催し


 えいや、とよじ登った屋敷の塀を飛び降りる。一気に近づいた地面に足を伸ばして着地した。

 朝の涼しげな空気が胸を満たす。ナイルに近いためか、少し霧がかっていたが、街の中心からは朝の賑やかさが聞こえてくる気がした。

 深く呼吸をして、胸を張りながら空を仰ぐ。まだ少し暗い空を白く照らし出すラーの光は美しい。まるでテーベの街へ繰り出すことを神々が後押ししてくれているかのようだ。

 長い髪は一つに束ね、身を包む上着の帽子に隠している。数年ぶりに身に纏った男物の衣はとても動きやすい。この服装を選んで正解だった。町人の少年に見えるよう、少しだけ顔も汚して、何度もラジヤと確認しながら女に見えないようにしてみた。顔を見られないように深く上着を被り直す。この格好で私は街へ繰り出すのだ。


「さあ、ラジヤ。あなたの番よ」


 振り返って、いまだに塀の上にいる男装のラジヤを見上げた。

 父に仕える従者や兵たちに気づかれないように正門を避けてこの道を選んだのだが、彼女は高さに怯えて降りて来てくれない。


「無理です!こんな高いところからなんて!お嬢様じゃないんですから」


 彼女はとんでもないと首を振る。


「大丈夫、ひょいっと飛ぶのよ!ひょいっと!」


 飛んでみてしまえば案外大丈夫なものだと説得を試みる。


「そんな簡単じゃないですってば!」

「でも早くしないと時間がなくなっちゃう。ほら、私が受け止めてあげるから!」

「ああもう!!わかりました!!先に行かないでくださいね、待っててくださいね!?」


 ラジヤは身体の向きを慎重にゆっくり変えて、塀にへばりつきながらこれでもかというくらいにゆっくりと降りて、時間をかけて地面に降りたった。

 ふう、と大きく肩で息をついて、彼女は腕で額の汗をぬぐうと、目をぱちぱちさせて私に向き直る。


「さあ、どこへ参りますか?」


 嬉しくなってラジヤの手を握った。時間は限られているが、これから冒険が始まる。この神の都をこの足で、誰にも邪魔されず自由に歩ける。そう思うだけでどこかへ飛んで行けそうだ。


「ラジヤは昨日街を回っているのだものね。まずはラジヤのおすすめのところに行きましょ」


 さあ、と彼女の手を引いて私は大股で歩き出した。





 眠らぬ街と言えど、さすがに朝は微睡みに満ちている。陽が昇るにつれて音が増え、人がちらちらと見え始めた。そして中心地につく頃にはまた都ならではの活気を取り戻していた。街の目覚めを見たような気分だった。

 最初にラジヤが前もって選んでくれた私が好むであろうお店を回っていった。異国の商品を売るお店や珍しいパンを売っているお店、見たこともない斬新なデザインの髪飾りに、腕輪など装飾品を売るお店。都の学び舎も遠目から見て、そこから繋がる聖なる死者の家も外観を眺めた。中も見たかったのは勿論だったが、自分が今していることを考えるとさすがに出来ず、外観を眺めるだけで我慢した。

 あの中で私の知りたいことが繰り広げられているに違いない。粘土板を持って学び舎に入っていく少年たちが羨ましくて仕方がなかった。

 時折人ごみに飲まれそうになりながら、売られている珍しい花を見て、気に入ったものを購入したのだが、売り人からしてみれば、少年二人が花に関してどれがいいと額を擦り寄せて相談をしている光景は奇妙に見えたに違いない。

 そのまま歩いていけば、若者たちが芸をしていたり、格闘をしていたり、力比べをして観衆を集めていた。芸に拍手をし、笑いながら見事な技に感嘆を漏らす。口笛を高らかに吹き鳴らす者や、手持ちのものを楽器に変えてダンダンとたたき出す者もいた。その熱気と興奮に満ちた世界で、私はラジヤと一緒に口を大きく開けて笑い合う。


 タニイから聞いた通りだ。テーベは活気に満ちている。ここにいるだけで楽しい。何にでも興味が沸く。大きな学び舎がある。人々が生き生きとしている。楽しさに自然と足が踊り出す。


「ラジヤ、私、ここに来られて良かった!今が本当に楽しいのよ。一緒に来てくれてありがとう」


 頬を紅潮させるラジヤは私の言葉に何度も頷いて「私もです」と言ってくれた。自分の頬にも熱を感じる。きっと私の頬もラジヤと同じように真っ赤になっているに違いない。

 これでもかと買い物をして、気づけば時は正午に差し掛かろうとしていた。

 まだまだ回りたいところはある。だが父に見つかっては大惨事だ。


「お嬢様、そろそろ戻りましょう。早めに戻らないと旦那様がお屋敷に帰ってしまわれます」


 ついに耐えかねたラジヤが私に告げた。


「……そうね、もっと回りたかったのだけど」


 正直なところ、名残惜しい。

 きっと私はこの街の素晴らしいところをほんの少ししか知らないのだ。少しだけ見て回れればいいと思っていたのに、結局は少し見たらもっと、もっと、と欲張りになる。


「さ、帰りますよ」


 口を尖らせる私の肩をラジヤが押して帰路につかせようとした時。


「さあ!剣の腕を試したい奴はいないか!」


 背後からそんな男の声がした。

 弾かれたように振り返ると、剣を模した棒を持つ、威勢の良い若者たちが集まっている。周りには観客らしい人々もいた。


「この大いなる都の民で最も強いのは誰か!この場で力比べをしようじゃないか!集え、強者どもよ!」


 瞬時に気持ちが昂るのを感じた。私が都へ到着した際に見たいとせがんだ剣の試合が、今まさに始まろうとしていた。


「ごめんなさい、少しだけここで待っていて」


 買ったものをラジヤに押し付け、自分の好奇心が突進するまま私は走り出した。ラジヤが荷物を抱えながら悲鳴に似た声で何かを叫んだが、謝るだけ謝って振り切った。


「すぐ戻るから!」


 少しでいいから見たかったのだ。父や兄たちの剣術しか知らない私が、他の多くの人々の技を見ることができる。

 始めを少しだけ見られたら満足だ。それを見てから屋敷に向かっても十分間に合う。

 息を切らしながら人ごみをかき分けて中心へ進んだ。つま先立ちになって試合開始をしばらく待ったが、一向に始まる気配がない。


「どうして始まらないの」


 観戦に来たらしい初老の女性が催しを切り盛りしている様子の男に尋ねた。皆も同じような文句を口々に言い合っている。


「あと二人申し出れば始まるよ。参加できそうな知り合いはいないかい、ばあさん」


 どうやら人数が足りないのが原因のようだ。今8人集まっているようだから、10人になったところで始まるらしい。

 陽の位置を見る。そろそろ帰路につかなければ大目玉を食らうことになる。

 焦燥に駆られていると、隣に立っていた人影が前に一歩大きく動いた。身長が私より頭一つ分ほど大きい男性だった。


「私が出よう」


 上着の帽子部分を深く被った彼は手を挙げて声を張り上げた。父のように威厳のある言い方に、周囲の誰もが彼に注目した。まるで声に人々の視線が引き寄せられるように。

 暑くないのかと心配になるくらいに上着を深く頭からかぶっており、顔はよく見えなかった。


「おお、威勢の良い兄ちゃんだな。さあ来い、気高き強者のご登場だ」


 喜んで彼は受け入れられ、歓声を浴びながら屈強ぞろいの中に入っていった。体格の良い集団の中にひょろりとした青年が厚着で混じっている様子はとても滑稽だった。そして全身を隠すように上着で覆う彼の格好は更に目立った。


「よう、小僧」


 突然隣から肩を掴まれ、驚いて振り返った。私の肩を掴んでいたのは中年の酔っ払った男性だった。口から漂う酒の匂いに咽せそうになる。


「あいつと同じ格好してるな、友達か」


 咄嗟に鼻をつまみながら、小僧と呼ばれたのが自分だとそこで気付いた。


「あ、いえ……」

「友達と一緒に出てこいよ。ほら」


 こちらの返答などお構いなしだ。否定したのに、男は私の腕を掴んで参加者の中に押し出した。同時に自分が、先に名乗り出た若者と寸分違わぬ恰好をしていたことを今ようやく思い出した。


「あの、私は……!」


 押されて群衆の中心へ飛び出た私の手をすかさず主催者の男が掴んだ。


「おお、ここにも若き強者が!ずいぶん小柄だな。さっきのやつの友達か?まあなんでもいい、最後に名乗り出たお前で幕を開けよう」


 参加者と同じ剣に見立てた棒を投げられ、それを受け取った私は群衆で作られた円の中心に一人立っていた。もう戻れないと思い知らせるように、歓声が四方八方から轟いた。


 ──どうしよう。


 頭の整理が追いつかないまま、参加者の中から大男が怖い顔で私の向かい側にやってきた。この男が私の相手。まさか。体格差がありすぎではないか。


「大男と優男の戦いで始まりだ!」


 なるほど、この体格差を見物にしようとしているのか。

 ぐっと棒を握りしめた。

 投げられた棒は、持ち慣れた剣より幾分か長い。槍のように突いて使う方が無難だろう。

 全身の血が足先から棒を握る右手に流れていくように右手が熱くなった。覚悟を決め、帽子を深くかぶり直して身構える。足を開いて地を踏みしめ腰を落とした。

 慌てる自分の中に、妙な闘争心のようなものが小さく灯っていた。

 今まで父と兄以外の男を相手に戦ったことがない。軍事を牛耳る父の娘として、自分がどこまで男相手に戦えるのか興味があった。

 最初に動いたのは相手だった。大きく振りかぶって棒を振り落とす。力はあるが、私の動きに追いつかない。

 無駄な動きが多い。振りかぶる度に腹ががら空きだ。

 そうと分かると、ひょいと飛んで避けたついでに棒を腹に打ち付ける。そのまま振り回して肩を打ち付け、相手の体勢が崩れると足元を狙って鋭く前に打ち出した。相手の足はそれに躓き、大きな体は観衆の前に倒れ込んだ。

 その瞬間、観衆から大きな歓声が上がった。


「なんてことだ!少年の勝利!!!」


 大きく息をする。


 私が、勝った。

 男に勝った。女でも勝てた。


 頬が紅潮した。自分の口元が自然と笑むのが分かった。

 ああ、楽しい。

 昨日のような煌びやかな場所よりも、私にはこういう場所の方が合っている。私らしくいられる。


「さあ、次にいくぞ!次も優男だ!」


 私の代わりに出されたのは、私の前に名乗り出たあの青年だった。彼もまた屈強な男を相手に向かい立っている。

 青年の身のこなしや技は見事だった。美しさを覚える動きだが容赦はない。私とは違い、力がある分それを上手く利用している。そして瞬く間に彼は勝利した。こんな見事な動きをする民もいるのだと感心した。一体どこでその武術を習ったのだろうか。

 彼と一戦交えてみたい。それが素直な感想だった。

 過ぎていく時間など忘れ、昔のように兄の真似した口調で他の参加者と話しながら観戦していく。こんな戦い方もあるのだと学びながら自分の番が再び回ってきた。素早い立ち回りのおかげか私は四戦目まで勝ち上がっていた。

 そしてその四戦目の相手は、念願のあの青年だった。

 互いに顔を隠すかのように深く着込んで相対す。どのような相手なのか気になるところだが、勝つ他に私に目的はない。

 凝視するような様子になったのを隙ありと瞬時に棒を振り上げる。相手の棒も私の肩をめがけて打ち出された。何度も同じような攻防が続き、時間が経つにつれて私の方が劣勢になりつつあった。これが男女の差だと思うと悔しくなる。

 想像通りの戦い甲斐だ。今までのようには行かない。


 ──さあ、どうする。


「お嬢様!!!」


 突如、聞き慣れた声が観客側から放たれた。はっとして振り返ると観客の中にラジヤがいた。血相を変えて大きく目を見開いている。

 その瞬間、耳の傍で風の音がした。棒が風を切った音だ。

 あっと腰を屈めると、相手が突いた棒が私の纏った衣に引っかかり、私の頭部が露わになった。

 戦いの激しい動きのせいで解けていたのか、一つに束ねていたはずの髪がばらばらと広がって顔の傍に落ちてくる。


 ──髪が。顔が。晒された。


 そうと分かると反射的に棒を手放し、自分の両頬に垂れる髪を両手で抑えるように掴んだ。隠しきれるはずがないのに、そうせずにはいられなかった。

 相手はひどく驚いた様子で唖然と私を見つめている。彼の見開いた目元だけが大きく見えた。長い睫が陽の光で影を落とし、その中に夜の闇のような瞳があった。

 こんな時にも関わらず、その目元を美しいと思った。


「……お、女だ!!」


 どこからともなく放たれたその一言を合図に、女だ、女だ、と周りから騒然とした声があがった。

 慌てて衣を頭に被り直す。こんなところで騒ぎを起こしたらどうなるか。


「お嬢様!こちらへ!」


 ラジヤに駆け寄ろうと振り返ると、見知った顔がラジヤの背後に増えていた。誰であるか知るや否や、自分の血の気が引くのを感じた。


「ティイ!!」


 弾けたのは紛れもない父の怒声。それとともに、多くの父の従者が観客たちを押しのけて前へ出た。


「捕らえよ!!」


 馬上の父が私を指さして叫んだ。

 逃げなければとあたりを見渡すと、今まで戦っていた青年と目が合った。父の従者たちから逃げるためには、正反対の彼の後ろを突破するしかない。


「どいて!」


 咄嗟に青年を押しやって駆け出した。唖然とする人々の間を潜り抜け、捕まるわけにはいかないと足を動かす。

 逃げても意味がないのは分かっている。ただ、父がどれだけ怒っているかに気づいたら、足はこれでもかと走り出していた。父のあんな顔は見たことがない。捕まったらきっと屋敷に閉じ込められてしまう。


「誰かあの愚かな娘を捕まえてくれ!誰か!!私の娘だ!!褒美を出す!」


 父の声が響き渡る。

 観衆の輪を抜けた少し先で背後から腕を掴まれ、反動で後ろに転びそうになった。


「捕まえましたぞ!」


 父の従者だった。

 この体勢ならば、薙ぎ倒して逃げることくらい──。


「なりません!」


 従者は私を放すまいと力を籠め、大きく叫んだ。振り返った先に見える彼は、大きく首を横に振り、悲しそうな顔をして続けた。


「これ以上致しますと!!もう一生外に出してもらえなくなりますぞ!それでもよろしいのですか!!」


 もっともな説得に諦めに似た感情に覆われ、全身から力が抜けた。晒された長い髪が憎たらしく風に吹かれて大きく靡く。

 やがてラジヤを後ろに連れた父が今までにないくらいの形相で私の前にやってきた。


 ──もう終わりだ。


 私は目を閉じて俯いた。


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