら、そのようなご家庭のお話をするなんて失礼ですわよ」


 くすくすと彼女たちが嗤う。これは嘲笑だ。初対面と言っても過言ではないこの状態で何故ここまで言われなければならないのか。


「その目の色も、この国の者にはないものだわ」


 私の、兄たちとも違うこの目の色のこと。


「異国の血でも混じっているのかしら。もしかして、イウヤ殿の実のご息女ではないのでは?」

「だから簡単な嗜みも教えられず、この年まで生きてきたの?」

「ありえないわ」


 彼女たちは私を囲んで小さく笑い声を立てた。

 ここで飛びかかったりなどすれば、それこそ父に迷惑がかかる。

 こういう場所での身の振り方を知らなかった。こんなにも敵意を向けられることなど、生まれてこの方なかった。

 ならば、どうすれば。

 世話係として同席している王家の女官に告げれば良いのだろうか。いや、彼女たちは王家に仕えている者たちだ、王家ではない者、それも貴族の娘たちのいざこざに関わることはしないだろう。実際、この会話を聞いていても静かに立っているだけなのだから。


「私たちが冷たいものだから、返事をしてくれるあなたの方に皆寄っていたわ。あなた、貴族の殿方に色目を使ってどうするつもりなの?」

「あの場で話した殿方全員に取り入るのかしら?さすが、ムノのご令嬢は違うのねえ」


 一度深く息を吸って前を見据えた。


「そのようなつもりは御座いません」


 あくまではっきりと答えた。あまりに響いたこちらの声に、一瞬周りが眉根を潜めて怯んだのを見た。


「私にはまだ縁談も御座いません。して、船上の殿方のご挨拶にお返事させて頂きました。挨拶をして下った方を無視する方が、人としてどうかと思いましたので」


 むっとした顔で彼女たちは黙った。言い返されたことが気に食わなかったように見える。


「まあ、本当に何も知らないのね」


 低い声で呟いた一人が私の目の前にやってきた。

 何も知らないのは本当のことだ。私は、貴族の嗜みや慣習など真面に知ろうとしないままここまで生きてきた。


「この国にはなかなかいない色の目ですもの、生まれもこの国ではないのでしょう。ここはそのような目を持つ者が乗る船ではなくてよ。降りてはいかが?」


 これは完全なる敵意だ。私はここで萎縮するような弱い田舎娘ではない。


「私の目は母から生まれた時よりこの色です」


 毅然とした態度で、ゆっくりと事実を告げた。


「異国の者の血が入っているとあなた方は言いたいのでしょうが、現に今の王子アメンホテプ・へカワセト殿下の母君も異国ミタンニの方であったと聞き及んでおります。異国の者の血が入っていることを蔑むことは我が国の王家を愚弄することと同じとなりますが、それでよろしいですか」


 私を囲む彼女たちの顔がさっと青ざめる。王子の出自にまでは気が回らなかったらしい。侍女たちも聞いているから余計に焦燥を浮き彫りにしている。

 さあ、何なりと私の揚げ足を取ればいい。その分私は言い返す。ここで負けたりはしない。彼女たちにとって私は田舎者だろうが、あれこれと馬鹿にされる謂れはない。


「放っておきなさい」


 私が令嬢たちと相対していると、ひときわ美しい声が響き渡った。


「ファラオの船がいらっしゃるわ」


 周りにいた皆がさっと私から離れ、船の奥でゆったりと腰を下ろす女性の回りに集まりだした。

 その女性は息をのむほど美しい人だった。切れ長の目に、細い顎に、ほんのりと赤くした頬元。すらりとした背。豊かな胸元。自分に似合うものを知り尽くしているような美しい衣。優雅なたたずまい。王家の娘かと思えるほどのものが彼女にはあった。


「こちらへ戻って、続きを」


 返事をした周りの娘たちは彼女の周りについて、また神々を讃える歌を歌い始めた。

 その美しい人と目が合ったが、つんとした彼女は私から目を背け、ナイルへ目を向けた。その先には大きな船がある。王家が乗る船だった。

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